AManTo天然芸術研究所

大地のため、時代のため、消費されないアートを求めて…
EART(天然芸術)の今を紹介するブログ

フィリピン山岳地帯リアス村、情報収集

2010年05月14日 | Weblog
今日は視察前の情報調査。僕の滞在期間は限られている毎日が貴重だ。
僕らが植林する場所はどんな所か、安全面は? 植林の可能性は…可能な限りの検討をしなけらばならない。
夕方、北ルソン日本人会の小国さんが、現地視察に同行したいというのでミーティングをした。
植林NGOでコーディレラで活動するCGNの反町まりこさんと小国さんの友人の阿南さんと食事をしながら
日程などを話しあう。そこで現地の現状を聞く。

小国さんは戦中、戦後の歴史に詳しいし、CGNのまりこさんは
植林NGOとしてプロフェッショナル。現地の今を一番よく知る日本人だろう…。
まずは、今回の現地視察のルートを話しを伺う。
ボントックからバーリグまで2時間、地獄谷のようなマイニット温泉を抜けて
リアス村まで、そこに僕らの目的地がある。

このルートをどうやって何日かけていくか具体的な話をする。
すこし、今回の目的地リアス村周辺事情について僕が取材できた話をまとめておこう

ここマウンテンプロビンス州のバーリグ郡は前回訪れた首狩で有名な戦士の村カリンガ、
棚田で世界遺産になっているイフガノの間に挟まれ、どこらかも山をひとつ越えて入らないといけない陸の孤島。
最近まで道がなくジャングルを徒歩で行かないといけない場所だった。
北ルソン全域はキリスト教の普及とともに洋服を着る人が多くなった。ここは事情が違った。
マウンテン州には伝統が色濃く残されているのだ。
oguni &mariko
左からCGNまりこさん、日本人会小国さん、阿南さん



カソリックが基本のフィリピンだか、マウンテン州で布教活動を行ったのはイギリス正校会。
厳格なカソリックは神を教えると同時に彼らが裸(男性はフンドシ、女性は腰巻)で暮らしているのを
野蛮な行為とし服を着て男子は長髪を切るように徹底した西洋化の指導がなされてきた。

しかし正校会は彼らの伝統的な文化を否定せず、認める事でキリスト教の布教を計ろうという作戦を取ったのだ。
だからまだ土着の文化は色濃くのこり真理子さんが始めてマウンテンに入った頃はまだ皆伝統的な衣装を着ていたらしい。
今も道のない奥地にいけばお年よりはフンドシ姿で歩いているそうだ。
その奥地の奥地に目的地バーリグがある。地場が非常に強く、ビデオなど電気製品がすぐ壊れてしまうという。
今まで尋ねた山岳地帯は距離的日に遠かった。マウンテン州は距離的にはまだ近いけど
距離ではなく別の意味で山が深く遠い場所だったのだ。
バーリク(またはバーリック)は(ボントックから近い順に)セントラル、リアス、カダクランという3つの地区からなり、
カダクランまで道ができたのは1992年のこと(といっても村の入り口まででそこからは道はない)
このカダクランには有名な日本人がいる。

彼の名はミスター福田崇、今からなんと35年も前に、この地に単身入り
キリスト教の布教のため現地の言葉で聖書を書くという仕事をするため1976年から12年間、住んでいたという。
北ルソン一帯は文字のない文化なので、福田さんは耳で現地語を学び聖書を作った事になる。恐ろしい情熱と根気だ。
信仰の力はすごい。
福田さんはここに来るのにヘリコプターを使って降りたそうで、空飛ぶ物体から人が降りてきたのを見て
人々は驚きその場所の地名が「福田さんが降り立った場所」という地名になっているぐらいだ。

慰霊の旅で何十年もこの地域を回っている亀井さん同様、福田さんとその意思をついでバーリグ、カダクランに長期滞在されていた虎川清子さんらは未だに定期的にここに来ているらしいとの事。

この3月にも虎川さんは現地に入り友好を深めてこられたそうだ。
(福田さんはデング熱のため行く事ができなかった)

お二人は、僕らの目的を伝えると村で私たちの名前を出してもいいとおっしゃっていただけた。
さらにボッカラン先生という方を訪ねると力になってくれるだろうという情報をいただいた。(なにせ携帯の電波も届かない山奥で通信の手段はない)

彼はこの地に学校を作った人で現地で日本人といえば福田か…というぐらいだから、
日本人に対して好意的だそうだ!

