日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

礼拝説教の予告

2016-05-03 00:51:50 | 大分中央ウィークリー

2016年5月8日(日) 朝礼拝10:20.

説教「初めからわたしと一緒にいたのだから 証しをする」.聖書:申命記31章22~29節、ヨハネによる福音書15章18~27.交読文18. 讃美歌8,459, 531,29.

夕礼拝18:30.

説教「聖霊の約束」.聖書:エゼキエル書37章1~10節,ヨハネによる福音書14章12~17節,夕讃美歌214,276,475,29.

 

 

5月15日(日) 聖霊降臨日朝礼拝10:20.

説教「一同は聖霊に満たされた」聖書:詩編51編1~14節、使徒言行録2章1~6節.交読文19. .讃美歌342,343, 411,24.

夕礼拝18:30.

説教「聖霊の約束」.聖書:創世紀1章1~5節,使徒言行録2章7~13節.夕讃美歌342,531,511,24.


プロテスタントとカトリック

2016-05-03 00:44:05 | 大分中央ウィークリー

 

五、「教会とわたしたち」(360)  5.近代から現代へ(宗教改革とその後)

その「神の国」の書き出しは次のとおりである。「わたしの愛する子、マルセリヌスよ、この書においてわたしは神の国の輝かしい想念を陳述しようと企てた。そ

もそもこの国は二つの領域に属する。一つはこの世における人生の行路であって、そこではこの国は信仰によって生かされつつ、不信者の間で異国人としてそ

の行程を歩むのである。もう一つは永遠的な彼岸の故郷であり、それを神の国は正義が審判を来たらす時まで、いまは忍耐をもって待ち望んでいるのである。

そのとき最後の勝利が得られ、平和が回復され、そして神の国はかち取った大いなる報酬を受けるであろう。約束に従って、約束に従って、わたしはこの書をあ

なたに献呈しよう。わたしの意図は、この国の建設者である神の代わりに彼ら自身の神々を選び取る者たちに対し、この国を弁護することである。この仕事は長

い時を要し、労苦の多いものとなるであろう。しかしわたしは神の助けを信じている。傲慢な者に(ここまで前回)

謙虚の徳がいかに大きいかを納得させるには、大変な努力の要ることをわたしは知っている。それにもかかわらず、謙虚からは一種の高挙が、人間の倨傲(きょ

ごう)の結果としてではなく、神の恵みの賜物として湧き出るのである。このような高挙は、あらゆる地上的倨傲の尖塔よりも高く、わたしたちを引き上げるであろ

う。しかしてそのような土台の上に揺れ動くものは、何と安定を欠くことであろうか。

わたしたちの現下の主題であるこの国の王(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-05-03 00:42:00 | 大分中央ウィークリー

創世記23章2節である。「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは(来て)、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」という。「キルヤト・アルバ」は、ヘブロンの元の地名である。もう一箇所聖書に出てくる。それはヨシュア記14・15、「ヘブロンはかつてキルヤト・アルバと呼ばれていたが、それはアナク人の中で最も偉大な人物アルバの名によるものであった。」と。この地名は人名から転化したもののようである。さらに民数記13・22、町の始りは「ヘブロン」という。 

このとき、アブラハムが「胸を打ち嘆き悲しんだ」という。痛く悲しんだのであるが、原文では、「そして彼が行って(「ヤバー」)~」となっている。前章19節で、アブラハムが約40キロ南西の「ベエル・シェバに住んだ」というから、生活圏は広く、たぶん、出先から訃報を聞いて、ヘブロンまで戻ったようで、悲しみが大きい。 

3節である。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。」という。「遺体の傍らから立ち上がり」という。先にアブラハムはサラの遺体のそばに来て、「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」といわれている。その悲しみは、深いが、悲しみに浸って折れないのは今日も同じである。次は遺体の葬りであった。 

しかし、アブラハムは半遊牧民族で、先住民族の中に割り込んで入った部族であった。従って、その先住民族の「ヘトの人々に頼んだ」という。「ヘト」とは「ヒッタイト人」(前1600~1200)のことで、今のトルコ東部に起源を持つ民族である。その民族は全体としてパレスチナまで南下した形跡がない。何らかの事情で部分的に定着したらしい。従って彼らは実に謙遜であった。アブラハムは気安く「頼んだ」と。


牧 会 通 信

2016-05-03 00:25:14 | 大分中央ウィークリー

 

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その9)(原 光訳 2000年、沖積舎)

     

◯ほとんどあらゆるものをその秘密から遠ざけ、この名誉ある職務に忠誠を尽して、そのために眠りも活力も失はれるほどだつた。

皇帝の住居(すまい)からその淫らな眼をかつてそむけたことがないあの娼婦、ペスト、宮廷の悪癖、嫉妬は、

 わたしに対してすべての心を燃え立たせた、燃え立たされたものどもは皇帝を燃え立たせ、喜ばしい名誉は悲しい喪に変つてしまつた。

 わたしの霊は、尊大な気性から、死ねば悔蔑の苦痛を免れられると思ひこみ、正しいわが身に対して不正な仕打をしたのだ。(ここまで前回)

◯この木の新しい根にかけてわたしは誓言する、自分は名誉にふさはしかつたわが主君に対する忠誠を決して破つたことがないと。

 そなたたちの内の誰かがあの世界へ戻つていくなら、嫉妬が与へた打撃のためにまだ横はつてゐる、わたしの追憶を力づけてやつてほしい。」

(つづく)

◯2016年5月1日は第十八主日、イースター後第五主日という。日聖協「聖書愛読こよみ」は「復活のキリストに出会う」という主題。聖書はマタイ28章16~17節。「さて11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」といいます。この後に及んで、なお「疑う者も」とは、人間の知力の限界を現わす。

 ◯写真は、4月29日、島原教会牧師富樫史朗先生(最前列左から5人目)記念写真。礼拝堂で.