AManTo天然芸術研究所

大地のため、時代のため、消費されないアートを求めて…
EART(天然芸術)の今を紹介するブログ

尾川耕が、きた!

2005年08月30日 | Weblog
今日は親友の尾川耕が長野県からやってきた。
学生さんのあるWSでファシリテーターとして呼ばれ、
大阪入りしているらしい。
もともと関西出身の彼は長野県白馬村でウエブ関係の仕事をしながら、
アートコーディネートをしている人。
彼とは毎夏、白馬の観音原(森の中にお地蔵さんが187体、丸く囲った聖地、
長野県の塩の道の途中にある)で、
「EART PUMP」という芸術祭を開催してきた。

EARTは僕のライフスタイル進化系ARTであるEARTだ。
EARTHのHをとって名づけた。
長いことこのコンセプトの日本語訳はなかった。
彼との活動の中でそのコンセプトを漢字圏の人々にわかりやすくつたえようと
「天然芸術」という名を二人で考えた。
伝統芸能でも商業芸術でもない、大地のための芸術「EART」…!

自然界の物質はすべて循環しその分泌物は他のために役立っていく。
しかし人類の考えたARTだけがゴミをだし、
消費される事を目指して時には争いの元になることもある。
天然芸術は消費されず、積み重なる芸術…。
堆積し、発酵する、大地のための芸術活動なのだ。
僕ら人類が「今のテクノロジーを持ったまま
いかにこの星の生態系に帰っていくか」をテーマにした芸術。

EART PUMPは事実上そのEARTをコンセプトにした、
世界唯一のフェスティバルなのだった。
(ちなみの大阪の実験カフェAManTo天人も、
このEARTの作品であり、EARTムームメントを世界発信する目的で
作られ、計画された作品だ。)

…なのだったというのは今年、資金難のため長年続けてきたEART PUMPは中止する破目になったからだ。

彼とは夜中まで話し合いをした。今後どうしていくか…。
いくらいいものでも現実世界の経済からは逃れられない!

僕は、この祭り自体のコンセプトをより具体化して
展開していく時期にきているという話をした。

祭りとして芸術を楽しむ事5年。
不思議なことに聖地観音原の上を通る送電線は撤去され、
去年には鉄塔も解体され
さらに原始の姿に近づいた。

白馬村の夏の観光の目玉として始まり、僕らがコーディネイトしてきた祭りは
この地区一体の水源姫川源流の水を観音原に持ってきて、
大地に芸術を捧げるというコンセプトで続けてきたのだ。

だから観音原がよみがえり一区切り形のついた今年、
いよいよ実際のムーブメントとしての仕掛けを
動かす時がきたのではないか…と…

天人は対象とする地域が大阪中崎町という限定された場所で、
資金なし知識なしゴミなしからカフェをつくり、
そこで次世代のシステムを開発するという実験だった。
今の所、地域限定であるからシュミレーションはしやすく、
当初の計画よりやや早く、その必然は果たされている。
しかし今後の7年後までの希望されるべき計画からすると
このEART PUNPの実験結果はもっと大きく育っている必要があった。
(簡単に言うと少し遅れている…)

それは、文化創造の雛形としての「天人システム」を
他の地域で適応可能かの実験をするためには、ただ2号店3号店を作っても
なんの意味もないという考え方にもとづいている。

環境を規定して作った「天人」と環境に適応して続けてきた「EART PUNP」が「あまんとみち」で繋がることで必然達成の第一段階が終わる。

例えば、現状から可能な必然をシュミレートするなら、
今僕が作っている旅する学校「あまんとみち」の巡礼の旅という形をとって
観音原から南に旅をしながらEARTのコンセプトを啓蒙をするのだ。

「あまんとみち」各拠点を、耕の今事業家しようとしているエコディー
ゼル(廃油を精製し、車を走らせる)を使って…。

イベントとしては面白く結果も期待できる…が、
それによる地域の影響力はあまり多くは見積もれない。

色々計算してみた耕によると、どうしてもそれで事業化はできない構造らしい。
廃油の回収作業とそこから生成されるオイルのコストがビジネスとして
採算ベースに乗らない。(菜種油を最初からその目的で栽培しオイルをとるほうがまだいい…)

必然達成という方法論では結果も目的もファジーにゆらぎながら、より多くの人を巻き込める形を選ぶ。
時には目的や結果を捨て、回り道をする。
それが本当の最短距離と考える。
だから回り道は回り道ではない。

願望からは遠のいても真実の結果を悟るための道程として最短と考えるのだ。

つまり、計画は綿密に立てられてはいるけれど、
それに全くとらわれてはいないのだ。
「天然芸術」の生き方では、出会いも必然であり縁だからだ。

だから「くるものは拒まず、去るものは追わない」ということがいえる。

目的を固定化すれば、「くるものを選び、必要のないものは去らす」事になる。

勘違いしないでほしのだが、
僕らの成功を嫌っているのではない。

ゴミや戦争を生みやすい旧体質のやり方で成功しても意味がないだけなのだ。

時代に染み込んで癒着している旧体質の脳みそとは
オルタナティブな道で彼も納得する成功を収めないと
この実験は社会の変革因子のひとつに立候補はできないだろう。
(厳しい道ではある)

これらの世界中の目覚めた活動家達の確信に満ちた勇気ある行動は
多くの場合、非常識にも届かない未常識に分類される事が多い、

つまり、ほとんどの場合、普通には理解されないというだけではなく
認識すらできないのだ…。
(ひどい場合は何も考えていないように見えるだろう…)
ただ、多くの彼ら変革因子には別次元からどこからともなく
無償で無尽蔵にやってくる確固たる確信と信念だけが存在し、
粘り強く暗い闇の中を希望に輝きながら突き進ませているのだ。

その稀有な存在達は、
尊敬するノリハドル女史のいう「時代のイマジカル細胞」と
いってもいいかもしれない。

(天人を見た彼女は一目でここの本質を理解した数少ない一人だ。
たいていの場合、なんだかわからないけどいい場所ですねという人が多い中
彼女はここの目的も実験も見抜いてしまわれた。
「一緒に頑張りましょうね!」
確信に満ちた女史の言葉は今も僕を勇気付けてくれている。)

僕らは選民主義者ではない。
だから排除はよっぽどのことでない限り少ない。
なぜなら、全ての人は学びの対象であり、
教育の対象だから…。

多くの場合、彼ら「確信者」は、
彼らの偉大な挑戦を認識できない人々に囲まれている。

最悪の場合、彼らは、文句や非難を繰り返す
心無い人達に彼が囲まれている場合も多い。

旧体制の営利主義のやり方なら
一番に切り捨てられるのが自分であるとも知らず、
彼らなりの主張を繰り返し、各自のポジションだけを模索している。

しかし、学びが目的ならそれらは互いに縁ある人なのだ。(逆縁でもだ…)
たとえ遠回りをしてでも共に旅を続ける。

僕の周りは人に恵まれているので、
こういう、人々はほんの数えるほどしかいない!

さあ、これから実験は続く!
この人生、どう料理してやろうか…楽しみだ(^^)



「天然芸術」これは、個人の成功を超えた所で行われている、
人生を賭けた日本からの提案のひとつなのだ。