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雀庵の「常在戦場/112 続・男の人生は女房次第のような・・」

2021-11-14 10:00:13 | 日記
雀庵の「常在戦場/112 続・男の人生は女房次第のような・・」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/392(2021/11/14/日】小泉八雲ことラフカディオ・ハーンを支えた奥様、セツさん(通称は節子、節)の「思い出の記」から。(ヘルン=ハーン)


<ヘルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。ついて間もなく会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。


ヘルンは見る物聞く物凡て新らしい事ばかりですから、一々深く興に入りまして、何でも書き留めて置くのが、楽しみでした。中学でも師範でも、生徒さんや職員方から、好かれますし、土地の新聞もヘルンの話などを掲げて賞讃しますし、土地の人々は良い教師を得たと云うので喜びました。『ヘルンさんはこんな辺鄙に来るような人でないそうな』などと中々評判がよかったのです。


しかし、ヘルンは辺鄙なところ程好きであったのです。東京よりも松江がよかったのです。日光よりも隠岐がよかったのです。日光は見なかったようです、松江に参りましてからは行った事がございませんから。日光は見たくないと云っていました。しかし、行って見ればとにかくあの大きい杉の並木や森だけは気に入ったろうと思われます。


私の参りました頃には、一脚のテーブルと一個の椅子と、少しの書物と、一着の洋服と、一かさねの日本服位の物しかございませんでした。


学校から帰ると直に日本服に着換え、座蒲団に坐って煙草を吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りました。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤しんだように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似をしますか』と云う調子でした。これは面白い、美しいとなると、もう夢中になるのでございます。


私が申しますのは、少し変でございますが、ヘルンは極正直者でした。微塵も悪い心のない人でした。女よりも優しい親切なところがありました。ただ幼少の時から世の悪者共に苛められて泣いて参りましたから、一国者で感情の鋭敏な事は驚く程でした。


熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩ヘルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。


又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。


よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』


(東京暮らしの)ある時、いつものように瘤寺(ふし寺、新宿区富久町)に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。


『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。


淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申していました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さえありませんでした。


著述に熱心に耽って居る時、よくありもしない物を見たり、聞いたり致しますので、私は心配の余り、余り熱心になり過ぎぬよう、もう少し考えぬようにしてくれるとよいが、とよく思いました。松江の頃には私は未だ年は若いし、ヘルンは気が違うのではないかと心配致しまして、ある時(恩人の)西田さんに尋ねた事がございました。余り深く熱心になり過ぎるからであると云う事が次第に分って参りました。


怪談は大層好きでありまして、『怪談の書物は私の宝です』と云っていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。


淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談を致しました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に声を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いて居るのです。その聞いて居る風が又如何にも恐ろしくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。


私は折々、恐ろしい夢を見てうなされ始めました。この事を話しますと『それでは当分休みましょう』と云って、休みました。気に入った話があると、その喜びは一方ではございませんでした。


私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。


話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。


私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。『アラッ、血が』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ってたでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。


『怪談』の初めにある(耳なし)芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。中々苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないと云うので、色々考えて『開門』と致しました。


この「耳なし芳一」を書いています時の事でした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目(めしい)です、あなたはどなたでございますか』と内から云って、それで黙って居るのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いて居る時には、その事ばかりに夢中になっていました。


又この時分私は外出したおみやげに、盲(めくら)法師の琵琶を弾じて居る博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見ると直ぐ『やあ、芳一』と云って、待って居る人にでも遇ったと云う風で大喜びでございました。それから書斎の竹籔で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと『あれ、平家が亡びて行きます』とか、風の音を聞いて『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。


書斎で独りで大層喜んでいますから、何かと思って参ります。『あなた喜び下され、私今大変よきです』と子供のように飛び上って、喜んで居るのでございます。何かよい思いつきとか考が浮んだ時でございます。こんな時には私もつい引き込まれて一緒になって、何と云う事なしに嬉しくてならなかったのでございました。


