東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

忘れられた岩壁 朝日連峰 障子岳東面スラブ

2006年04月21日 | クライミング

                   
1ヶ月位前の話だが、田舎の物置を物色していたら山と渓谷社がかつて発行していた「岩と雪」No.9~128号(古い号は5部ほど欠けている)がそっくり出てきた。
今の現役クライマーの方はもうご存知無いかもしれないが、かつて日本のアルパインクライミング、ヒマラヤ登山を根底から支え、その当時の日本人クライマーのレベルを世界トップレベルまで押し上げる媒体となった雑誌だ。この雑誌なくして今の日本登山界は育なかったといっても言い過ぎではない。

今やフリークライミング・ボルダリングメインでければ雑誌にあらず、アルパインクライミング、ヒマラヤ登山などの雑誌ではまったく相手にされず商売にならない。当時夢中になっていた中高年山屋としては実に寂しい限りだが、いま拾い読みしてみても当時の山屋の熱い情熱が伝わってきて面白い。その当時、中央の情報はこの雑誌のみからという様な田舎仙台の人間は、発売されるとむさぼる様にして読んでいた。

そんなレベルの高い記録ではなく遠い昔の話で恐縮だが、41号に「朝日連邦・障子岳東面開拓」(1974年7月の記録)という記録が有る。「仙台海外登山研究会」というえらく大げさな名前で気恥ずかしいが、自分もそのメンバーの一人として記録を書いていた。

東面スラブは高度差250~300m、幅700mあまりの花崗岩のスラブ岩壁だが、その当時はフラットソールの靴など有るはずも無く、ビブラムソールのいわゆる「ドタ靴」で開拓した岩場だった。ルートは8本程開かれ300~350m位の長さ。今となっては登山スタイル・価値観も大きく変化し、このようなルートはグレードも下がって誰も登る人などいない。しかし東北では稀な明るく乾いた花崗岩のスラブ壁は快適で豪快。スラブ壁につき物のいやらしい草付きや面倒な藪こぎが一切なく、東北地方では珍しいスラブ群だと思う。今のような高難度を追求するようなフリークライミングとはまったく次元が違い、沢登りとも言えないクラッシックなスタイルだが、それなりに価値が有る登山行為と今でも思っている。

最近は沢登りなどぼちぼち再開しているが、その延長で機会があれば新緑の時期、叉は紅葉の時期に一度訪れてみたいと密かに思っている。グレードの高さとか、ムーブの難しさなどはどうでも良く、ただひたすら駆け上がるようにして登り切る事に興味が有る。今はその様な力は残っていないだろうが、マイペースでも自分のレベルに応じた登りも結構楽しいように思える。

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朝日連邦 以東岳スキー登山

2006年04月14日 | 山スキー
             古寺山から遠く以東岳を望む 2006.01 右の端

長年山行を共にしている荒井さんのブログが登場した。この中で4月6~7日にかけての以東岳スキー登山の記録が載っているが、このコースの冬季のアプローチは長く困難である。往復12km以上有りそうなの林道歩きを覚悟し、茶畑山に至るこれまた往復12km以上の尾根に取り付き、アップダウンを繰り返しオツボ峰を経由して以東岳を目指す。

朝日連邦の冬はアプローチの困難なことで知られているが、以東岳は最も遠い存在でなかなか人を寄せ付けない。またそれだけまだ未知の部分があって興味深いという事だが。自分なら林道歩きだけでギブアップしそうだが、彼はこの手の山行を得意としている様です。

これ以外に村山葉山富並川本谷左(内院)の滑降記録記録が有るが初滑降でしょうか?標高差500mほど有る斜面で、南屏風のコガ沢に匹敵するコースの様です。

http://zaosenine.cocolog-nifty.com/blog/

「蔵王仙人ブログ」
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飯豊連邦 スキー登山の歴史

2006年04月12日 | 山スキー
             飯豊連邦ダイグラ尾根 2005.03 西俣の峰より

最近、飯豊連邦の山スキーはご無沙汰しているが、今度の春には実現したいと思っている。飯豊連邦は朝日連邦に比べアプローチにも恵まれ、3月~5月頃には多くの山スキーヤーが訪れている。3月頃でも1日で三国小屋に入れるという環境は山スキーヤーにとっては実にありがたい存在なのだろう。

このエリアは新潟、または会津山岳会を初めとするパーティーによって多くのコースが開拓され、尾根はもちろん沢筋も殆どトレースされ尽くしている感が有る。正月の厳冬期といえども全山スキー縦走がなされており、かなりハイレベルな記録が残されている。

しかし意外にも自分の身近にかなり貴重な記録を残した先輩方がいた。以前在籍していた仙台山岳会の先輩になのだが、今から36年位前の1970年頃、の3月、飯豊連邦横断の記録を残している。コースは水晶尾根を登って大日岳に登頂し、その後山からダイグラ尾根を下降したものだった。その間約3週間はオール雪洞、そしてスキーを使っての走破記録であった。

当時は東北大学山岳部が7回目の試みで冬の水晶尾根を始めて完登し、大日岳に登頂しているようだが、この記録はその直後に達成されたもので、冬の飯豊連邦の初横断記録だろうか?しかも下ったのはダイグラ尾根だからその価値はさらに高い。

その当時の社会人山岳会がどうしてこんな長期の山行が出来たか不思議だが、今となってもこれを実践できる人はそんなに居ないだろう。(元祖山屋フリーターだったらしい)当時のスキーは札幌秀岳荘の単板スキーだったようで、歩きの道具でありいざとなれば燃料となる代物だったらしい。

今では冬山登山の価値観、山行スタイルも大きく変わり、このような山行は過ぎた歴史の一コマという存在かもしれない。しかしその当時の熱い情熱と行動力は実に高く、とても今の我々にはマネの出来ないスケールの大きい山行だ。その後こういう先輩方が初期の社会人ヒマラヤ遠征隊を組織し、ネパールヒマラヤ未踏の高峰へアタックする原動力となっていった。

最近になってこの当時のSさんと再会するようになったが、この記録以外にもその後黒伏山南壁中央ルンゼの冬季初登攀、利尻山東稜厳冬期登頂などの記録を残している。今はまるで死語になった様な「パイオニアワ-ク」という言葉が光輝いていた時代だったのだろうと思う。今の我々から見ればある意味で幸せな時代のように思える。
コメント (3)
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