五、「教会とわたしたち」(376)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その17)
10 この世の財貨を失っても、聖徒は何物をも失わない。
ノラの司教、わたしたちのバウリヌスは大変富裕な人であったが、進んでこれを捨て、きわめて貧しくなった。彼は聖なる人であったが、後で次のようなことをわた
しに語ってくれた。ノラの町が蛮族の略奪を蒙り、司教自身も彼らの手の中に陥ったとき、彼はこう心の中で祈って言った(わたしたちはのちにそれを学んだ)。
「主よ、わたしが金銭のことで心を痛めること(前回はここまで)がありませんように。あなたはわたしの宝がどこにあるかを御存じでいらっしゃいます」。まことに
彼の真の持ち物はすべて、かつてそのような禍が地上に来ることを予言されたキリストが、彼に対して隠し貯えるように示されたその所〔天〕にあったのである。
このようにして、宝をどこに・どのように貯えるか、という神の教えに従った者は、彼らの現世の財貨までも侵入した蛮族から守ることができたのである。しかし神
に従わなかった者は、即座の知恵によってではなかったとしても、その後の経験によって、現世の財貨の正しい用法を学ぶこととなったのである。
しかし善良なキリスト信者の中にも敵によって拷問をかけられ、その財貨を差し出すように強要された者がいる。しかし彼らは財貨を差し出すことはできなかった
し、また彼らを善きものとする真の財宝を失うこともなかった。もし彼らが不義の財宝の引き渡しよりも拷問を~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)