妄人妄語 衆議院議員野田聖子さんの選挙公約消去 有権者・国民を愚弄するサイト一時閉鎖に抗議します!「非道」はどっち?

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外務省と日本医大の甘すぎる処分。伊藤喜昭に退職金を渡すのか?

2004-12-30 14:06:40 | Weblog
暮れになると、あまりニュースがなく、各地の風景がテレビの画面をにぎわすというのが理想だが、なかなかそうはいかないようだ。今年の年末は大きなニュースが相次いで、本当は大きく取り上げられるべきニュースがあまり注目されないという事態が現出している。
今朝見たニュースでは以下の二つのものが私の目を引いた。

日医大、臨床経験偽り認定内科医合格の助教授を諭旨免職

ウガンダ大使諭旨免へ 公使時、330万円不正受給 ... 外務省は大使や元館員10人の氏名は明らかにしていないが、諭旨免職となるのは、伊東喜昭ウガンダ大使。 ... 含めた計436万円を国庫に全額返納した。. 外務省は退職金の3割も自主返納させる ...

どちらもあきれるというほかない。外務省はこの件に関して大使およびこれにかかわったものどもの氏名を公表せず、退職金も3割返納させるということは、7割はやるということで、それもまだ確かとはいえないようだ。よくこれで外務省改革云々いえたものだ。もちろん退職金は一銭も渡すべきではないし、これまでの全ての収入も全て罰金として課すぐらいのことは関係したもの全てについてすべきではないか?

とにかく予算を自分で見積もって請求するのはおかしい。生活費は住むところは与えられるのだから、家具も前の人のものを使えばよい。

年末にかけ、クレームのページになってしまうのは残念だが、外務省には本当にあきれ果てる。

しかもなぜか朝日はこのニュースを消した形跡がある。だとしたら、無茶苦茶な話だ。
外務省の不祥事に関するニュースはこちら

電話の先のプラスチックの部分を換えるだけで5千円近く取られそうだ。

2004-12-29 15:15:13 | Weblog
今日電話会社の人が来て何をするのかと思ったら、電話の線を差しこむ先の部分を取り替えるだけで、5千円近くとられるという。先の部分を取り替えたのは、電話のジャック?の部分がはずれて、電話がかかりにくくなってしまうということなのだが、これは先の小さな部品を取り替えるだけのことなのだが、部品を換えなくてもセロハン・テープでとめるなどいくらでもほかに手段はあるはず。

その部分は配線とは関係ない固定する部分に過ぎないので、秋葉原へ行けばその部品は安くで買えるかもしれない。母が電話で問い合わせた時点でどのような話しがあったのか、必ずしもはっきりしないが、母が出張費を払うことも承諾した上で呼んだらしい。

出張に来た人がそのジャック?の部分をはずさないでください、というので、はずせないのかということを私が訊く形で、話しが始まったのだが、部品を換えたのは先のツメが折れているということであるらしい。確かに先日から電話の線が外れやすくなっていたことは事実であるものの、外れれば付け直せばいいだけで、線が外れなければそのまま電話はかかるし、かけられる。

むしろ夜などに間違い電話がかかるのではずすことも必要だというと、それをやるとまたツメが欠けるようになるといい、どうせ欠けてしまうならテープで止めるなりしたほうがいいというと、母親がそれでいいといった、などという。またその部分を普通ははずすことはしないなどと言うが、自分がしている人でこれをやっている人は他にもいる。

音量を小さくすればいいなどというがそうまですることもない。そのときは相手が興奮して話せなかったけれども、線は全く触らずに電源のコンセントをはずせばいいだけの話しではないか。

こういったことを説明しないでお金を取るのはおかしいではないかということを言ったら、お金は要らないというし、そういう問題ではないだろうというと、今度はちゃんと書類を作ってお金を頂きましょうという。

で結局お金はとられることで母親も捺印した。母も工事人もブチ切れて、怒鳴っていたので自分はあきらめてネットで書くと言って見ていた。その修理は普通にやってることだという。自分はまず母親が電話で問い合わせたときに、ほかに手段はあることを説明せずに出張するように話しを持っていくのはいかにも年寄りの弱みに付け込むようで気分が悪い。

こういうこと(現場での出張費をめぐるトラブル)はきっとよくあるのであろう。何も文句を言わないところからは金をとり、うるさいところには金はいらないという。それで気分を害されるようなら金だけとってそそくさと帰ってしまう。

今日は雪の日で仕事は大変だろうとは思うが、ただもともとこれぐらいのことで、いちいち来る必要はなかったのではないか?そこの電話会社はもう休日でクレームは受け付けてくれない。なのに出張だけは来る。これ一つとっても矛盾してないだろうか。

