AManTo天然芸術研究所

大地のため、時代のため、消費されないアートを求めて…
EART(天然芸術)の今を紹介するブログ

文化の種はタンポポのごとく

2004年10月30日 | Weblog
雨の中自転車を走らす。
自転車のパンクは無事修理終わった。

ふと耳を澄ますと
閉校した済美小学校から70年代のフォークソングが聞こえてくる。

近づく…
いや学校からではなく小学校の通用門向かいにある
中崎町町会長、多胡さんの家からだ。
彼は「この町はわしが作った。」とハッキリ断言できる
今では珍しい、昭和一ケタ生まれのこの町の長老。
彼の家の倉庫部分、もう何十年も使われていない空きスペースが
解放され、数人の男女がたむろしている。

「コンニチワ」
声をかけた。
「オー純ちゃん、入れ入れ!」
町会で前PTA会長だった大西さんだ。
行政書士が本業である彼は昔バンドマンで
ギター片手にフォークソングを歌っていた。

多胡さんの娘さんもいる。近所の奥様方が何人か集まっている。
「ここ、天人2にするの。手伝ってよ」
多胡さんの娘さん。
彼女のお子さんは兄弟で天人のCAFEにいつも遊びに来ている。

小学校が閉鎖されて、地域の行事ができるパブリックスペースがなくなった。
夏祭りや運動会、盆踊りにカラオケ大会…。
場があって始めてコミニティーが維持されている事を改めて感じる。

「最近マンションができても、皆が集まる事がなくなったから、
誰が住んでるのか分らなくなってきた。」
そんな話をしていた。

僕も地域の行事に参加して、そこで子供たちやお年寄りの顔を覚えた。
彼らは自分の親が介護が必要になる時を間近に感じている世代だ。

「自分達の親を老人だけの場所に送り込んで、それで終わりにしたくない…。
皆が一緒にいられる場所が作りたい…。」
思いは切実だ。
ある意味この町にコミニティー危機が迫っている。

天人が提案し続けてきたCAFEでサロンで寄合所…地域のパブリックスペースは
場のニーズが高まるとそれに呼応するように、他の場所が現れる。
それも、その専門性を高めて多数この地域に広がっていくものだ。
単細胞生物が多細胞生物に進化するように…。

「とりあえず、この場所をどうするか判らないのだけど、何かしないとと思って…
とりあえず、掃除して、入らないものを
ガレージセールなんかして売ってみようと思うの…。
でも、その後どうしたらいいか、さっぱり…。
一緒に考えて…」

とりあえず地元の人が町の動きに影響されて
自分達で動き始めた…。

これを待ってた。
これこそが天然芸術だ!
彼らはココ(町)で名を揚げたいのでもなければ、
儲けを求めて何かを立ち上げようとしているのではない。
豊な生活をする…その事が全てだ。

この動きがあれば堀江やアメリカ村のように豊かさの意味が単一化した町の発展は回避できる。
中崎町実験ファイルに大きな1ページが刻まれた瞬間だ。

多細胞生物のように…といっても

CAFE文化に関してはマスコミが勝手に煽ってくれる時代だし
サロンに関しては、文化的な人たちは自らのために自主的に場を作ってくれる。
町おこしとなると繁華街にしようとするコーディネーターが後を絶たない。
そういう意味でこの町にそれらの文化が広まるのに数年の時間しか掛からなかった。

しかし多様化の中に生まれる新しい生活文化は商業芸術でも伝統芸術でもない。
(1000年後には伝統芸術と伝統文化と呼ばれるかもしれない未常識の文化だ)、
実はここが僕らにとっても次世代にとっても一番肝心なとこなのに誰も取り上げない…。
儲けのためでもなく、自分のためでもない…民族のため、地球のための文化、芸術…。

そんなものって実は庶民の普通の生活の中からしか本物は生まれないものだ。

20世紀はカリスマが方法論を提示し革命を起こす時代だった。
しかしそれが如何に争いを産み、血を流す事になるのかは充分経験した。

町の中に多様な価値観の複数の文化が分裂的に存在してしまった時。
人は生き抜くために民族性のルーツに帰って分裂の間を埋める方法論を模索し始める。
これが「天然芸術」と呼んでいる。
これは友人のSHINYAさんのいうTHIRD CULTUREと同義だと勝手に思っている。

そしてこの魂の岩盤に深く刻まれた原点を僕は「 文化のSource Program 」と呼んでいる。
それは僕らが、おそらくは石器時代から氷河期を生き抜き環境の激変を絶えてくる中で身に付けた、
偉大な…とても偉大な、文化的な方法なのだ。

その間を埋めるつなぎ粉のような文化が 「天然芸術(EART)」 だ。
中崎町実験ファイルは着実にそのPhenomenonを広げつつあるようだ。

JUNの日記[JUNgem]

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