日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2016-05-26 12:32:22 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その12) 

◯どのやうにして霊がこの節だらけの木に縛りつけられるか、また出来れば、いつか霊がこんな五体から解き放たれることがあるのか。」

すると幹は激しく喘いで、やがてその風はこんな声に変つた、「そなたには簡単に答へよう、(ここまで前回)

◯残忍な霊が肉体から自身を引抜いて離れると、ミノス(神話のクレタの王子)によつて第七圏(第七地獄)に送られ、この森に落ちるが、

 選ばれた所ではなく、偶然によつて投げつけられた所で、霊はオート麦の粒のやうに発芽して、

若枝と伸び野蛮な潅木となる、するとアルビア(神話の牛頭身人怪物)たちがその葉を食つて苦痛を与へ、苦痛に吐け口を与へる。(つづく)

 

◯2016年5月22日は第二十一主日、三位一体祝日という。日聖協「聖書愛読こよみ」は「愛し合う交わり」という主題。聖書は使徒8章

14節以下は父と子と聖霊がそれぞれ独立した神の人格を持っているということを教える聖書の箇所である。サマリアでは、キリストの教え

を聞き、人々は洗礼を受けた。しかし、聖霊は、まだだれの上にも降っていなかった。ペトロとョハネがエルサレムから遣わされて、「聖霊を

受けるようにその人々のために祈った」。17節、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」という。聖霊を求める祈

りが大事である。

 

◯写真は、「陥没している家屋」、阿蘇三久保町付近。日本アライアンス教団・永井一匡先生提供。


プロテスタントとカトリック

2016-05-17 23:03:25 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(362)

近代から現代へ(宗教改革とその後)   はじめに近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その3)

わたしが地上の国についても語らなければならないのは、そのためである。もろもろの国は地上の国に隷属するが、それはまさに支配欲そのものによって支

配されている。わたしが取りかかった仕事は、どの一つをも省くことが許されない。十分な理由があり、能力の許すかぎりは、すべてを言わなければならない

のである。(前回ここまで、訳文28頁15行目)

1、    ローマが略奪を蒙ったとき、蛮族たちはキリストのゆえに、いなキリストの名を否むものをも助命した。地の国からはもろもろの敵が起こり立つが、わたし

たちは神の国を彼らの手から守らねなければならない。確かに彼らの多くはその不信心な誤謬から立ち帰り、神の国の善良な市民となった。しかし他の多くのも

のは、天の国に対する憎悪に燃え立ち、贖い主によって彼らに恵与されることの明らかな恩恵に対して、感謝しようとしない。彼らが敵の刃を免れて逃げ出した

際に、もしも聖所(教会)の中に隠れ家を見いださなかったならば、生き延びて雑言の一つたりとも吐くことすらできなかったことであろう。キリストの御名を憎んで

いるのは、蛮族たちがキリストのゆえに命を助けた、その当のローマ人たちではないだろうか。

 殉教者たちの廟(びょう)堂や使徒たちの会堂がこの事実を証しする。ローマ略奪の間、そこに避け所を求めた者には、キリスト信者たると(つづく)

(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-05-17 22:58:27 | 大分中央ウィークリー

創世記23章4節である。「『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのですが。』」という。このようにいって頼んだ相手は3節に言われている「ヘト人」であった。人間の社会は今も昔と変わらない感情を持つのは冠婚葬祭の出来事のときであった。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12・15)といわれる出来事である。 

従ってここ、今から3800年ぐらい年月が隔たっていても同じであった。アブラハムは妻サラのなきがらを前にして、先住民であるヘト人に墓地の譲受を願うのであった。「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、~」と、実に先住民に失礼にならないように心配りを怠らない。人間社会の基本的あり方である。 