そんなことをして後ろめたさを感じないというのは自分は理解できない。もう少し仕事には誠意を持ってやってほしい。お金は口座から引き落とされるらしい。

母のこととはいえ、どうしても口を挟まずにはいられない。

野田聖子『私は産みたい』に関する疑問

2004-12-26 22:54:42 | 野田聖子批判
23日の読売朝刊の「顔」欄に野田聖子のインタビュー記事が載った。『私は産みたい』の著者としての紹介記事だが、もちろんこの人が郵政大臣であったことなども紹介されている。

不妊治療や体外受精のことに関しては私はほとんど基礎的な知識もないので、非常に書きづらいが、こうした紹介記事を読んだだけで暗然とした気持ちになることを正直に告白したい。

まずこうした問題に関して自分が夫であれば口外することは許さないし、親族でそういうものがあれば協力はできない。それは生まれてくる子供のことを考えてのことである。つまり、これだけの苦労をして自分が生まれたということを記録に残すということに子供がどう反応するか、生まれてもいない子供の心をかってに推測することはできないはずであるのに、生まれる前からこれだけ子供を作ることに苦労をしていることを商業的利益や名声と結びつく形で発表していることには、きわめて不快な印象を禁じえない。

いうまでもなくこの問題は高田夫妻の問題でさんざん論じられてきた問題であるはずだが、こうした体外受精や不妊治療といった問題が有名人の告白のような形で論じられることが実に残念であるのは、この国会議員の言葉の中にある種のおごりのようなものを感じるからだ。

「人生は二者択一じゃない。仕事と出産・育児は両立して当たり前でしょ。」これはインタビューの中の言葉であることを考えるべきであるにしても反発を感じざるを得ない。「両立を目指すことが許されるのは当たり前」というのなら分かるが、野田の言い方にはそのようなひかえめな言い方とは明らかに全く違う専業主婦蔑視とも取れるような響きがあると私は感じている。

こういう女性議員の言葉を読むと、今私は実際の文章をここに確認していないが、三島由紀夫のそれこそ女性に対する偏見に満ちた文章の中で女性議員に対して激越な嫌悪感をもよおしていた文章を思い出してしまう。

ここまでいってしまうのが適当か分からないが、こういう人のコメントの中には、インテリ(と自負している)女性の非常に屈折したコンプレックスがあらわであって、寅さんの「俺は便所のうじ虫とインテリの女ほど嫌いなものはなねぇんだ」という言葉まで思い出してしまう。

私は野田が子供を生もうと努力することは自由であると思う。しかし、こういうインタビュー記事から受ける印象は野田が仕事と出産・育児を両立させる女性を目指しているということであるよりは、それができない人間に対する抑圧的な態度であって、自分の経験や苦悩というものがいかにも尊いものであって、それ以外の生き方をさげすむような視線である。

私はどんな社会問題でも経験に根ざした議論というのは尊重に値するとは思うけれども、そこには一般論として敷衍するにはふさわしくない部分が生じてくる可能性も忘れてはいけないと思う。

野田の主張に垣間見えるのは「女性」あるいは「家族」に対する信じがたいまでの大雑把な一般論またはステレオタイプとも言うべき強権的言辞であって、とても見過ごすことのできないおごりを感じる。

今私は『私は産みたい』を持っていないが、野田のサイトにある論文もきわめて分かりづらい内容でこれは別の機会に論じてみたいが、いずれにせよ野田の視点に欠けているのは、自分が国会議員という、特権的な地位にあることの特に「特権」という部分に対する自覚であるように思える。

われわれはすでに、刑事事件の被告で拘留されているものや、長期療養中のものが議員の職を離れずにいた例をいくつでも見てきたはずだ。

おそらくは野田は自分はその人たちとは違うというであろう。私もそれとは違うと思うが、議員の職務というのはよく考えてみると本会議を欠席したらその分減俸になるとか、そういった話しは聞いた事はないのであって、その仕事というものはあくまで、自分で決められるものではないかということだ。

極端な話し、学校の先生であれば産休には産休補助の先生がついてその任に当たるが、国会議員に産休の間、他のものが代わりにその仕事をしていたということがあっただろうか。

繰り返すが私は野田の本を読んでいないが、そうしたことは全く触れずにインタビューで仕事と出産・育児の両立などということに触れるのはいかにもまずいと思う。

もちろん大部分の有権者や読者はそんなことは十分承知のはずだがあえて筆を執った次第。

P.S.文中敬称略。それと細かな部分をたびたび直しています。




『少年A全記録』は公務員の守秘義務に違反しないか?