『あの話、あなた書きましたか』と以前話しました話の事を尋ねました時に『あの話、兄弟ありません。もう少し時待ってです。よき兄弟参りましょう。私の引出しに七年でさえも、よき物参りました』などと申していましたが、一つの事を書きますにも、長い間かかった物も、あるようでございました>(以上は一部、全文は青空文庫で読める)


夫唱婦随というのか、セツ夫人との出会いがなかったなら、これ程までにハーンの作品は読み継がれなかったろう。セツさんは御一新による没落士族の典型のような苦労人である。ハーンとの出会いは何やら神の意向のような感じがするが、「それ、いけないですか」・・・


<1868年(慶応4年)2月4日、松江(現島根県の県庁所在地)に生まれセツと命名される。父は出雲(島根県東部)松平家の番頭で家禄300石の小泉弥右衛門湊、母はチエ。生後7日で親類で子供の無かった家禄100石の稲垣家の養女となる。幼いころから物語が好きで、大人たちから昔話、民話、伝説などを聞いて育った。


明治維新で士族は家禄を失い困窮した。節子の稲垣家も没落したため、小学校を優秀な成績で卒業し上級学校への進学を希望したにもかかわらず11歳から織子として働き家計を助けた。節子が18歳の時に稲垣家は士族の前田為二を婿養子として迎えるが、為二は困窮に耐えられず一年足らずで出奔。1890年(明治23年)、22歳の初めに正式に婚姻関係を解消して小泉家に復帰した。小泉家も困窮しており、1891年2月頃、一人住まいのハーンの家に住み込み女中として働き始めた。


同居して約半年を経た7月に、ハーンは同僚の英語教師(かつ恩人)の西田千太郎と出雲大社近くの稲佐の浜を訪れ約半月滞在したが、ハーンは2日目には節子を呼びよせて仲よく一緒に行動しており「住み込み女中」という扱いではなかった。また8月11日にハーンが友人に出した手紙には節子との結婚を報じている。


1891年11月に八雲の転勤で夫婦は熊本に転居。節子は八雲との意思疎通のために英語を勉強するが結局ものにならなかった。しかし八雲が語る片言の日本語の「ヘルンさん言葉」を節子は正確に理解し、夫婦はお互いに意思疎通ができた。熊本では長男の一雄が誕生した>(WIKI)


セツ夫人の小泉家は代々、出雲大社の宮司を勤める「千家」の血筋であったようだ。出雲大社のサイトにはこうあった。「八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。その中心が大国主大神様(だいこくさま)をおまつりする出雲大社です」


1890年9月、出雲大社に参拝したハーンが外国人として初めて昇殿を許されたのも夫人や西田の存在が大きかったに違いない。。


ハーンとセツの次男、巌(いわお、京都府立桃山中学校英語科教員)は稲垣家を継いだが、彼を紹介するWIKIには「母 セツ 第75代出雲国造千家俊勝の次男千家俊信の玄孫」と書かれている。神道的なものがハーンの作品に色濃いのはその影響のようだ。「ある英語教師の思い出 小泉八雲の次男・稲垣巌の生涯『父八雲を語る』」(青空文庫)から。


<多種多方面の物語の材料はどこから出たか、何を通じて(父)ヘルンに供給され、ヘルンのペンで改作されたかと申しますと、これは全部ヘルン夫人(セツ)の口伝によってゞあります。


元来、ヘルンは日本語の知識は殆ど有って居りませんでした。日本語の研究などして居ては自分の天職を果す間に合はないといって、日常の談話の出来る程度の日本語と、片仮名、平仮名、それにほんの少数の漢字の知識で満足してゐたのですから、日本の書物の読書力は全然ないのです。


それに日常の会話と申しましても夫人との間に於てのみ完全に通用する英語直訳式の一種独特の言葉でありました。わたくしの兄は母に次いで中々上手でしたが、私も父の死ぬ一、二年前頃から、言はれる言葉を聴き分ける事だけは出来ました。


