AManTo天然芸術研究所

大地のため、時代のため、消費されないアートを求めて…
EART(天然芸術)の今を紹介するブログ

今日はBPC(バーペーシー)の日?

2005年08月31日 | Weblog
今日はBPCの日BPCと書いて「バーペーシー」と呼ぶ。バースデーパーティークラブの略だった。
この1年世話役を買ってでてくれた栗ちゃんたまちゃんコンビの「台風一過」が
ウクレレと縦笛でバースデーソングを奏でる。
そして、今日は天人会計係りを3年間勤めてくれた、ゆみちゃんの卒業式でもある。
誕生日の皆さん、本当におめでとう!生まれてくれてありがとう!
そしてゆみちゃん3年間ご苦労様!!

このイベントは月一回、その月の誕生日の人に声をかけて皆でお祝いをするという
もの。
このイベントの歴史は古く、今を去ること20年前、
名古屋の千種のとあるマンションで始まった.
男同士でルームシェアをしていたKは
僕のとなりの部屋。親友のIに誕生日を祝ってやりたかった。
子供ならまだしも、大きくなってからの誕生日は、こっぱずかしいもの、
ましてや祝う側はさらに恥ずかしい…。(祝いたいのに祝えない)
日が迫るにつれ募っていった。
Kはついに苦悩のあるがままを同期の友達みんなに相談した。
相談の結果、ドッキリ誕生会にしようという事になり作戦が開始された!
Bの誕生日当日、そ知らぬ顔のカワイイコちゃんCが
公園にIを呼び出した。恋の悩みの相談と称してのウソだった。

そこへ円形滑り台の裏に隠れていた皆がローソクをつけたケーキを持って登場!
Iを取り囲んで、皆でハースデソングを合唱したのだ。

照れて、オメデトウがいえなかったKが、同期の皆に囲まれて、
満面の笑みをたたえてバースデーソングを歌っている。
僕はKの顔を忘れられない…。
これが記念すべき第一回のBPC。
それから手を代え品をかえ、この習慣は20年間続いている。
誕生日を祝う世話役も代々受け継がれ、僕の周りでは心ある人の連鎖が続いている。
当初、BPC(バーペーシー)という名前で手書きの新聞を発行していた、僕はその初代の編集長だ。
思った…、人は大人になると誕生日を祝うことがなくなる。
子供の時ってプレゼントやご馳走を楽しみに誕生会をしていたが、
本来、誕生日は自分がこの世に生まれた意味合いを考え、
人のつながりの中で生かされている事を
感じる事のできる日なのだと…。
大人になってそういう事を考えられる事ようになってこそ
誕生会はするべきなのではないか…。

僕はこの素敵な出来事がなんとか広まっていかないかなあと思った。
そしてBPC(バーペーシー)が生まれた。

今天人で毎月続いているこのイベントに案外古い歴史があることは
ほんの一部の人しかしらない。
20年の時をへてやっと一つの文化として根付いてきているのを感じる。
1万年続く文化にしたいと考えた時、
組織を立ち上げたり、宣伝活動をしたりするのはタブーだ。
ましてや、会費を取ったり、会則を作ったりすれば、もって100年がいい所。
大切な事は本質だけを押さえ、変化を受け入れ、立ち消えそうになった時少し風を送る。
けして目立ってはいけない…。熟成を待つ。
次第に手を離れ、参加する人に意義が生まれれば、その文化は
普遍の魂を得て、世界へと旅立つのだ。

僕の計画では、そろそろ、このミーム(文化の遺伝子)が
タンポポの種のように世界に飛び立つ頃なのではないかと感じている。
どうですか?皆さん!
BPC(バーペーシー)、この入会も退会もない永久会員クラブに皆さんも参加してみませんか?
これを読まれた方の心にBPC(バーペーシー)の種が届かんことを祈って
世界で好き勝手なBPC(バーペーシー)が拡がらんことを!
今日集えし仲間にココロから乾杯!

尾川耕が、きた!