2004-12-24 21:45:57 | Weblog
正確な書名は『少年A 矯正2500日全記録』というらしいこの本の著者の記事を「週刊文春」で見た。現物は買っていないが、いくつか問題を感じた。私は「週刊文春」はいい記事があると思う反面、かなり問題のある記事が載ることもあり、実に困った雑誌だと思っている。

もちろん読者に何らかの問題意識を植え付けることやインパクトを与えることが、ジャーナリズムの使命だとすれば、それはある程度仕方がないこととはいえ、少年Aに関するこの女性ジャーナリストの記事はいただけない。まず、肩書きなどから見ていかにもこの人が少年Aを担当した人だという印象はいなめない。記事の内容も鑑別所での具体的なことについて書いてあるのでまるで、この人が少年Aと長い時間を過ごしていたかのような印象を受ける。

しかし、あるブック・レビューを読むとどうもこれは周辺を取材した内容であるらしい。であるとすれば、この人の肩書きはいかにもこの人物が直接担当した人であるかの印象を与えかねず、誇大広告の感は否めない。

すでにそういう批判がネット上にあるにもかかわらず、またしてもその点を曖昧にするかのような記事を載せているのははっきり言って悪意的なものさえ感じる。

もちろんこのようなことを書くことも一種のアナウンス効果、あるいは宣伝となるのを覚悟で言うが、むろんこの本の著者が直接担当した人であるとすれば、「全記録」を公にすること自体の倫理性を問われるであろう。

私はこの本の成り立ちがそもそもそうした点を曖昧にする形で形作られていることに嫌悪感を感じざるを得ない。

公務員には守秘義務がある。それと同時に情報公開という側面もあり、これは制度化されている。この本の著者は一体「ジャーナリスト」と「当局」のどちらの立場においてものを伝えているのかがはっきりしないのである。

むろん退職すれば公務員ではないが、退職すれば情報をもらしていいのかというとそれは違うであろう。この本の著者は自分の経験を元に取材をしているということのようだが、それがいかにも暴露本的印象を読者に期待させる戦略が感じられるのがもどかしい。

よく元税務官や元警察官の本なども自分の体験をもとに本を書いたりタレント活動をしている人もあるようだが、むろん問題がないわけではないだろう。

元外交官の人などでも、旺盛な評論活動をしている人などもいるが、外務省の問題が明るみに出るまでそういうことは一切言わず、外務省に都合のいいことしか書かなかった印象があり、これにも反発を感じた。

話を元に戻すが、法務教官という立場にあったものが、鑑別所の制度や仕組みなどについて商業的利益と結びついた形でコメントすることは非常に問題が大きいと感じている。法務省の記者会見にも問題が指摘されたことがあったが、こうしたことはあくまで当局の側が発表することにとどめるべきであって、一個人のジャーナリズムによって解説されることではないのではないか。

この「ジャーナリスト」は少年Aの現在の所在について事実と違ううわさが出た事に関して、自分が否定しているように書いているが、これこそまさにうわさがうわさを呼ぶといった類の話しであって、特定のジャーナリストが自分の肩書きを利用して情報を分析するような筋合いの話しではないはずだ。

これはあくまで記憶になってしまうが、少年Aの両親の故郷を「公開」したのも吉岡忍という人の「週刊文春」の記事だったように思う。そこにはその故郷を取材した上で、周りの人間が支えて行きそうだからこれを公開してもいいというような分かりにくい理由も添えられてあったはずだが、全くもってジャーナリストの商魂というのはそこまでたくましいものかと驚いた記憶がある。

私は事件報道というのは極力事実のみを伝える程度にしてあまり周辺取材はするべきでないと思っている。むろん、凶悪事件というのはいつの世にも人々の興味を誘うものではあるが、凶悪事件の報道や分析は凶悪事件の防止や現象ということにつながらないことははっきりしているのではないか。

もっともこうした記事や本が売れるということは、もちろんそれを望む人たちが多くいるということの表れであって、なんとも悲しい現実であり、自分もそれと全く無縁とは言い切れない。

別の週刊誌を開いた瞬間おととい行ったばかりの六本木のCD屋とそっくりな場所が白黒でうっつているなと思ったら果たしてそうであった。

そこには著名な女性バイオリニストがうっつていたが、そばにいた男性もうっつていた。私の記憶が正しければ目には修正が入っていた。

たしか宇多田ヒカルも最初に「激写」されたとき同級生の男と抱き合う場面の写真にはやはり男のほうに修正があった。その男は昔の有名ロック・シンガーの息子であって。そのことが書かれていながら修正が施されているのは犯罪者のようで可愛そうだと思ったものだが、その後同じ写真が修正抜きで同じ雑誌に載ったはずだ。

犯人扱いされるうわさになる男性もかわいそうだが、事件をネタに商業的利益を得ようとするものがこの国に少なからずいることはまことに耐え難い話しであって、このことは加害者の親が出版した本に関してもさんざん言われたはずだが、もうこの国のジャーナリズムや出版文化というのはそういうものだと割り切って考えるしかないのだろうか。