よし、いい感じだ。反日感情が強い地域では非常に入り込むのに大変だからだ。
戦争の時、この一体で何があったのか…太平洋戦争最後の激戦地として有名なこの場所での
反日感情や共産ゲリラの危険性は大きな問題だ。

日本とフィリピンをつないで植林からフェアトレード、文化交流までを考えたとしても絵に描いた餅を
現実のものにするには、まずそこの大地に受け入れてもらいここの場合だとやはり御免なさいをしないと
このプロジェクト始まらないなあ…

良いことをするんだからいいじゃない…そんな単純な作業ではすまされない…。

僕らが外から見た親切の押し売りでなく本当の協力できるものはなんなのか
曇りなき眼で見て見定めていかなければならないのだ。

現実的に治安に問題があれば、現地のスタディツアーなどを企画して日本人をつれて植林するなんて
とても不可能になってしまう。

まりこさんから慰霊と現地の戦史に詳しい亀井さんに当時の様子を聞いてもらった。
ここでは日本軍の俗にいう「死の行進」があった場所なのだ。
サンチャゴに入った当時日本兵は1万6千人、終戦も間近な頃、
日本兵は武器も弾薬も底を突き敗走を続けていた。

多くの日本兵は戦闘停止も知らずナニトン周辺に転進しています。
主力部隊は、「翼」(第4飛行師団、三上喜三)、 「駿」(第103師団、村岡豊中将)、藤澤兵団(代2航空通信団)、「勤」(牟田大隊、歩兵代183大隊)さらに海軍部隊の将兵でした。
マガット川を渡っって米軍の爆撃をかわしながら、イザベラ→マヤオヤオ→バナウェイ→ナトゥーニン→バーリグへと人々は逃げ、
ボントックまで逃げ伸びた。

日本兵はそこで降伏している。そのとき、生き残ったのはたった1600人。
単純に計算して1万3千人がこの森で亡くなっているという計算になる。

しかし幸いな事にこの地での大規模な戦闘はなかったようだ。虐殺がなかったのは幸いだが
ナトゥーニン→バーリグへと人々は逃げ、
ボントックの道のりでは食料調達の名目で日本兵がどんな事をしたかは現地調査をしなければまだ、わからない。

「死の行軍」と呼ばれたこの敗走劇は日本兵戦死者で51万8千人の実に50分の1を占める。

聞いていたとおり、ナトゥーニン、バーリグに慰霊にいった方は何人かいるけれどリアスには未だ誰も入っておられないという。

日本とアメリカの戦争で単なる巻き添えとして亡くなったフィリピン人の死亡者は100万人を超えているのだら、
戦争の罪は重い…遺骨収集の大切さもそうだが僕は日本人だけを対象にする事にいささか違和感をぬぐえない。
人の死は平等、特定の遺骨だけ収集して供養するのは専門家に任せて、
僕はその土地でなくなった人全体の子孫のための活動を初めて新しい日比の関係を築けないかと考える…
戦後処理もそろそろ次の段階を始めてもよいのではないだろうか

お会いする事を希望していてなかなか実現しない元日本兵の川崎さんが従軍したのは20代前半の若者だった。
彼が今年で88歳だから、もう戦争体験者はほとんど最後の世代になろうとしている。
川崎さんも何度もこの地を訪れて慰霊をされているが、今年で最後の訪問をされたい…といわれている。88歳…彼の青春の場所との最後の語らいの機会なのだ…。