2005年08月30日 | Weblog
今日は親友の尾川耕が長野県からやってきた。
学生さんのあるWSでファシリテーターとして呼ばれ、
大阪入りしているらしい。
もともと関西出身の彼は長野県白馬村でウエブ関係の仕事をしながら、
アートコーディネートをしている人。
彼とは毎夏、白馬の観音原(森の中にお地蔵さんが187体、丸く囲った聖地、
長野県の塩の道の途中にある)で、
「EART PUMP」という芸術祭を開催してきた。

EARTは僕のライフスタイル進化系ARTであるEARTだ。
EARTHのHをとって名づけた。
長いことこのコンセプトの日本語訳はなかった。
彼との活動の中でそのコンセプトを漢字圏の人々にわかりやすくつたえようと
「天然芸術」という名を二人で考えた。
伝統芸能でも商業芸術でもない、大地のための芸術「EART」…!

自然界の物質はすべて循環しその分泌物は他のために役立っていく。
しかし人類の考えたARTだけがゴミをだし、
消費される事を目指して時には争いの元になることもある。
天然芸術は消費されず、積み重なる芸術…。
堆積し、発酵する、大地のための芸術活動なのだ。
僕ら人類が「今のテクノロジーを持ったまま
いかにこの星の生態系に帰っていくか」をテーマにした芸術。

EART PUMPは事実上そのEARTをコンセプトにした、
世界唯一のフェスティバルなのだった。
(ちなみの大阪の実験カフェAManTo天人も、
このEARTの作品であり、EARTムームメントを世界発信する目的で
作られ、計画された作品だ。)

…なのだったというのは今年、資金難のため長年続けてきたEART PUMPは中止する破目になったからだ。

彼とは夜中まで話し合いをした。今後どうしていくか…。
いくらいいものでも現実世界の経済からは逃れられない!

僕は、この祭り自体のコンセプトをより具体化して
展開していく時期にきているという話をした。

祭りとして芸術を楽しむ事5年。
不思議なことに聖地観音原の上を通る送電線は撤去され、
去年には鉄塔も解体され
さらに原始の姿に近づいた。

白馬村の夏の観光の目玉として始まり、僕らがコーディネイトしてきた祭りは
この地区一体の水源姫川源流の水を観音原に持ってきて、
大地に芸術を捧げるというコンセプトで続けてきたのだ。

だから観音原がよみがえり一区切り形のついた今年、
いよいよ実際のムーブメントとしての仕掛けを
動かす時がきたのではないか…と…

天人は対象とする地域が大阪中崎町という限定された場所で、
資金なし知識なしゴミなしからカフェをつくり、
そこで次世代のシステムを開発するという実験だった。
今の所、地域限定であるからシュミレーションはしやすく、
当初の計画よりやや早く、その必然は果たされている。
しかし今後の7年後までの希望されるべき計画からすると
このEART PUNPの実験結果はもっと大きく育っている必要があった。
(簡単に言うと少し遅れている…)

それは、文化創造の雛形としての「天人システム」を
他の地域で適応可能かの実験をするためには、ただ2号店3号店を作っても
なんの意味もないという考え方にもとづいている。

環境を規定して作った「天人」と環境に適応して続けてきた「EART PUNP」が「あまんとみち」で繋がることで必然達成の第一段階が終わる。

例えば、現状から可能な必然をシュミレートするなら、
今僕が作っている旅する学校「あまんとみち」の巡礼の旅という形をとって
観音原から南に旅をしながらEARTのコンセプトを啓蒙をするのだ。

「あまんとみち」各拠点を、耕の今事業家しようとしているエコディー
ゼル(廃油を精製し、車を走らせる)を使って…。

イベントとしては面白く結果も期待できる…が、
それによる地域の影響力はあまり多くは見積もれない。

色々計算してみた耕によると、どうしてもそれで事業化はできない構造らしい。
廃油の回収作業とそこから生成されるオイルのコストがビジネスとして
採算ベースに乗らない。(菜種油を最初からその目的で栽培しオイルをとるほうがまだいい…)

必然達成という方法論では結果も目的もファジーにゆらぎながら、より多くの人を巻き込める形を選ぶ。
時には目的や結果を捨て、回り道をする。
それが本当の最短距離と考える。
だから回り道は回り道ではない。