アンサンブル・プラネタ@六本木ヒルズ

2004-12-21 23:55:58 | Weblog
もし音楽フアンが生きる時代と場所を自分で選べるとしたら、どの時期のどの場所を選ぶだろうかということを考えたことがある。むろんこの問題はどの演奏家を聴きたいかということと関係が深い。もちろんそこには、録音として残っている演奏家の生演奏を聴きたいとか、ある特定の演奏家の演奏会をしらみつぶしに行きたいといったかなりぜいたくな欲望とも結びついている。

いずれにせよわれわれは何らかの形で資料として残っている演奏家にしか思いをはせることはできないのであるし、こんなことを考えるのはそもそも馬鹿げていることは自分でも十分分かっているつもりである。

しかし、それでもなお、私は今自分が生きている時代にアンサンブル・プラネタの音楽に出会うことができ、何度も最前列でこのアカペラ・グループの歌声にじかに接することができたことを何ものにもまさる幸せだと感じている。

現代という時代はある意味で演奏家にとって不幸な時代かも知れないということは、すでに遠山一行氏らによって、すでに指摘されていることかもしれない。これだけ録音技術などが発達してしまうと、実際に会場で接することができる生の音に感動することは難しいとも思われる。しかしそれだけに、本当に生の音に感動できるときはその喜びはまた格別なものになるということは言えるであろう。

特に人の歌声というものは、人間自体が楽器になっているようなものであるからその美しさというものを機械が完全に伝えることはできるのだろうかという疑問がわく。

アンサンブル・プラネタの歌声に目の前で接するとき私は、必ずといっていいほど全身が震え、目頭が熱くなるような感動を覚えることを恥ずかしながら告白したい。

自分は以前からピアノという楽器を中心に聴いてきており、声楽の分野には詳しくはないが、リサイタルのようなものにも何度か足を運びそれなりに歌声に魅了されるということは今までにも何度かあった。

しかしアンサンブル・プラネタの音楽に接して感動するときの感動というのは何か違った種類のものだという気がする。まずアカペラだということ、そしてマイクを通して歌っているということなどが思い浮かぶが、今日改めて感じたのはこのグループの演奏というものが、ただ単にコンサート・ホールで聴くということでは収まりきらないスケールの大きなものだということのような気がする。

これは特にこのグループに特有なことではなくてロックのコンサートなどでも野外のコンサートなどでとりわけ感じられることであろう。今日のプラネタのイベントは野外で行われたが、もしかしたらそこで味わえた感動というものはもしかしたらロックのコンサートで感じるような感動と同じ種類のものだったかもしれないとも思うのである。

この項たぶん?明日に続く!

プラネタのサイト(Discographyで試聴可能)

川本三郎氏の『マイ・バック・ページ』の感想文

2004-12-20 15:58:22 | Weblog
川本三郎氏の名前をはじめてみたのはもう15年ほど前のことのような気がする。岩波のセミナーでの感想を『世界』か何かに書かれていたのが最初にこの人の名前を意識しだした頃のことだと思う。永井荷風についての評伝やエッセーはよく知られているし、映画評論の分野ではもちろん大家である。映画パンフレットのようなものにその名前を見つけたこと記憶がある。他にもカバーしている分野は多く、特にアメリカ文学に関しては、下手な大学教授とは比べ物にならないほど鋭い分析に満ちた論考もある。

そんな川本氏の略歴を見てやや意外にに思ったこともないではなかったが、まさか氏にこのような過去があったとは、昨日の夜まで夢にも思わなかった。昨夜は寝不足がたまっていたせいで、途中から読み始めたこの本を途中で断念せざるを得なかった。そしてきょう昼から一気に読んで、久しぶりにいい本に出会ったという感慨にとらわれた。

まさかこの人に「前科」があるとは思わなかったし、朝日新聞社を「懲戒解雇」されたとは思ってもみなかった。「昨今のジャーナリズムは地に落ちた」とはすでに言い古された言葉である。しかし、この評論家のあまりに苦い過去に当人の筆で接するとき、本当に素晴らしい記事は経験した本人にしか書けないのではないかとさえ思ってしまう。

このブログをご覧になった方には、今でも文庫本で手にはいるのでぜひ本書を「逮捕までⅠ」から読んでいただきたい。

私自身は60年代の政治的風土というものに反発を感じていたが、もしかしたらそれは憧れの裏返しだったかもしれないと今は感じている。イデオロギーの違いはあるにしても少なくとも自分にとってこの本は貴重な精神的財産となったことは言えると思う。