5節である。「ヘト人はアブラハムに答えた。どうか、」とあるが、翻訳としては、「どうか」というのは不必要であるが、もし、この言葉を入れるなら、6節の初めに入れる言葉であろう。要するに、ここは二つ返事といってよい。「ヘト人」というより「ヘトの子達は(ベネー ヘト)」であり、原語は複数形である。「ヘトの子達が快く答えた。」という言い方にした方が良い。口語訳は「ヘトの人々は~」となっている。 

たぶん、アブラハムの丁重な願いと、それを受けてのアブラハムのその状況への心からの彼ら全体の厚い同情をあらわして、そばに集まった全員が心を合わせてアブラハムに答えているようである。アブラハムもまた、ヘト人の集団の同意を得ようとしていたのであろう。なぜなら、個人的出来事であるが、同時に全体が共有している。このような訃報はその集団全体のものであった。果たして今日はどうか。


牧 会 通 信

2016-05-17 22:41:18 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その11) 

◯すこし待つてから、「このものが黙つてゐても、」と詩人がわたしに言つた、「時をむだにしてはならぬ、話しかけて、訪ねるがいい、もつと訊きたければ。」

  それでわたしは詩人に言つた、「わたしを満足させるとあなたが思はれることを、さらに自ら尋ねて下さい、気の毒でゐたたまらず、わたしには出来さうもありませんから!」

  それで詩人はまた言ひ始めた、「そなたが切望することをこのものに喜んでしてもらひたければ、閉じ込められた霊よ、もつと話してやつてほしい、(ここまで前回)

◯どのやうにして霊がこの節だらけの木に縛りつけられるか、また出来れば、いつか霊がこんな五体から解き放たれることがあるのか。」

 すると幹は激しく喘いで、やがてその風はこんな声に変つた、「そなたには簡単に答へよう、(つづく)

 

◯2016年5月15日は第二十主日、聖霊降臨日という。日聖協「聖書愛読こよみ」は「聖霊の賜物」という主題。聖書は使徒2章1節。「五旬祭の日が来て、

一同が一つになって集まっていると、と、」いう。すばらしい日がやって来た。聖霊の降臨である。まだかまだかと待っていたのは120名ばかりの弟子たちで

あった。聖霊とは何かも知らなかった。イエスの十字架と復活を語る言葉を与えそれら二つを理解させ、世を教会の世界に変えた。

 

◯写真は、「熊本地震の段差」、阿蘇三久保町付近。日本アライアンス教団・永井一匡先生提供。


プロテスタントとカトリック

2016-05-10 13:43:42 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(361)  近代から現代へ(宗教改革とその後) 

はじめに近代への萌芽として、アウグスチヌス著「神の国」から引用(その2)

それにもかかわらず、謙虚からは一種の高挙が、人間の倨傲(きょごう)の結果としてではなく、神の恵みの賜物として湧き出るのである。このような高挙は、

あらゆる地上的倨傲の尖塔よりも高く、わたしたちを引き上げるであろう。しかしてそのような土台の上に揺れ動くものは、何と安定を欠くことであろうか。

(前回ここまで、訳文28頁4行目)

わたしたちの現下の主題であるこの国(ローマ帝国)の王であり建設者であられる神は、その民ユダヤ人の書物の中にその律法の定めを明示された。そこには

こう書かれている。「神は矯(いつわ)り高ぶるものに逆らい、謙虚なものに恵みを与えられる」(詩篇114・15.但し邦訳は異なる)。これは神の言葉であるが、傲

慢な人間の思い上がったこころは、これをこじつけ、次の引用文をあたかも自分への賞賛として聞きたがる。打ちひしがれたものに思いやりを示し、おごり高ぶる

ものを打ち砕く(ヴェルギリウス『アエネアド』六・八五三)。わたしが地上の国についても語らなければならないのは、そのためである。もろもろの国は地上の国に

隷属するが、それはまさに支配欲そのものによって支配されている。わたしが取りかかった仕事は、どの一つをも省くことが許されない。十分な理由があり、能力

の許すかぎりは、すべてを言わなければならないのである。(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968