創世記23章10節である。「エフロンはそのとき、ヘトの人々の間に座っていた。ヘトの人エフロンは、町の門のそばに集まって来たすべてのヘトの人々が聞
いているところで、アブラハムに答えた。」という。こういう取引の成立の要は、売買を希望する側の心の問題である。何よりも誠心誠意という心が大事であ
る。
「町の門のそばに集まって来た」とは、この近東地域の慣習として町の門のそばは、町の共通の事柄についての協議と集会の場所であった。また「人々が聞
いているところで」というのは、既に全員で話し合った後であることを伝へようとしているところである。従って、「アブラハムに答えた。」とは、話し合った結果
を、多くの証人の前で、公的なものとして伝えようとしている。まさに厳かな雰囲気であった。
11節である。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに
差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください(口語訳「あなたの死人を葬りなさい。」)という。8節でも書きましたが、日本語翻訳として「亡くなられ
た」は不適切である。
「差し上げます」は無償でではない。「売却します」の婉曲的用語であって、アブラハムが「譲っていただきたいのです」といったのと同じ意味で、ここでは快く売
りたいという意味の売買の常等語である。「売る」という代わりに、「与える」というのと同じで、買う人の心を傷つけないで済むことになる(フォン・ラート)。日本
語でも、売買が成立する状況では「差し上げます」というときがしばしばある。