何か戦後慰霊、巡礼の大きな節目が今年来ているのではないかと
感じる…。

僕に何かできる事はないのだろうか…
お役に立てるなら何かしたい…。

次の時代に彼らの意思受け継いでいかないといけないのではないだろうか…思想、宗教の枠を超えて…

この大地のために…

現地では1975から始まったマルコス政権下、この山岳地帯は総共産化して人民開放軍NPAが政府軍と戦った悲惨な戦争の時代があった。

僕のこの土地出身の友人たちは今はミュージシャンでも子供の頃は銃で武装して生活していた。

日本はバブル真っ盛りの時だ…

80年代90年代に大きな国内紛争があったこの国では、
お年寄りの記憶以外はこちらの戦闘のほうが記憶に新しく生々しい…
現在も共産ゲリラと国軍の戦いはアブラ州などでは活発で、
この植林計画もアブラが舞台なら最初から不可能な話だった。

実際、NGOに単に寄付金をよせてんも、そのバックにには共産軍がついていて、
そのお金が銃になっているという話はよく聞く。
なんせ、NGOって文字通り、ノンガバメントな組織という意味だから…
僕らの活動も継続性のないムーブメントでは組織の客寄せパンダに成り下がらないともかぎらない。

地元に本当に根付き、地球の歴史に足跡を残す覚悟がないと
継続的な活動はできないと思う。
だから僕ら天人グループがどんなNGOと組むかは大変重要な問題で、現地のカウンターパートナーがなければ、継続実行は難しいのだ。
その点、反町さんのCGNは間違いなく、中立で、どことも争わないNGO。
そういう意味で一世代前の対政府的な意味のNGOとは一線を画するオルタナティブなこれからのNGOだといえる。




森と生きてきた彼らが新しい森との関係を作るお手伝い…
単なるボランティア、単なる社会起業では片付かない
本物の癒しと知恵の必要な大きすぎる過去の代償を清算していく方法でないといけない。

その道のりは遠そうだ…

天然芸術の岩盤…中崎に節目

2010年05月11日 | Weblog
明日いよいよフィリピンに出発します。
日本での天人の活動、海外での活動…そして個人のアーティスト活動…
寝る事もできない日々が続いています。
ベットで寝れたのはいつの事だったかなあ…

個人的な話題で言えば、Twitterで「エリア天人」というアカウントを取って
天人メンバーで試運転してます。(是非ご覧ください)
おかげさまで天人グループも13店舗目を準備しつつあり、大阪梅田に奇跡的に焼け残った中崎町エリア(厳密には中崎西=旧済美町)の天人本店に始まり劇場、映画館、ゲストハウス、本屋、色々なコンセプトのカフェやバー、ギャラリーとミュージアム、癒しのサロンなど、その範囲を中崎町、黒崎町、浮田町という3つの町に拡大して広げています。

「エリア天人」は天人グループが、自分たちの状況と、そのもう少し外側の周辺(=エリア天人)の情報をお伝えするためのプチニュースソースです。

僕の哲学に「再生」や「活性化」とは、自分が言うものではなく周りの役に立った事が周辺に伝播してまわりの人に言っていただけるものだと思っています。

だから僕が活性化したかは、天人のスタッフが元気になる事で証明されます。
天人が活性化するのは中崎が元気になる事で証明され
中崎が活性化するのは黒崎浮田など周辺町内に役立つ事で証明され
大阪北区周辺が活性化すると大阪に知名度があがり
大阪が周辺に役立てると関西に寄与できて
関西が役に立てると日本に寄与できて
日本が活性化するとアジアに
アジアが世界に…

ローカルは徐々に世界に繋がるのではなく、すでにリンクしており連動しています。
この構造を理解している人は全部が同時に動きだすはず…

その動きをイベント的な打ち上げ花火ではなく継続的、持続的な自然現象と当レベルで絶え間なく努力と発信を続けてこそ人の活動は生態系にまで連動し、変化を与え歴史になるはずだ…という事です。

だから、天人は2001年7月26日のオープンから1日も休まず営業しているし、誰になんといわれようとコツコツ積み上げるのを絶対辞めない精神で
少しずつ少しずつ留学生の受け入れや、国際交流、フェアトレードなど、拡大前進しています。

だから、僕に取って全国の町おこしのイベントで講演や事例報告会で呼ばれるようになることは重要な事です。
僕らのローカルな活動が誰に宣伝するわけでもなく自然に注目され話を聞かせてほしいと呼んでいただける事が自己判断の一つの指標になっているからです。
つまり、新たな展開を評価されるたび、あー間違ってないな、まだ大丈夫だな…と自己チェックと内省にができるというわけなのです。