取材対象とジャーナリストとのつながりという点で言うと、自分はどうしてもTBSとオウム、あるいは埼玉の連続殺人事件の容疑者?の有料記者会見などを思い出してしまうが、こんなことを書くのが恥ずかしくなってしまうほど、ここに書かれた事実には真摯なジャーナリストの葛藤があり、夢がある。

それにしても逮捕歴がある川本氏がここまで旺盛な執筆活動をしている原動力は実は本書に登場するKなる存在によるのではないかとも思われる。

川本氏はKに裏切られたように書いているが、むしろKはジャーナリストの本質は集団にいては発揮できないことを「川本三郎」という若い記者に知らしめるべく共犯者に仕立て上げたのではないだろうか。そしてその若き記者が今日の川本氏のような活躍をしていること自体がどんな映画よりも感動的だといったら大げさであろうか。

Kという人物はもうとっくに刑期を終えているであろう。そして現在の川本氏のことをどう思っているのだろうか。

果てしなく想像が広がるあまりにロマンチックな物語がそこにある。


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芸能人・有名人の結婚パターンに関する一考察?

2004-12-17 13:33:53 | Weblog
芸能人や有名人の結婚やその後の活動パターンについて
考えてみました。

1大物どおしの結婚でその後も活躍・・・ペギー葉山・根上淳夫妻、高嶋忠夫・寿美花代夫妻
 などがこれか?現在は少ないような気がする。

2大物どおしの結婚でありながら、妻は家庭に入るパターン・・・北原三枝がこれか。
 山口百恵はここか9にはいるか難しい。スケールは違うが竹中直人も悩ましいところである。

3一応芸能人ではあるもの旦那のほうが知名度が低く、ひもであるみたいに言われ叩かれる
 パターン・・・田中美佐子の旦那のように結婚を機にブレークする場合もあれば、
 松阪慶子の亭主のように悲惨な運命をたどる場合もある。

4ある時期おしどり夫婦として両方芸能界で活躍しながら、その後離婚してしまう「小柳ルミ子」
 パターン。これは3の一種か?これに限らずとにかく芸能人は離婚が多い。

5旦那や息子がぐれてしまい、本人のイメージが崩壊する三田佳子型。
 松原のぶえなどもこれか。これは本当に救われないという気がする。

6結婚するあるいは彼氏がいると発表しても信じてもらえず、かえってイメージが悪くなる西田ひ かる型。引田天功などもそれか。

7結婚していることをひた隠しにするジャイアント馬場パターン。
 これとは関係ないがアントニオ猪木の最初の結婚相手はアメリカ人で娘もいたはず。
 どちらかが割りと早くに死んだといううわさを聞いたが、確かめていない。石井苗子は、
 たしか結婚(離婚暦?)を一時隠し、マスコミにばれたにもかかわらず、それを知らなかった
 男性との間でトラブルに。たしか、彼女には子供もいて、健康状態がよくないと思ったが、これ も確認できていない。

8実はこの人たちは夫婦だったのかと知って驚くパターン
 中野重治(プロレタリア作家)・原泉(老け役ばかりやっていた女優)夫妻がこれに当たる。

9内助の功でだんなをたてて夫婦円満、しかも旦那が出世する「あげまん」パターン・・・木内み どりや鈴木杏樹など小数に限られ、これはかなり難しい。

10とにかく最低としかいいようがない泥沼離婚や結婚自体が意味のないほど結婚離婚を繰り返す パターン。これは枚挙にいとまがない。
 泉ピン子や市毛良枝もそんな感じの離婚だった。後者のパターンとしてはご存知エリザベス・テ イラーや、ディックミネなど。石野真子も3回ぐらい結婚し、それ以外にも色々うわさがある。
 ため息しか出ない。五月みどりもこれか。

11すでにある程度の富や名声を得ていながら、さらなる富を求めるシンデレラ・コンプレックス 型結婚。
 野球選手と女子アナの結婚もこれか。女子アナはそれほどでもないから違うかもしれない。
 ジャクリーン・オナシスのように生涯お姫様一直線の人もあれば、同じジャクリーヌでも
 ジャクリーヌ・デュプレのようにあまりに悲しい現実がまっている場合もある。
 最近の例では、後藤久美子や中村江里子、などがこれか。
  
無論結婚のパターンはさまざまでこれだけあげても全てのパターンを網羅しているかは分からないし、これらのいくつかを組み合わせた結婚も多いだろう。しかしいずれにせよ、芸能人はどうも自分のプライバシーを切り売りしているような場合が多いように見受けられる。
ジャイアント馬場の晩年のカリスマ的人気というのは、元子さんの存在を隠すことで彼女を守り通したというところにあるような気がする。もっともプロレス会場で自分は何度となくあの人を見ていたが。いずれにせよ、有名人は大変だなどと思ってしまう。。。結婚してもよほど収入などがつりあってないとボロクソいわれ、結婚しなけりゃそれも叩かれる。というわけで、一般人と結婚する場合、素性を明かさなかったり、肩書きだけで実名を明かさなかったりするのであるが、その後写真や実名を公表する場合もあり大変な気を使わねばならないことあるようだ。

