創世記22章6節である。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった。」という。「薪を取って、息子イサクに」とある。このときのイサクは乳離れしてからおおよそ10年ぐらい経ったころと思われる。
自分に背負わされる薪をかついで父アブラハムと一緒に歩くのであるが、その薪が何の目的を持つものであるのか判断できない年頃ではなかった。また、父親のアブラハムは、危ない「刃物」と厳しい役割を果たす「火」を持つということはどういうことかよく知っていた。この二人が並んで歩くところに、読者に心の痛み。
7節である。「イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』」と、聖書がいう。ここに始めてイサクとの対話が出てくる。しかもイサクの方からであった。ということは、アブラハムはイサクとの間に、出発するとき、またはその出発の前に二人の間にはイサクについての、アブラハムに語られたところの神からの神の言葉については一切説明していなかったことになる。
いや、ここ、人間としての彼、アブラハムの苦しい、心のうちが明らかになっており、実のところ、アブラハムは彼の心の中に秘めておくのが精一杯の神の言葉への応答ではなかったかと思う。信仰の忠実を貫くアブラハムの信仰のあり方を教えられる。人間的には、今、何とか答えねばならない。それが8節へと続く。(つづく)
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