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日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2018-06-12 22:37:22 | 大分中央ウィークリー

(原光訳、2000年、沖積舎)

ダンテ著〈1265~1321〉の「神曲 地獄」編 二十歌(その7)

◯あれの腹に背を向けてゐるのは腸(はら)卜者アロンタで、下に住むカㇽラーラ人が薪作りに登るルニの山中の

 白大理石の間の洞窟を住居としてゐた、そこからはなにものにも遮られずに、星と海が観察できたのだ。

 そなたには見えぬ乳房を解いた編毛で蔽ひ隠して、毛深い皮膚をすつかり向う側にしてゐる、あの女はマントだつたのだ、前回はここ

 まで)

◯あれは多くの国国をへめぐってから、わたしの生まれた所に落着いた、だからわたしの話に少し耳を傾けうるがよい。

 父親が他界し、酒神(「バツコ」)の都市が奴隷になつてからあの女は長い間諸国をさまよつた。

 美しい上(かみ)イタリアの、ティロルの上でドイツに嶮しく立ちはだかるアルプスの麓に、ベナコと呼ばれる湖がある。(つづく)

◯本日6月10日、日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「主の証人たち」である。聖書本文は、使徒3章1~10節。「神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていた」という、年のころは40歳を過ぎた「生れながら足の不自由な男」がいました。ペトロが彼に、「~ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」と。この男は素晴らしい主の証人となりました。

写真は、6月6日、八女伝道所の九州中会伝道委員会の問安使として訪問しました。秦博記兄(写真前列の右)運転で行き、電車とバスなら3時間半かかるところ二時間と10分で到着しました。写真撮影は、写真前列中央の、筆者、南茂。


プロテスタントとカトリック

2018-05-29 01:05:20 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(461)   5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その101)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

29.来るべき世において聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 そのときに、わたしたちが新しい天と地の物質的からだを、あらゆるところに存し・すべての身体的事物を統治さ

れる神を透き通るばかりの明確さで見奉るのと同じように、そのときに与えられるであろうからだによって見ることは

ありうるし、恐らく確かである。わたしたちはどちらへ目を向けても、これを目のあたりにするであろう。「神の見えな

い性質」(ローマ一・二〇)を、鏡にうつしておぼろげに、また一部分だけ見るように造られたものにおいて知られ・見

られている今と違って、そのときにはわたしたちが信ずる信仰は、前回はここまで)肉眼によってわたしたちが見る

身体的事物の外観よりもはるかに力強い現実となることであろう。

 例を挙げればこうなる。今日わたしたちは生き・かつ動いている人々の間で生活している。わたしたちが彼らを見

るとき、わたしたちは彼らが生きていることを信じはしない。わたしたちは彼らが生きているのを見るだけである。し

かし、もしも彼らがからだを持たないならば、わたしたちには彼らが生きていることを知り得ないであろう。わたした

ちが何の疑問の余地もなく彼らが生きていることを知るのは、彼らのからだを通してである。そのように、わたしたち

が将来持つであろうからだの霊の目(つづく)(「神の国」出村彰訳)

 

 


聖書研究

2018-05-29 00:55:51 | 大分中央ウィークリー

創世記25章20節である。「イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。」という。結婚したときに親戚になるところのそれぞれの紹介であるが、しかし全くの他人の家族が一つの家庭の中に入ってくることになるのが結婚である。そこに新しい争いが発生する。 

今日といえども同じである。他人が入ってくるという複雑な関係が発生することになる。肉親は肉親同士かばい合い、かばい合うがゆえに他人である関係の溝が深くなるという悲惨な関係である。ここでは、「アラム人ラバンの妹であった。」というところに、その複雑な関係が始まったのである。結婚と共に妻となったリベカの兄、ラバンとリベカの夫のイサクとの関係が、複雑になって来るのであった。 

21節である。「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」という。「妻に子供ができなかったので、」という。今日でもよくある話である。妻をめとるということは、現代でも、先ずは子孫を残すことが第一の目的ある、といえば、必ずしもそうでないというしっかりとした反論が返ってきそうである。