願望からは遠のいても真実の結果を悟るための道程として最短と考えるのだ。

つまり、計画は綿密に立てられてはいるけれど、
それに全くとらわれてはいないのだ。
「天然芸術」の生き方では、出会いも必然であり縁だからだ。

だから「くるものは拒まず、去るものは追わない」ということがいえる。

目的を固定化すれば、「くるものを選び、必要のないものは去らす」事になる。

勘違いしないでほしのだが、
僕らの成功を嫌っているのではない。

ゴミや戦争を生みやすい旧体質のやり方で成功しても意味がないだけなのだ。

時代に染み込んで癒着している旧体質の脳みそとは
オルタナティブな道で彼も納得する成功を収めないと
この実験は社会の変革因子のひとつに立候補はできないだろう。
(厳しい道ではある)

これらの世界中の目覚めた活動家達の確信に満ちた勇気ある行動は
多くの場合、非常識にも届かない未常識に分類される事が多い、

つまり、ほとんどの場合、普通には理解されないというだけではなく
認識すらできないのだ…。
(ひどい場合は何も考えていないように見えるだろう…)
ただ、多くの彼ら変革因子には別次元からどこからともなく
無償で無尽蔵にやってくる確固たる確信と信念だけが存在し、
粘り強く暗い闇の中を希望に輝きながら突き進ませているのだ。

その稀有な存在達は、
尊敬するノリハドル女史のいう「時代のイマジカル細胞」と
いってもいいかもしれない。

(天人を見た彼女は一目でここの本質を理解した数少ない一人だ。
たいていの場合、なんだかわからないけどいい場所ですねという人が多い中
彼女はここの目的も実験も見抜いてしまわれた。
「一緒に頑張りましょうね!」
確信に満ちた女史の言葉は今も僕を勇気付けてくれている。)

僕らは選民主義者ではない。
だから排除はよっぽどのことでない限り少ない。
なぜなら、全ての人は学びの対象であり、
教育の対象だから…。

多くの場合、彼ら「確信者」は、
彼らの偉大な挑戦を認識できない人々に囲まれている。

最悪の場合、彼らは、文句や非難を繰り返す
心無い人達に彼が囲まれている場合も多い。

旧体制の営利主義のやり方なら
一番に切り捨てられるのが自分であるとも知らず、
彼らなりの主張を繰り返し、各自のポジションだけを模索している。

しかし、学びが目的ならそれらは互いに縁ある人なのだ。(逆縁でもだ…)
たとえ遠回りをしてでも共に旅を続ける。

僕の周りは人に恵まれているので、
こういう、人々はほんの数えるほどしかいない!

さあ、これから実験は続く!
この人生、どう料理してやろうか…楽しみだ(^^)



「天然芸術」これは、個人の成功を超えた所で行われている、
人生を賭けた日本からの提案のひとつなのだ。

大阪中崎町済美公園結婚式の神話

2005年08月29日 | Weblog
写真⇒明宝周刊の皆さんと…

今日クマさんと厨房ミーティングの後、
久しぶりの友達と天人で話をしていた、
彼は僕が福岡に行っていたとき彼は実家の鹿児島にいたらしい。
彼のお父さんがなくなったのだ。

気丈夫な彼は、僕にその話をしてくれただけでなく、天人や僕のことを
すごく気にかけてくれて、どうしたら天人が経営的になんとかなるか心配してくれた。

僕は彼の話を聞きながら4年まえのある出来事を思い出していた。
中崎町にある済美公園(せいびこうえん)で知人が結婚式を挙げたいといった時の事だった。

当時の中崎町はお店は少なく、クリエーターの事務所が多かった。
お地蔵様が囲った内側に焼夷弾が落ちなかったという神話の残る下町。
古い体質の残る中崎町で、公園で結婚式!?
これは当時一大センセーショナル!
というより、町内の人たちからは理解不能の出来事!

