日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-08-23 23:26:03 | 大分中央ウィークリー

 

五、「教会とわたしたち」(376)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その17)

 10 この世の財貨を失っても、聖徒は何物をも失わない。

ノラの司教、わたしたちのバウリヌスは大変富裕な人であったが、進んでこれを捨て、きわめて貧しくなった。彼は聖なる人であったが、後で次のようなことをわた

しに語ってくれた。ノラの町が蛮族の略奪を蒙り、司教自身も彼らの手の中に陥ったとき、彼はこう心の中で祈って言った(わたしたちはのちにそれを学んだ)。

「主よ、わたしが金銭のことで心を痛めること(前回はここまで)がありませんように。あなたはわたしの宝がどこにあるかを御存じでいらっしゃいます」。まことに

彼の真の持ち物はすべて、かつてそのような禍が地上に来ることを予言されたキリストが、彼に対して隠し貯えるように示されたその所〔天〕にあったのである。

このようにして、宝をどこに・どのように貯えるか、という神の教えに従った者は、彼らの現世の財貨までも侵入した蛮族から守ることができたのである。しかし神

に従わなかった者は、即座の知恵によってではなかったとしても、その後の経験によって、現世の財貨の正しい用法を学ぶこととなったのである。

しかし善良なキリスト信者の中にも敵によって拷問をかけられ、その財貨を差し出すように強要された者がいる。しかし彼らは財貨を差し出すことはできなかった

し、また彼らを善きものとする真の財宝を失うこともなかった。もし彼らが不義の財宝の引き渡しよりも拷問を~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-08-23 23:22:27 | 大分中央ウィークリー

創世記23章18節である。「町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。」という。これは多くの証人たち前で公的にアブラハムの所有となったという意味である。この聖書の箇所、23章1節「サラの生涯は百二十七年であった。」から、アブラハムにとって妻サラの死去とその埋葬のために寄留地で墓地を購入する。どこまでもこの世の金銭取引のルールに則らねばならなかった。

 

しかし、これが神認識から始まる信仰の決断と祈りによるなら当然のこと。人は、罪深い人間そのものを読み切っての確信と自信をもっての行動を必要とする。そのために人はこの世のルールを適切に用いて行動を取らねばならない。信仰者の生活はこの世から離れてはならない。神とこの世の関係の中に生きる。それ以外でない。

 

19節である。「その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。」という。その資料はすべてP典(444BC)であるから、実際の取引の社会形態の時代としては、ずっと十数世紀以前にさかのぼるものであるから、伝説資料によっている。要するに伝説資料によって、聖書は墓地のイスラエルの確固たる所有権を主張しているのである。

 

新約聖書に、イスラエルの歴史を比較的詳しく語っているものが三つある。第一はペンテコステの後にペトロの説教(使徒2:29以下)、第二は、ステファノが、その殉教前に語った歴史(使徒7:2以下)、第三は、ヘブライ人の手紙の著者が語る歴史(11:4以下)などである。その第二のステファノの説教に「かつてアブラハムがシケムでハモルから」買ったという。彼がヨシュア24章32節と取り違えたものである。


牧 会 通 信

2016-08-23 23:12:05 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その8)

◯するとその男はわたしが先達に自分のことを尋ねたのだと気づいて、絶叫した、「わしは死んでも、生きてたときのままだ。

 ヂョーヴェ(ギリシャ神話に出てくる神々の神)が憤激して最後の日にわしを撃ち殺した、あの鋭い電光を渡した奴の鍛冶師をへとへとにさせようとも、

 モンヂベッロ(シシリー島にある火山)の黒い鍛冶場で、かつてフレグラ(ギリシャのテラサリアの広原)の戦いでしたやうに、天晴れなヴルカノ(神話、ヂョーヴェの子であり、火の神)助けろ、助けろ! と叫びながら(前回ここまで)

◯他の鍛冶師どもを代わる代わるヘトへとにさせ、全力を振絞つて電火でわしを撃たうとも、痛快な復讐は出来まいぞ。」

 するとわたしの先達はわたしがまだその口から、聞いたことがないほどはげしい口調で言つた、「おお、カパネオ(ギリシャの七王の一人)、お前の傲慢の火

が 弱まらぬことによつて、お前は人一倍罰せられてゐるのだ、お前を焼くその激怒を除いて、お前の狂暴さにぴつたりな刑罰の苦痛はあるまい。」(つづく)

 

◯本日は、2016年8月21日は第三十四主日、三位一体後第十三主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「いやしの力」という主題。聖書はヨハネ5・1~

9、その8節、「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」とある。イエスの

御言葉による「いやしの力」である。

◯写真は、先週、夏期学校を開いた。大人ばかりの夏期学校で、秦博記長老の日曜学校誌に基づく発題があり、今後の伝道について熱心に協議した。