野田聖子は国会議員に中年男性(野田は「オヤジ」とさげすんでいるようだが)が多いことを問題視していながら、昨日取り上げた講演の中でこうも言っている。
できるならばもっと男性の中で男女共同参画社会という新しい概念の専門家が一人でも多く出てほしい。(中略)すなわち女性の私がこの話をしても、皆さんは相変わらず女性の権利の主張としか取ってくれないと思うんです。
たしかに男性も女性の問題について積極的に考えると言うことは必要であろう。
しかし、野田のような考え方をしてしまうと女性が男女共同参画社会について論じることは無駄だということになりかねない。そもそも野田は「女性」ということにこだわりすぎなのではないだろうか。
もっとはっきり言えばマスコミは野田が女性だからもてはやしているということがあるはずである。もちろん野田自身もそういうことはたぶんに意識しているはずであり、だからこそ『私は、産みたい』などという女性にしか書けない本を書いたのだろう。
つまり野田は自分が女性であることを「売り」にしている政治家でありながら、時として自分が女性であることが自分に不利をもたらしていると主張する政治家でもある。
むろんこれは野田に限らず、多くの女性の言動に見られるパターンだと言ってしまっては怒られるかもしれないが、野田の場合は特にその傾向が顕著である。
わたしは政治家が「女性」ということをことさらに主張する時代は過ぎ去りつつあると感じている。
週刊文春には野田の発言として、今は混乱の時期である、女性が本当に有能であると思うなら「平時」に出すべきで、こういう時期に女性を担ぎ出すのは女性をバカにしていると思われても仕方がないというような(手元に週刊文春がないのですが大筋ではこのようなこと)ことを言ったらしい。
その一方で今回女性の対立候補が出たことに関しては「いえ、別に。。。自分も女性ですから」という受け答えをマスコミの前でしたようであるが、これは全く週刊文春に紹介された発言内容とは異なっている。
わたしが野田聖子という政治家に根本的な不信感を覚えるのはこうした全く相反する発言をしているようであることであって、野田の発言をどのようにとらえればよいのかしばしば途方にくれる。
わたしはむしろ混乱の時期に女性を出すほうが、女性を頼みにしているのではないかと思う。混乱の時期というのはどういうことかは分からないが、これはようするに「自民党が混乱している時期」ということだろう。
もっとも混乱とか危機的状況とか言い出したら今がそうとは思えないが経済的なことに関してはいつもそういうことがいわていて、もちろん今も景気が回復しつつあるということはあまり認められていないようだ。
いずれにしろわたしは今回の選挙では女性の候補が多く(実際の数字はまだまかもしれないが)擁立され、マスコミの注目をあびれば多くの女性にとってむしろ喜ばしいことであると思う。
仮に話題づくりのための女性候補擁立であったとしても、女性の側からすれば、これが国会におけるさらなる男女共同参画社会の推進につながる可能性はある。
なぜ野田はオヤジの国会議員が多すぎると文句を言いながら、女性候補が擁立されることを歓迎しないのかわたしには不思議でならない。
野田も女性だから野田の選挙区に関して女性の議員が増えるということではないにしても今回、野田の言葉で言えば「混乱」の時期だからこそ、野田は注目されているということもあるはずだ。
ちなみに野田の対立候補として予測される人について、今回自民党が発表した人以外一体どれほど報道がなされただろう。
顔はおろか名前すらほとんど紹介されていないようである。
つまり今回の「混乱」で一番得したのは野田聖子自身であって、こういう状況では野田に対抗して立候補表明すること自体至難の技だと言うことができるのではないか。
野田は自分が大変な状況に追い込まれていることをさかんに喧伝しているがそうする事によって人々の哀れみを誘い人気を得ようとしている印象はぬぐえない。
わたしはそれを女性と結びつけることにはためらいを感じるがいずれにしてもこういう政治家はこれからの日本には要らないと思うことに変わりはない。