僕は決して夢を叶えているのではなく、今この瞬間、自分がどれだけ他の役に立つ事ができるかを考え、そしてそれを実行できているかが勝負なんです。

例えば、ここ数年で、ある直感があって一件のカフェ「天人」から「天人グループ」へと脱却、活動範囲を多方面に展開するという努力をしてきました。
ある意味これは僕が苦しくなるばかりなんですが今の町には必要だという想いからやっています。

すると今年のビーグットカフェのエコビレッジ国際会議の講師として東京に呼んでいただける事になりました。持続可能なオルタナティブなコミニティ作り「エコビレッジ」とは、バイオカズや自然エネルギーをうまく使い未来の地球の姿の提案です。世界中で取り組みがなされています。
しかしその大半は田舎暮らしを基礎にしており。最も環境を破壊しゴミや汚染物質を出している都会では実現困難な状態です。

ある町づくりのイベントでお会いした代表の疋田さんに「JUN君のやっているのはエコビレッジだよ…山の中には果物が落ちているが都会には粗大ゴミが落ちているんだねぇ」といわれたのが事の始まりです。

僕らが多店舗展開できるのは、けしてお金があり裕福なわけではありません。
町会の方々に協力してもらえるのと材料を買わず、あるもので手作りするからです。ある建築家には天人の店が出来ると周辺地域のゴミが減る…あそこはゴミを吸ってできている…と評価?していただいています。

今までの「カフェから始まる町づくり」系の所からの高評価から、「エコビレッジ」としての機能、ネットワーク論としての僕らの活動を専門家、研究家の方々に参考にしてもらえるな事実が、最も公的なジャッジメントであり宣伝になるのです。

ちなみに関東地区のかた是非、国際会議にお越し下さい!
僕もお会いしたかった有名どころが一杯こられます。
http://d.hatena.ne.jp/dancingjun/20100529

中崎はお地蔵さんが丸くかこったエリアに爆弾が落ちなかった、だから大都会の一角に昭和な町が、まるで映画村のように切り取られて残っている…

この不思議な都市伝説を聞いて、その神話の意味を知りたいと思ったのが2000年。焼け残った中心を探し、そこに住みながら表現活動を始めようと天人を作ったのが2001年。その後町は活性化したと言われていますが、僕としては何を持って活性化というのかは複雑な気持ちです。

実際焼け残った中崎エリアの中心は中崎西地区、そのほぼど真ん中にあるのが
旧済美小学校…そこの売却が決まり大阪北ヤードの再開発地区の関係者の社員寮になります。(着工日などは「エリア天人」や僕のTwitter「junamanto」で情報を流しておいたので興味のある人はそちらをご覧ください。)

「エリア天人」 http://twitter.com/areaamanto
「junamanto」 http://twitter.com/junamanto

去年、学校の取り壊しが始まろうとしたとき、小学校の下に古代の遺跡があるのが発見され、発掘調査が行われ工事は延期。(うそのようなホントの話です)町会の頑張りで祭りの会場であるグランドの半分弱を死守。プール部分を埋め立て公民館を建てる事で町と市が合意。歴史的神話は現代の生きる神話と連なり、この町の祭り祭事の存続を可能にしました。

この町に生まれ、ここを守って来られた長老方には、やはりエルダーとしての血が流れ、ネイティブアメリカンばりに努力をされている…僕は町では青年団の一番下っ端だけど、ここ中崎西=済美地区が古代の何かの建造物跡だった事が中崎の地場の秘密の一部だと思った。
(ちなみに、なんの遺跡だったかは一切公開されていない…下手に古代の重大な祭場遺跡だとかなって地元住民が反対されたら大変だからじゃないだろうかと思う)

