ピアノと海と花との生活 Ⅱ

~創造する芸術~

音楽家のお墓  Vol.12  プッチーニ

2007-01-28 | 音楽

          

   

    長崎を舞台に、純情可憐な日本女性の悲哀を描いたオペラ『蝶々夫人』の作曲

  家、また去年、オリンピックのフィギアスケートの曲で、話題になった『トゥーラン

  ドット』、ほかにも『マノン・レスコー』、『ラ・ボエーム』、『トスカ』など華々しい成功

  でその名声を不動のものにしたプッチーニは、1858年、イタリア、トスカーナの

  ルッカで生まれました。

            

    プッチーニの家系は、代々音楽家で、幼少の頃はあまり才能を発揮す

    ることがなかったのですが、18歳のときに、ピサでヴェルディの『アイーダ』

    を観て、尊敬するヴェルディのようにオペラ作曲家になろうと決心します。

    25歳のときに書いた『マノン・レスコー』で成功してから、3部作『ラ・ボエー

    ム』(1896)、『トスカ』(1900)、『蝶々夫人』(1904)の成功で、イタリアオペ

    ラ界での地位を確立しました。

    『蝶々夫人』では、異国的な雰囲気を描くのに、日本の旋律も使って、日

    本を舞台にした魅力の舞台をみごとに表現しました。

    ニューヨークに妻とともにわたった彼は、活気に満ちた都市の生活に驚嘆

    し、新奇な新しいものが大好きで、モーターボートや自動車を購入して、自

    動車狂の一面も見せています。

    (『蝶々夫人』の作曲中にも、大事故をおこしましたが、車椅子で作曲を続

    け、完成させました!)

          

          自動車に乗るプッチーニ

             失敗と成功を重ね、第1次世界大戦を経て神経症におちいりながらも

      『トゥーランドット』に着手したのは、62歳の時。

      オペラ作曲家として、作品数はヴェルディの26曲、ロッシーニ36曲に

      比べて、プッチーニはわずか10曲。それは、彼が題材にきわめて慎重

      で、台本作家の選定にも極めて力をそそいだからです。

      大昔の中国を舞台に、残忍な王女トゥーランドットの冷たい心が、真の

      愛を知ってとける、という伝説は、かなり古くからヨーロッパに伝えられ

      ていたのですが、この作品にプッチーニは命を捧げました。

      しかし咽頭ガンにおかされていた彼は、そこに心臓麻痺も加わり、

      1924年、ブリュッセルの病院で,66歳静かに息をひきとります。

      『トゥーランドット』の第3幕のリューの死の場面の前で、プッチーニが筆を

      おいたことから、後に未完の部分はアルファーノの手で完成をみて、そ

      の初演の夜、指揮をした友人だったトスカニーニは、指揮棒を置き

      「ここで、この部分で彼は最後の仕事を終えました」と客席に向かって、

      述べたそうです。トスカニーニの栄光ある生涯を通じて、公衆の前で発言

      した最初で最後の言葉だったそうです。

      

      写真は、プッチーニの住み慣れたトレ・デル・ラーゴの家の1室にある

      プッチーニ夫妻と息子の霊廟。

 

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