もっとも一般人の結婚でもかなり色々と気を使うであろう。

自分はその気苦労がないことだけはある意味幸せだと思っている。


追記。いわゆる逆玉を忘れていたが、これは3であろうか。三浦友和はやはり逆玉か。

そう言えば、数年前青江三奈の主人と称するものの騒動があった。

追記2
高樹沙耶とかいう女優さんは、中西圭三と離婚したあとハワイ在住のダイバーのような人と一諸に暮らしていたがお互いのことをパートナーと呼び合っていたそうだ。これはいわゆる内縁に当たる関係で結婚ではないが、こういう生活のあり方もないわけではない。

ちょっとの間壁紙をいじってみます

2004-12-17 02:08:30 | Weblog
結構きれいに思えたので。。。ちょくちょく変えて
また戻してみたいと思います。
内容とふさわしくないし、字も見にくいのですが、
左側の絵はきれいですね。

これを観てるだけでほっとするような。。。

今日は中味なくてすいません。

その方がよかったりして。。。

人工の尾ひれをつけてまで水族館に利用されるイルカの悲劇?

2004-12-16 16:20:09 | Weblog
沖縄の水族館でイルカが奇病にかかり、尻尾を切断せざるをえなくなったそうだ。そこへ人工の尾ひれをつけて泳げるようになったのだが、動きやすい尾ひれを作るまで試行錯誤が繰り返され、また東大の研究室に持ち込まれて作られた結果いい人工の尾ひれができて泳ぎ、飛びまわれるようになったという話がCBSのビデオで紹介されている。

いい尾ひれが作られたということは決して悪いことではないのだが、水族館という環境は本当にイルカにとっていい環境なのだろうか。人間にとっての監獄、もしくは強制労働所のようなものではありはしないだろうか。イルカは喜んでいるかのように見えるといったところで、あくまで推測である。それはいいシッポをつけてもらえればうれしいかもしれないが、奇病にかかったこと自体、水族館にいたことと関係なしとはいえないだろう。

一部の人間の経済的な利益や功名心のために、病気をした後でも水族館でショーをさせられるイルカ。イルカの本当の気持ちは分からないが、自分などはイルカは海にいるのが一番にいいはずと思う。

大体沖縄にそもそも水族館など必要あるだろうか。要するに公共事業の一種であり自然破壊の一種のような気さえする。

研究者の人たちはそういうことは考えたことはあるのだろうか。それとも一笑に付されるだろうか。自分にはそういう人たちの気持ちが分からない。イルカを可愛がっているふうを装いながら利用しているとしか思えない。

某野党は子供の写真をビラに使うのはやめてください!

2004-12-15 13:27:24 | Weblog
以前与党のある大物政治家が公共事業に関して「道を作れば子供もそこを通るのだから、決して無駄ではない」ということを言っていた。これは討論番組で子供たちに借金を残すのはけしからんので無駄な公共事業はやめよ、といわれたときの反応であった。

なるほど、と思うと同時に子供たちは果たしてその公共事業に賛成するだろうかという疑問がわいた。今現在ほとんど十分な説明が行われないままにいろいろな公共事業が行われたり、公共の施設が売却されたりしている現状で有権者でさえ蚊帳の外に置かれ、自分の意思は何年に一度かの選挙でしかない。さらに現在の有権者の口をふさぐために、未来のまだ存在すらしていない人間を持ち出して「子供たちのために」というのは、非常におかしなやり方だと思う。

「子供たちのために」という言い方をされるとなかなか反論はしにくい。非常に曖昧模糊とした霧に包まれるような気分になってしまう。

教育に関する議論でもそうだ。ある野党は、教育の問題は文部科学省が悪いという言い方をして、権限を地方に移せという。本当にそんなことで教育の問題がなくなると思っているのか。正直この程度の議論しかできない野党を支持してしまう国民にも問題があるのではないかという気がして仕方がない。自分はあまり偉そうなことはいえないが、具体的な政策を分かりやすく国民に伝えるのが政治家の役割ではないのか。

野党が何かというと選挙期間中に教育や食の安全といった、いわば政治の側では直接扱うのが難しい問題を取り上げるのは、防衛や安全保障といった、それこそ国の根幹にかかわるだけでなく今まさに議論すべきことに関して議論すれば「負ける」という意識があるからではないかとまで思ってしまう。

ある野党がよく自宅のポストにビラを入れてくるが、その一つには子供の写真が大きく使われている。ふくれっつらの顔である。私は思う。「親の顔がみたい」と。この子は大きくなって自分の顔がそこに使われたことをどう思うであろうか。自分ならはっきりいっていい気はしないだろう。

それともそういうことに疑問を抱かないように育てるということであろうか。それとも、そのビラは外注で、どこかの子供タレントを使っているので、中味とは関係ないということであろうか。野党のビラがどこも似たようなものになるのもそのためか。

イメージはたしかに大切かも知れないが、それは政治家自身の言葉によってなされるべきであり、関係ない子供を使うのは自分には非常に印象が悪い。かりに子供タレントでも親はそれを許しているのであろうか。政治家も親も子供を利用するのはできるだけやめるべきではないか。

東大院生や助手の不毛な研究?