神話とは昔話ではなく、神話保持者たちの生きるための血合い(最重要部分)であり、生きる戦いの記録…

現代の僕らの物語も1万年後には神話となります。
子孫の存亡の危機の時、生きる指標として役に立つのです。
だから僕らは恥ずかしい生き方は出来ない。

そういう意味で神話は続いているし夢物語ではない生命文化の岩盤であり教科書なのだと思います。

僕が海外で自分のパフォーマンスを引っさげて、中崎で学んだ事を伝え、そこにある天然芸術研究所で産まれたパフォーマンス「傾舞kabuku mai」で世界を回り、その土地土地で出来る事を奉仕するのは
僕が産まれた日本が周辺の国に役に立つため…個人の活動は世界と繋がるだけでなくその生き様は子孫という時間の地平にも繋がっている…と思って頑張っています。

フィリピンに明日出発し、自分のやれる限りの事を頑張ってきます。
そのために多くの方が陰ながら応援してくれています。
その人のためにも頑張ります。

フィリピンの山岳民族のある部族の話があります。
彼らの部族に「ありがとう」の言葉がない…

じゃ、「ありがとう」という時になんと言うのか…

日本語で直訳すると「きょうは、ここで、おいておきましょう」
といいます。



親切にすると、お返しに親切に仕返す、
するとお礼に又親切にする…

延々終わらない…

電気がないので暗くなると何も見えないので
「きょうは、ここで、おいておきましょう」となります。

…つまり明日は僕が親切にする番からしようねという意味なんです。


つまり貨幣価値ない人の喜びは、「稼ぎ」や「願望達成」、「夢の実現」ですらなく、人の役に立つ事で自分の存在を認識しているという事です。

僕らのルーツはここにあり、僕が世界の先住民をまわった知恵が世界を救うと考え、それを現代の都市で現代風にアレンジする実験をするために作ったのが天人でした。

だから相互協力相互支援によりイニシャルコスト、ランニングコストを激減させ共生によって時間の豊かさを手に入れ、人が自分の子孫の神話の登場人物になれるような人生を歩める装置として作ったのがこのムーブメント「中崎町実験ファイル」なわけです。

個の活動、地域の活動、社会活動、世界活動、そして神話活動これらは同時に行うべきです。
現代のように個の夢が叶ったら地域の活動などといっていたら欲をあおられている現代人は一生、町内会の役人にすらなれない…役に立つのは体力のなくなった老後になり、それまでゴミをだし環境を破壊し文化を消費してつづけ、流行として文化を消費してしまうでしょう。

この町の長老達の努力を、町に来て観光地のように楽しむ人たちはどれほど
その事を理解できているのか疑問に思ってしまう事があり反省しています。

もし自分の人生に目的や夢が見いだせない人がいたら
夢や目的がある事が最重要ではなく、明日死んでも悔いのないようにすぐ隣の人に役立つ生き方をする…そんな祖先の生き方を大都会の真ん中、中崎で感じてほしい…
「崎」って漢字は、陸地が海や湖に突き出た所の意味。
「中崎」は、色んな意味で真ん中の「崎」から両端を見渡し、自分の存在を確認する所…そんな気がする。
「過去」と「未来」、「文明」と「文化」、「夢」と「現実」…
あらゆる世界を見渡し、感じ取り、自分の立場を定めていける現代の聖地になりうる場所なんじゃないか、そのためにこの場所は焼け残って、神話の解凍を待っているのではないだろうか?そんな貴重な場所だから守らないといけない…そんな気がするのです。

正直言って、その価値は建物が歴史的に価値あるというような文化財的な価値ではない…
一つの視野の中に高層ビルと長屋が同時に見えるその景観ギャップこそが
現代人が何を得て何を失ったのか感じられる場所なのだとこの10年言い続けてきました。
そうこの町の財産とは文化財という物質ではなく、この視覚的価値だと思うのです。
僕はこれを中崎の景観遺産と呼んでいます。そしてこういう場所を成り立たせている意識が土地にあったのだという事が心底分かり始めたのです。

ここには、何か大地からのメッセージがある…

おそらくレトロな町を楽しみ心地よさを覚えている人達は、この中崎町にあった遺跡の住人達の想い、古代の土地の意識(僕の傾舞では居場エネルギーと呼びます)を、本能的に感じているのではないかと信じています。

僕らの活動が多くの人の人生を触発芽するのに役立てたらと思います。

明日からフィリピンで、この町の人間としての使命を達成すべく頑張ってきます。