五、「教会とわたしたち」(351)
4.近代の教会の夜明け ―宗教改革とその後―ツヴィングリ
10月4日、ついに森林諸邦が軍事的には十分準備して総動員令を発し、約8000もの兵力を差し向けた。前回の1529年6月、森林諸邦(ルツェルン他5邦)は劣勢を背景に「カトリック・キリスト教連合」を結成して軍事行動に及びカッペルの野に兵力を集結したのを第一カッペル戦役というが、既述のように、仲裁和議が成立した。それから二年後のこのとき、チュウリヒ側の迎撃体制はまったく不備であった。緊急招集をかけられた市民軍はそれでもその数、数千にも及んだが、戦いにならない。10月11日朝から始まったカッペルの戦場に残された約500の戦死者のうちに、カトリックの宿敵ツヴィングリの遺体が発見された。(ここまで前回)
チュウリヒ側は10月13日には1万3千の兵を集め、さらにベルン軍7000の兵力と合して体勢を立て直すのであるが、その一部6000の兵がツーク市の山ろくのグーベル修道院で無防備の夜営中、10月23日のこと、月明りを背にした、カトリック五州軍の一部636人の若者たちの夜襲を受け、チュウリヒ側800以上の死者を出して、この戦いは終結した。11月から様々な仲介活動が入り、翌年1月31日に第二和議(9か条)が成立し、その内容は第一カッペル戦役の第一和議を踏襲するものとされ、カトリックと改革教会を互いに町ごとに選んで尊重し合うというものであった(信徒の多い改革派優位の部分属地主義)。
この後は、ツヴィングリの後継者を(つづく)