2004-12-13 23:47:26 | Weblog
今日は読売新聞に超高層マンションの建設ラッシュの話しが出ていた。住み心地に関して不便なところも書かれていたのだが、その中で東大(東京大学・以下も同じ)の助手の人がアンケートのようなものをまとめていて、たしかその内容が子供が友達ができにくいといった内容であった。

そしてTraining Journalとかいう雑誌を見たら、題名の一部に「エリート」とあった「論文?」があったのでちょっと見てみると、東大の医学部の中にバスケット・ボール部があって、そこのコーチをしている人の感想のようなものが書かれていたが、その論文の意義が分からなかった。練習中にある部員を叱責したら、ある部員からメールが来て、「自分たちはある意味挫折を知らないのであまり怒らないでください」といった内容のものだったということなどが書かれていた。エリートは失敗を恐れる、とか、エリートは型にはまった練習が好きだ、といった趣旨であったが何でこんなことをわざわざ雑誌で書く必要があるのか理解に苦しむ。

東大の助手や院生というのはこの程度の世間話で済むことをデータを取ったり先行論文を引用したりしながら文章を書き、マスコミに売っているのだろうか。私は上にあげた記事のどちらも手元にないので必ずしも正確ではないかもしれないし、その道の専門家ではないが、あまりに不毛な研究のように思えて仕方がない。

これで奨学金を得たり、研究費を得、さらには就職をする(助手の方はしてるともいえるであろうが)のであれば、あまりに情けないような気がする。もちろん住環境やスポーツ心理学?などは重要な分野かもしれないが、それだけに不毛な研究に対する厳しい眼が指導教官にもマスコミにも必要だと思うのだが。。。



国士舘大学サッカー部は廃部、私学助成もやめよ

2004-12-11 23:37:30 | Weblog
今回の事件のあと加害者は全く反省していないようだし、大学側もあまり厳しい処置を検討しているようでもないようだ。
もう厳しい措置しかないのでは。似たような事件も次々に明るみに出ていることだし。

すいませんが、今日同趣旨のブログを何べん送ってもなぜかトップに表示されなかったので、もう一度送ります。前のブログも読んでもらえると助かります。

国士舘大学サッカー部廃止・私学助成打ち切りも関係者は検討すべき

2004-12-11 12:10:31 | 国士舘大学の問題を私なりに考える
またしてもという気持ちになったのは自分だけであろうか?国士舘大学の集団(準)強制わいせつ事件に続き、アジア大学の学生たちによる痴漢未遂事件が起こった。そして今度は日体大のレイプ事件を大学が公表せずにいたことが明らかになった。

まず最初に断っておかねばならないのは、「痴漢」というのは冤罪のこともあるし、強制わいせつや強姦の類は「和姦」の類でもあることがあるということだ。しかし国士舘大学の事件と加害者の動機を報道で伝え聞いたところでは、この事件に関してはあまりにもひどすぎるという感じがする。またこれだけ似たような事件が相次いで明るみに出るということはよくあることだけれど、「他にもまだあるんじゃないか」と想像してしまう。

もう20年以上前になるであろうか、国士舘大学に不祥事があったとき、当時フジテレビにいた逸見政孝アナウンサーが大学にいって学生にインタビューをして「かんけいねえぇ~だろ」などといわれて怒られていたが、負けじと反論していたのを思い出す。そのような取材がいいかどうかは別として、こう何べんも似たような事件が起こると、スポーツ選手や特定の大学だけでなく、大学全体、男全体にとっての恥である。

事件の性質はそれぞれ違うので「スーパー・フリー」の事件についてはあえて触れないが、ことに国士舘大学の事件は特に悪質であって、今発表されているようなサッカー部の無期限活動停止といったことで済ませていいのかという気になってしまう。この大学はこの事件に限らず不祥事の例が後をたたないが、こんな大学に入ったり、教える人たちは恥を知るべきで、もちろんサッカー部もこの忌まわしい事件を真摯に受け止めて廃部すべきだ。

