ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 第18歌(その5) (原 光訳 2000年、沖積舎、)
◯最初の鞭打ちで罪人たちの踵がなんと高く上がつたことだろう!第二、第三の鞭打ちを待つものは一人もゐなかつた。
進むうちにわたしの眼は一つの霊に出会つたが、わたしはすぐにかう
言つた。「たしかにこのものは見たことがあります。」
それでわたしが熟視するために立止まると、優しい先達もわたしとともに立止まり、いくらか後戻りするのを許してくれた。(前回ここまで)
◯鞭打たれるそのものは顔を伏せれば隠れられると思ひこんでゐたが、それもむだだった。わたしは言つた、「おお、眼を地に伏せてゐるものよ、
そなたの顔形が贋(にせ)でなければ、そなたはヴェネディコ・カチャネミコだ、だがなぜこのヅキヅキする責苦を受けてゐるのだ?」
すると言つた、「これは言ひたくないのだが、もとゐた世界を思ひ出させる、そなたの明確な言葉のために言はずにはゐられぬ。 (つづく)
◯本日、10月8日(日)の日本聖書協会の聖書本文はマタイ4・17~22で、その主題は「招きのことば」と。18~19節、イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」と。よく知られているペトロとアンデレの二人の若い漁師の召命、主の招きの場面。「人間をとる漁師」との「ことば」がすばらしい招きとなった。
写真は、上野が丘教会墓地にある一本の大木(左、高さ約20m)を伐採してほしいとの要望が住民(右)から出ていると土地共同管理の聖公会大分教会から報告を受けた。