結局相談にいった町の役員の方には
「あんたらもこの町でやっていきたいんなら、ヤカラいうもんじゃない…。」
とまでいわれてしまう。

それをいわれたらもうどうしようもない。
僕らはこれからこの地に足をつけて生きていこうとしているのだから…。

しかし安藤忠雄先生の事務所で働いていた新郎は大変忙しく、打ち合わせに参加できない。
事の自体を理解できない彼は「誰が僕たちの結婚を反対してるんですか!?」
となった。いや結婚は誰も反対してないだんけどぉ…。

事情を説明し納得させようとしても、彼自身は熱い!
「そんな事いってもね。僕だって一生に一度の事なんですから
引き下がれません!」

町会の方へ直談判にでかけた。
結果は…玉砕!

しかしその結婚式の3日前だっかたか。
地域の長老の一人がお亡くなりになられた。
この中崎町という地区。町と共に伝統やしきたりも焼け残っており
大阪駅から徒歩圏内という立地にも関わらず、お葬式は町内みんなでする。

葬式の会場に集まった長老集…そして奇跡は起こった。

その公園結婚式に最後までどうしても首を縦に振らなかった役員の方に
周りの皆さんが「悪いことしようとしているんじゃないんだから
コイツの顔に免じて、やらせてやろうじゃないか。」
と肩をたたいてくださったのだ。

コイツ…もちろん天に変えられた長老の事である。
つまり特赦がおりたのだ!!!

この奇跡のおかげで、無事、前代未聞、公園結婚式は開催され、
地元の人までも多くの方に祝っていただいた!
僕らもそれぞれ料理をつくったり、お酒を買いに行ったり、
(ちなみに僕はパントマイム芸とビデオ撮影係りだった。)

その会場に、これまた数日前に、この町の北側で父親をなくされた建築家が来ておられた。
彼はどういうわけか結婚式に参加したがらない…父を亡くした悲しみからかと思いきや、
どういうわけか葬式をすませたばかりの彼は自分自身が穢れていると思い込んでおり、
自分が式に参加すれば幸せな2人の門出を汚すと思っていたのだ。

「そんなことはないよ!」僕らに背中を押され、半ば無理やり、彼は公園の片隅から二人を祝ってくれた。

そして天人に帰ってきて南側の庭で、彼と僕、そして共通の友人、ウッシーと飲んでいた。
そのとき彼がいった。

「父が再生した…。」

意味がよくわからなかったが、彼はそういった。
「だから、もう僕は悲しくない、
式に連れていってくれてありがとう!」

そこでやっと理解できた。
彼は父の死の悲しみを乗り越えたのだ…。

沖縄では孫が生まれれば自分はそこに再生していると考える習慣があるそうだが、
人の生死は他人や肉親かかわりなく、溶け合って未来へ繋がっていくものなのだと学んだ。

そのとき、僕はここ数日間の思い出が走馬灯のように思い出された。
天人は北に広く南に狭い逆三角形の形をしている。
(南は狭いというより三角だから南はない点になって消えている)
その続きに先の話の公園がある。
ここ数日天人に訪れた、当時の町会副会長に、「お前、公園で結婚するらしいなあ!」
「いや僕は結婚しません」「何故隠すネタは割れているぞ!」
僕が結婚すると勘違いされた…。
彼らに結婚式を挙げさせてあげたい友人たちが相談に押し寄せる…。
そして父を亡くした彼が入ってきた…
そして結婚式が終わって、再生された彼…

そのとき僕にはハッキリと見えた。。
北側の4間の間口がら入ってくる様々な人たちが
化学反応を起こし南に凝縮され再生抜けていく、
そんな確かなイメージがたち現れたのだ…。

そうだ、ここは再生の場にしよう!
それがここを与えてもらった僕の役割だ。
ここのコンセプトは誰もが集うことのできる「公園」だ!