私立の高校ですら確か毎年数億円私学助成を受け取っている。私大はもっとであろう。これはあくまで推測だが、もし国士舘が私学助成を受けているなら、もうそれは打ち切るべきであると思う。
それぐらいのことをしない限り、加害者は反省できないのではないか。またこんな大学が公的助成に値するとは私にはとても思えない。

またしても週刊誌の中には被害者の「落ち度」について言及しているものがある。言論の自由とはいえ、よくもまたこういうことを書くものだと正直これにもあきれざるをえない。確かに少女の側にも「落ち度」あるであろう。しかし大学生というのは「知らない人にはついてゆくな」といわれるような不審者の類であってはならないはずだ。報道によれば学生の側から声をかけたらしいが、その時点で自分の感覚ではおかしいし、もし女子学生の側から深い付き合いになるようなことがもちかけられたとしても、それを諭してやめさせるのが、スポーツマンということを持ち出さずとも
年上の人間の常識というものではないか。

私は中年の独身男性であっていつ道を踏み外すか分からない部分もあるが、動機を訊かれて「面白半分で。。。」とか「無料だから。。。」などというほどおろかではないつもりだ。

獨協大学などセクハラで処分があったのに公表しなかった大学もある。国士舘の事件も明るみになるまで時間がかかっている。加害者の名前は一応公表されているが(私はその一部しかまだ見ていない)、顔も修正してしか公表されていない。この程度の「社会的制裁」ではたして十分といえるであろうか。

被害者にしてもそうしたことなどを思い煩い、相談された親も思いわずらって事件が明るみに出るのが遅れたと思われるが、このようなことでは、この手の事件をなくすことはできないと思う。わいせつ事件の類だけでなく、セクハラやハラスメントの問題でも問題を明るみにできず、心に傷を抱えてつらい人生を歩んでいる人も多いのではないだろうか。

実は自分もとあるところで非常にいやな思いをしただけでなく、人生を目茶目茶にされてしまった。とにかく国士舘大学には厳しい処分を大学自らが自分に課すことを期待するし、受験する人にはこうした事件のことを知った上で受験してほしいと思う。

志村けんの家になぜ警察は駆けつけなかったのか?

2004-12-09 14:59:33 | Weblog
志村けんの家に泥棒が入ったが、警備会社が現場に着くまで30分もかかったという。下水道の工事があって行くのが遅れたというが、この言い訳は納得できるものであろうか。以前から思っていたのだが、こういう話しを聞くと警備会社というのははたして意味があるのであろうかとまで思ってしまう。犬もほえなったそうだが、自分はいつも怖そうな犬の散歩に悩まされているのでこれもまたちょっと信じられないような話だ。

そういえば、あるお笑いタレントが短い期間に何度もスリにあったことがあったがそのとき「それはウソだ」見たいなことを言った人もいた。

今回の志村けんの話はうそではないが、「うそであってほしいような話し」である。もちろん泥棒が入ったということ自体、あってほしくないことではあるが、警備会社が駆けつけるまで30分もかかったというのがなんとも情けない。警備会社というのは最近急成長している業界の一つと思われるが、これではほとんど責任を果たしていないと言われても仕方がないであろう。そもそも警報装置がなったのにそれで、警察が来なかったというのもおかしな話しで警報装置も意味がないと思ってしまう。

警備会社の契約内容についてはよく知らないのであるが、ガラスが割られて警報装置がなった時点で自動的に警察に通報されないのであろうか?また警備会社というのは都内にどれぐらいの社員が待機しているのであろうか。全く疑問だらけであるが、もしガラスが割られた時点で警報装置がなり、近所の人も警備会社も警察に通報していれば、そして警察も車や自転車さらに走るという全ての手段を使って現場に駆けつけていれば犯人を捕まえることができたかもしれない。

しかも志村けんの家に泥棒が入る前には近所で小額ながら泥棒の被害にあった家もあるらしいので、このように泥棒のはしごができるのでは全くおかしな世の中で、何らかの抜本的な対策が取られなければならないはずだ。これは何も今に始まった話しではなくて、例の石原東京都知事の差別発言のときにマスコミはその差別だけを取り上げて難詰したが、実際これだけ東京に泥棒が多いとマスコミも都知事も警察も一体なにをやっているのかという気がしてしまう。

自分は泥棒されるより泥棒をするほうに近い経済状態いやそれ以下であるが、実際にものを取られること以上に、現場に出くわして殺されることのほうがコワイ。以前ある寮で中国語と思しき言葉を話す人たちが目の前で廊下にある机などを持っていったことがあったがこわくて何も言えなかった。

志村けんは泥棒に「働けよ」というメッセージを送っていてそのメッセージは今の自分にとってもきつく響く言葉だが、警察や警備会社の方々にももっとしっかり仕事をしていただきたいと思うのは自分だけであろうか?