創世記24章42節である。「こういうわけで、わたしは、今日、泉の傍らにやって来て、祈っておりました。『主人アブラハムの神、主よ。わたしがたどってきたこの旅の目的を、もしあなたが本当にかなえてくださるおつもりなら~、』」という。リベカを嫁にくれるかどうかの訴えであるのに、これに至る出来事をとくとくと語り続けている。らくだ10頭を引き連れ多くの贈り物を持ってはるばるやって来たのであったから、この語り方は聞く側が承知の上であったと思われる。多分、中近東の習慣であったのかもしれない。
それにしてもこの事情は、嫁取りの極めて上品な訴えになったに違いない。聞いている側は話の順序に従って、徐々にその気持ちにさせられるのである。これは初代教会の説教もそうであった。たとえば、五旬祭の日のペトロの説教が、「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」と、すでに知らされていた話をしている。
43節である。「わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。」という。「御覧のように」と神ご自身に呼びかけているのは非常に謙遜である。口語訳聖書にはその謙遜なニーュアンスが表現されていない。原文ヘブライ語では「ヒーネー アノキー ニツァブ ~」である。英語の改定標準訳では、「behold ,Iam standing ~」ときちんと翻訳している。
われわれも日常生活で気をつけなければならない。いわゆる、やたらと自己主張を繰り返しながら日常生活を続けるのが普通である。確かに自己主張が悪いのではない。神が力を貸すから、つたない自己主張も実現に至るという認識があるかないかが大事。
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