AManTo天然芸術研究所

大地のため、時代のため、消費されないアートを求めて…
EART(天然芸術)の今を紹介するブログ

軌道衛星上からの作品[ あまんとみち」

2005年12月09日 | Weblog
天人はすでに旅人の拠点になっているが、口コミでこうした旅人が立ち寄る場所は全国にある。
そして旅はその人にとって自分を見つめ、自分の生まれた意味や、如何に生きるかという
天職を探し求める全ての人の味方である。

生きるための資格、技術は学校や、大学で学べるもの、しかし、「で、どう生きるか」は結局本人に任されており、
自分とその生まれた時代の摺り合わせがうまく出来ない人は驚くほど多い、
僕は学歴があるわけでもなく、専門的な学位を持っているわけでもない…だから僕の学校は大地であり、空だった。

そしてそこに生きる人々から生き方を学んだ。
生き方を学べば、何をするべきかは内からあふれてくるものだった。
人はコマーシャルや就活のトレンドにまどわされる必要もなくなるものだ。
自分に忠実であるための社会と繋がり貢献する事であり、社会から利益を得るための仕える事ではない…。


知識は学べても知恵は学べない。
学位は取れても、天職はわからない…
そんな人は多いようだ。
そこで考えたのが現代版のお遍路さん「あまんとみち」だ。
僕が旅によって学んできた事にヒントを得て考えた。

心ある受け入れ先を繋ぎ、そこにいる人と交流し、自分が何なのかを学んでいく本当の生涯学習システム。
具体的には、各拠点でボランティアをすることで芸人でいうアゴマクラを提供してもらう。
つまり食べ物と寝床だ。
段階的に地域通貨を発行し、生きる為の就労、起業が自由にできるようサポートシステムを考えている。

今現在、全国行脚中!旅人である芸人という自分の利点をいかし、芸をしながら、縁ある各地を廻る。
この異分野の相互扶助ネットワークを世界中に広げる夢を語りながら…

僕はこの「あまんとみち」を社会活動やNPO活動というより一つのアートの作品と考えている。
ポストパブリックアートであり、サスティナブルアートでもある。
つまり
つまり各拠点とそれを繋ぐ人が移動する姿を人工衛星軌道上から、眺めると一つの動く超巨大ランドマークが
たち現れてくるのだ。
人は心の中で意識し頭の中での認識が生まれる、そしてそれが繋がる事で巨大な見えない意識の網の目が生まれる。
この途方もなく巨大な意識の構造自体を作品として認識しようという試みなのだ。

超巨大で、人々は作品の中に暮らしているのでそれを把握はできない…
それだけではない、役にたつ。
そして、その恩恵を受ける事で総体を認識できるのだ。
僕ががんかえる天然芸術(EARTのHを取ってEARTと呼ぶ)の一つの要素に、
「役に立つ芸術」、「生命教育的芸術」というのがある。
芸術が何かを教えるといった高飛車なものではない
芸術も関わる人と相互に教えられ合う。「響育(DE=deidconstractive Education)」これはそれにあたる。
消費される商業芸術と違い、このアートは流れない…積み重なる。
そして人が生きるために直接作用し時代似合わせ自己変性していく。
この研究をする拠点としてAManTO天然芸術研究所をオープンできたの事は大変な喜びだった。

この作品は瀬戸内に広げ、海のお遍路さんを完成させた暁には、アイヌから沖縄まで広げ、日本のトラディショナルラインを作る。
これが「惑星軌道上から見える作品」だ。

その後、このネットワークは環太平洋に広げ、次にはシルクロードを繋ぎ、文明の東西を繋ぐ、これは「月から見るための作品 その1」になる。

<永遠は一瞬>

2005年12月02日 | Weblog

僕の中にある時間感覚で「永遠は一瞬、一瞬は永遠」という時間感覚がある。

なかなか説明しても判ってもらえないのだか…時は過去から未来、未来から過去へと双方向に流れこむ。
そして他の次元からも四方八方から自分めがけて流れ込み、その放射線上の結節点に自己が存在しているような
感覚だといったらいいだろうか…。

だから人は個人は夢の実現だけで奔走するのではなく、他の時間、他の次元に対する責任がある…
そう自然に考えてしてしま自分がいる。それらの世界の兄弟姉妹に対する愛がそう行動させるのだ。
一般に人は自分の周りの人との協調を考えて、その中で社会を作る。
家族との調和を一番に考える人、会社をメインに考える人、遠く離れた他人との調和を考えられる人、
どこまでの距離感を自分の愛の対象として行動できるかは人によって違うものだ。
意識の広がりが空間的にのみ何処まで広げられるか…
僕の感覚はそれを時間軸にもひろげられると思っていただけらばいいだろうか?