 しかしこのアブラハムの古代もとより現代もまた後継者を残すのが大事な目的の一つであることは同じである。子を産めないと分るときは、夫婦はもとより一族全体の深刻な悩みになる。今日はいろいろ医学的に原因が突き止められ、子が生まれるように可能な限り原因を突き止めるが、しかし現代をも含めて、このイサクの時代にも、祈るという方策を欠かすことができない。神が可能な限りの改善をもたらすからである。


牧 会 通 信

2018-05-29 00:46:55 | 大分中央ウィークリー

ダンテ著〈1265~1321〉の「神曲 地獄」編 20歌(その5) (原光訳、2000年、沖積舎)

◯ここで憐憫は死んでこそ生きるのだ、神の裁きを見て苦痛にめそめそする奴ほど卑劣なものがゐるだらうか?

 頭をまつすぐにしろ、まつすぐに、あいつを見ろ、テーベの眼の前であいつのために大地が裂け開いたのだ、それ

でみな絶叫した、

 どこへ堕ちる、アンフィアラオ? なぜ戦ひやめるのだ? と。だがあいつはあらゆるものを捕へて放さぬ、奈落の

ミノス(既出、第5歌・4「地獄の裁判官」)まで堕ちに堕ちたのだ。前回はここまで)

◯背を胸としてゐるあいつを見ろ、あまりにも前を見ようとしたので、後を見て逆行してゐるのだ。

 ティレシアを見ろ、交(つる)む蛇を打ち離して五体がすつかり変わり、男から女になつて見分けがつかなくなつた

のだが、

それから男の剛髭(こはひげ)を取戻す前に、絡み交(つる)む二匹の蛇をふたたび杖で打たねばならなかつたの

だ。(つづく)

◯本日、5月27日ペンテコステ後の「三位一体祝日」といいます。日本聖書協会の「聖書愛読暦」の主題は「祈り

の準備」である。聖書本文は、使徒言行録1章12~14節。その14節、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア

、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」という。集まっていた人たちの中には、イエスの弟子の

十一人の名を数えることができる。欠けがえのない十二弟子の一人がいないという厳しさが伴っている。イスカリオ

テのユダがいないからである。従って14節の「心を合わせ熱心に祈っていた」とは、祈らざるを得ないからであっ

た。われわれの祈祷会の準備もしかり。祈るためではない。祈らざるを得ない。

写真は、5月母の日、舟橋市の娘から送られてきた、傘ブランカ21日撮。


プロテスタントとカトリック

2018-05-17 21:42:31 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(459)     5.近代から現代へ(宗教改革とその後」

初めに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その99)

  最終篇に入ります。

 第二十二編 神の国永遠の浄福

29.来るべきにおいて聖徒たちが神を仰ぎ見るとき、彼らが目の辺りにするのはどのようなものであろうか。

 わたしらちが神のもとへ行くのは信仰によってであり、またそれは肉体の働きではなく、こころの働きであることにはすべての人の考えに一致している。しかし、霊のからだがどのような能力を持つのか、わたしたちは知らない。わたしが語っていることを、だれも体験したことがないからである。わたしたちの理解力が及ばず、聖書の権威も助けにならないような場合には、「人の考えは乱れがちで、その見るところも不確かである」という知恵(ソロモンの知恵 九・一四)あてはまる。

哲学者たちの前回はここまで) 論議によれば、叡智的な事物は精神によって、物質的な事物は感覚によって知覚される。肉体は叡智的な事物を知覚し得ないし、精神は物質的な事物を知覚することができない。そして、もしこの論議が正しければ、たとえ霊のからだといっても、肉眼をもって神を見ることは全く不可能だということになるであろう。しかし、この帰結は理性そのものと預言者たちの権威とによってしりぞけられる。神が身体的事柄を知っておられることを否定するような真理の敵は、いったいだれであろうか。神はこれらを認知するための眼を備えたからだを持っておられるとでも言うのだろうか。・・・・・・

そのときに、わたしたちが新しい天と地の物質的からだを、(つづく)(「神の国」出村彰訳)