天人空家再生パフォーマンスでの一コマであり、
天人誕生直前の天人のコンセプトが決まった一瞬だった。



そんな思い出を思い出している時、偶然香港から取材のお客さん…
明宝周刊の方たちだ。
以前、明宝の方には新聞のほうでお世話になった事があり、
それ以来、香港からのお客さんもみえるようになった。
通訳の方はを通して、
僕は天人から世界へアジアのコミティの素晴らしさを世界に伝えたいと伝えた。
そして環太平洋に「あまんとみち」を作って人が人を学ぶ「公園」を作っていきたいと話した。
それを僕はその古くて新しい東洋の価値観をアートを通して世界に伝えていく…

記者の黄さんは「是非早く香港に作ってください!」そういわれた。
すると通訳の方が、貴方ダンサーなんでしょ。
私は貴方を香港に呼びたい、映像や写真など資料はありますか?と聞かれた!!
香港政府環境局の方で吉田さんという方だった。(それも地元に住んでいるらしい…)

人と人は化学反応を起こして自分を再生していく、そして新しい文化を産む。

文明は文化を否定するものではない、文化の集合体が我々の文明になったとき
この世から戦争や争いはなくなると僕は信じる。

きょうも天人で文化の化学反応は世界にあふれ出していく…!

伊藤君と出会う(^^)

2005年08月28日 | Weblog
今日は三重大学の伊藤良君の取材があった。
建築学専攻の彼はさわやかな好青年で、
町屋や古民家のリノベーションやコンバージョン(用途変更)について
レポートを書いているらしい。
僕はこの町の歴史や、僕が何故この町にCAFEをつくったか等を話した。

僕はどんな人が訪ねてきても、その人の職業や肩書きではなく
その本人と出会えるよう話すことを心がけている。

だから先方が営業や取材で来たとしても、ほとんど関係なく、
その人が自分を必要としてくれているなら、
そのことに対してできる限りの事をする。
その肩書きを持つ前にその人は様々なバックボーンを持った一個人であるからだ。

そして極端な話、彼も僕も明日死ぬかもしれないし、
今伝えたい事は伝えきらないと後悔するかもしれない…
そこまで極端でなくても、
その時、その人が自分に不必要な内容の提示をする人だとしても
その人が職業をいつまでも続けていない場合は結構多い。
自分を見失い不本意でつらい仕事をしている人ほどその傾向は高い…。

人生は色々あるから…。


僕の話は脱線するかもしれないし、関係ない話をする事も多いと思うけど
その人との一期一会の方が僕にとっては遥かに大切な事。
だからその人に伝えたいと感じた事を全力で話す。
みな面食らう人も多い。
しかし、その事の大切さは体験的によく知っている。

おかげで、
今まで雑誌やメディアの取材に来た人が、何年たっても連絡くれたり、
未だに色々な相談を持ちかけてくれる人も多い。

あの時はお世話になりましたと訪ねてくる人…
今度は僕の役に立ちたいといって戻ってくる人もいる。

こんな事もあった。
セキュリティーの営業をしにきた人がいた。
僕が「ここは貴方のいう誰も入れないようにするセキュリティーではなく
誰でも、いつでも入れるという事でセキュリティしています。」といった。
そして僕の考える新しい未来のセキュリティーについて様々な提案をした。
最初は目を丸くしていた彼も僕が本気でいっているのを知り、
どうやら彼らの仕事に僕が本気で役に立ちたいと
思っているかもしれないと感じたようだ。

次第に丸い目の置くから穏やかな光が見えてきた。
「本当に楽しい話だけど一営業マンの自分には
そこまで踏み込んだ権限がないのです」彼は寂しそうだった。

ノルマもあるだろうし、売らないといけない商品も当然あるだろう…
サラリーマンとして当然の事だ。
僕の色んな提案に彼は終始、本当に申し訳なさそうだった。

そして色々な個人的な話になった時、
このCAFEに手作りの暗室があるという話になった。

彼の父親が元気なとき写真が趣味だったらしく熱心にその話をしてくれた。
後日、ある晴れた日曜日だった…彼は自分の父親の手を引いて訪ねてこられた。

「人と人との出会いを出会いきる。」
そこからが全ての天然芸術の始まりであると思っている。
自分の人生自体を芸術にしていきたい…そう願う僕にとってそれは、
互いの目標は目的、利害より遥かに優先される事大切事なのだ…。

(とはいえ伊藤君!取材と関係ない話をかなりしたけど記事はちゃんと書けた?
聞けてない話あるならいつでもきてね!^0^)