これには大変なメリットがある。
その感覚が時をあがなう事を可能にするのだ…。
別の言い方をすれば…自己の枠にとらわれてネガティブに思える事も他の視点を増やしていくことによって、
ポジティブな面が認識できるようになってくる…といったほうが良いか…?
そして修練をつめば、それを活用しだす事ができる。
つまりポジティブと同じようにネガティブも道具として活用できるようになる。

<ネガポジを超えて>
多くの人は他を評価し、いい人だ悪い人だとウワサの信憑性すら考えず判断している。
「火のない所に煙はたたない」という彼らに自己評価をする余裕はない…。
つまり評価判断する自分を評価する人が絶対的に数少ないのだ。
だれかを価値判断するにはそれなりの自分である必要がある…僕は昔「自分はそこまでの出来た人間ではない」
という卑下する気持ちが強く、人を判断できなかった事が多かった。
良いかどうかは別だが、他を判断せず、自己にあまりに厳しいと、どんな局面でも人を受け入れられるようにはなるようだ…。
(僕の場合、友人に警戒したほうがいいと忠告される存在でも、守るべき自己がないから敵にならない)
「あの人は貴方の事を影で悪くいっている…」
そう耳打ちしてくれる人がいても…それに反応してしまうと
僕は、その人たちと同じ世界の住人になってしまう!
こんどは何が正しいかの不毛の争いに巻き込まれる。
相対世界で対立するという世界の抱えている問題と同じ構造を自分の周りに作ってしまう。
その争いが争いを生むことは世界の歴史が証明している。
僕は未来の時間を有効に使いたいので、そういった事に時間を使うのがもったいない感覚がある…。


しかし弊害もある…現代社会で、傷つけられて平気な人は気味悪がられるのだ…(笑)。
傷つけた相手は戸惑いを覚えるものらしく、過去そういった人が数多くいた、
中には何とか僕を傷つけてやろうと噂を流すだけでは足らず、
本人の前で面と向かって周りの人に誹謗中傷しだす人もいた。
それでも一向に怒る気配すらなく優しくする僕に対して彼が最後に言った言葉は
「お前は俺のことを心のそこで馬鹿にしているんだろう…」だった。

そんな風に思っていたのかとその当時は驚くとともに哀れに思ってしまった(ゴメンネ…)。
僕は浮世離れした変人といわれるようになった。

本人が取り立てて何も変わらないのに、個人の評判が上がったり落ちたりする時、
(それがあまり極端な場合は特に)しかし一般的にいえるのは大抵ウワサを流す側に一定の意図がある場合が多いようだ。

先に書いたように僕を含め、判断、決定する価値観が空間的だけではなく時間的にも広がりをみせだすと
一般的な説得、ネゴジエーションが通用しなくなる。
(ましてや時間が過去から未来にしか流れず、個人の「願望達成」一つに価値感が縛られている人ならなおさら…)

なすべき必然を考えるファクターが、かなり多重構造になってて複雑だから
一般の営業トークやコンサルティングセオリーが通じない事が多くなる。
理解できないのに結果をだす人間に恐怖する人も現れる…残念だけど…

こちらから相手は判り易いのに相手からはこちらは全く謎に映る。

理解できず騒ぎ出す人の判断が正しいかはその人の人生が証明する
もしその人の発しているものが毒ならばこちらが受け取らなければ
出した毒は必ず本人に勝手に帰っていくもの…
これは経験的にいって間違いない。

毒が帰ってきたときその人々の学びのチャンスになるのだが、
本人が心を内顧する習慣のない場合、情報に翻弄され苦しむ事になる
頭のいい人ほど周りのせいにして適当な理由を組み上げてしまえるから
成長の機会はさらに激減する…悪循環


「永遠は一瞬、一瞬は永遠」という時間感覚の中ではそれらの
相対的な喧騒は色あせてみえてしまう。

我々が苦労し、勝ち取らなければならない希望と、そのために必要な葛藤は、
もっと他にある!

正しい苦しみ、正しいポジティブは、人を進化させ、時代を進化させる原動力となるものだ。


この時間感覚は、芸術を願望達成の消費材にしないために
大切な要素なのだと思うようになった。

天然の芸術が「生きるための芸術」「大地のための芸術」だとするなら
過去から未来に時代を繋いでいくことが条件になるからだ