これを「ヘルンさん言葉」と名づけて居りましたが、例へば「テンキコトバナイ」といへば「天気は申し分なくよろしい」といふ意味です。それから、例へば「巌は遊んでばかりゐるから悪い。これから少しの間勉強する方がよい」といふ意味を表すには「イハホ、タダアソブ トアソブ。ナンボ ワルキ、デス。スコシトキ ベンキョ シマセウ ヨキ。」


まあこんな調子ですから、英語を知らないよその人とは中々話が出来ません。ですから立派な文学的材料を持った体験者などを見付けても、必ず夫人が間に立って通訳しなければなりませんでした。


「怪談」の世界はヘルンの作の特質なのでありますが、ヘルンをさうした傾向におもむかしめた一つの原因は勿論彼の趣味であります。空想の国、霊魂の世界に奇しき光を放つ怪異なるものゝ美しさ! 之はヘルンの異常な趣味性癖に適ふものであります。


もう一つの原因は、日本の怪談の中にひそむ民俗精神――信仰、思想、これがヘルンの心、ヘルンの思想に暖く共鳴したからだらうと思ひます。例へばヘルンの固執した万有は同一なりとする思想、或は吾等の胸の底に原始祖先の霊魂が眠ってゐるといふ思想――かういふ仏教的な輪廻の思想は日本の怪談にまことに手ぎはよく具表されてゐるのであります。


然し趣味に適ふから、思想を裏書するからといふやうな自己本位の立場からでなく、さういふ理由は別に致しまして、怪談そのものの文学的価値はどうであるか。架空的なるもの、超自然的なるものの文学上の取扱に於て、果して如何なる芸術的価値をヘルンは認めてゐるのかと申しますと、彼は「小説に於ける超自然の価値」と題する講義のうちにかういって居ります。


「凡て大芸術にはそのうちに何か幽霊的な分子がある・・・詩人や小説家にして、時々読者に多少怪談的興味を与へる事の出来ない人は、決して真に偉大なる作者でも偉大なる思想家でもないのである」(昭和9年11月15日ラジオ放送の遺稿より)>


「吾等の胸の底に原始祖先の霊魂が眠ってゐる、民俗精神、信仰、思想、霊的な分子」・・・神道は天地、自然という霊的な、聖なるものへの畏怖、畏敬、感謝、感性がベースにある。ハーンはそれを理解、というか感じることができた。


彼は父がアイルランド人だが、祖先は紀元前260年頃にアイルランドにやって来たケルト人かもしれない。そのケルト人の初期の宗教は自然崇拝の多神教であり、現世と来世は連続的であるとされ、輪廻転生と霊魂の不滅を信じていたという。また、ギリシャ人の母は、主神ゼウスが他の全ての神々を支配するという多神教の影響を受けていたろう。


そういう素地のあったハーンは、両親の離婚(母との離別)、父の再婚(父との離別)など家庭の事情により、幼い頃から規則一点張りのようなガチガチの一神教であるキリスト教信者やキリスト教学校に預けられていたというから、聖書のような人工的で胡散臭い、他の宗派や文明文化を邪道として排除するキリスト教にはウンザリしていたようだ。キリスト教とは大きく異なる日本の神道の謙虚さや穏やかさに触れたハーンは、奥様セツさんとの運命的な出会いもあって日本に引かれていったに違いない。


嘘か誠か知らないが、ソクラテス曰く「良妻なら君は幸せになれる、悪妻なら君は哲学者になれる」。女房を良妻にするか悪妻にするか、まあ半分以上は男の責任のような・・・売れない芸術家と結婚した女友達は、「あんた一人ぐらい食わしてあげるわ!」と亭主にはっぱをかけていたが、40年経ってもご亭主が名をあげたという話は未だ聞かない。素材がよろしくないとパートナーがいくら頑張っても花は咲かぬか。まあ、一人ぽっちでは淋しすぎるから、割れ鍋に綴じ蓋でもいい。諦観しなければいつか青空が見える・・・そう信じてご先祖様は命のバトンをつないできた。


そのバトンは自然への畏怖と共棲をベースにした神道ではないか。次回は「神道=となりのトトロ」説を考えたい。宮崎駿はただのアカではなさそうだ。
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目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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