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汪中『述學』から 

2010-03-20 04:01:30 | 学問

 三と九についてー汪中『述學』から  
 1999 11.20記 ーーコラムより移動

 中國では、漢代から三皇五帝というように、ある決まった數を特に用いる傾向があります。三と五だけでなく九もよく用いられます。これについて汪中が『述學』で考證したの部分が「釋三九」です。
 その汪中(1744~1794)ですが、淸朝中期の學者です。古典讀解の上で古典文字に關して貴重な業績をのこした王念孫と交流があった人物で汪中は古典讀解の上で古典文字のみならず思想に關しても貴重な業績をのこしました。
 さて、汪中の研究の一端を以下で見てみましょう。

【原文】

一奇二偶、一二不可爲數。二乘一則爲三。故三者數之成也。積而至十、則復歸於一。十不可以爲數。故九者數之終也。於是先王之制禮、凡一二之所不能盡者、則以三爲之節。三加・三推之屬、是也。三之所不能盡者、則以九爲之節。九章・九命之屬、是也。此制度之實數也。因而生人之措辭、凡一二之所不能盡者、則約之三、以見其多。三之所不能盡者、則約之九、以見其極多。此言語之虚數也。實數可稽也。虚數、不可執也。
 何以知其然。『易』「利近市三倍。」、『詩』「如賈三倍。」、『論語』「焉往而不三黜。」、『春秋傳』「三折肱爲良醫。」。(『楚辭』作九折肱。)此不必限以三。『論語』「季文子三思而後行。」、「雌雉三嗅而作。」、『孟子』書「陳仲子食李三咽。」此不可知其爲三也。『論語』「子文三仕三已。」、『史記』「管仲三仕三見逐於君。」、「三戰三走。」、「田忌三戰三勝。」、「范蠡三致千金。」此不必其果爲三。故知三者、虚數也。
 『楚辭』「雖九死其猶未悔。」此不能有九。『詩』「九十其儀。」『史記』「若九牛之亡一毛。」又、「膓一日而九迴。」此不必限以九。『孫子』「善守者、藏於九地下、善攻者、動於九天之上。」此不可以言九。故知九者、虚數也。推之十百千萬、固亦如此。故學者、通其語言、則不膠其文字矣。

【訓讀】

一奇二偶、一二は以て數と爲すべからず。二一を乘すれば、則ち三と爲る。故に三なる者は、數の成なり。積みて十に至れば、則ち復た一に歸す。十は、以て數と爲すべからず。故に九なる者は、數の終なり。是に於て、先王禮を制して、凡そ一二の盡くす能はざる所の者は、則ち三を以て之が節と爲す。三加・三推の屬、是なり。三の盡くす能はざる所の者は、則ち九を以て之が節と爲す。九章・九命の屬、是なり。此れ、制度の實數なり。因りて生人の辭を措きて、凡そ一二の盡くす能はざる所の者は、則ち之を三に約し、以て其の多きを見し、三の盡くす能はざる所の者は、則ち之を九に約し、以て其の極めて多きを見す。此れ、言語の虚數なり。實數は稽ふべし。虚數は、執るべからず。
 何を以て其の然るを知らん。『易』「利に近づきて市り三倍す。」、『詩』「賈の三倍するが如き。」、『論語』「焉くに往くとして三たび黜けられざらん。」、『春秋傳』「三たび肱を折りて良醫と爲る。」。(『楚辭』九たび肱を折ると作る。)此れ必ずしも限るに三を以てせず。『論語』「季文子三たび思ひて後に行ふ。」、「雌雉三たび嗅ぎて作つ。」、『孟子』の書「陳仲子李を食ひて三咽す。」此れ其の三と爲すを知るべからず。『論語』「子文三たび仕え三たび已む。」、『史記』「管仲三たび仕へて三たび君に逐はる。」、「三たび戰ひ三たび走ぐ。」、「田忌三たび戰ひて三たび勝つ。」、「范蠡三たび千金を致す。」此れ必ずしも其れ果たして三と爲さず。故に知る、三なる者は、虚數なりと。
 『楚辭』「九死すと雖も、其れ猶ほ未だ悔いず。」此れ、九たび有る能はず。『詩』「其の儀を九にし十にす。」『史記』「九牛の一毛を亡へるが若し。」又、「膓一日にして九迴す。」此れ必ずしも限るに九を以てせず。『孫子』「善く守る者は、九地の下に藏れ、善く攻むる者は、九天の上に動く。」此れ、以て九と言ふべからず。故に知る。九なる者は、虚數なり、と。之を十百千萬に推すに、固より亦此くの如し。故に古を學ぶ者、其の語言に通ずれば、則ち其の文字を膠らず。

【解釋】

 一は奇、二は偶であり、一二は數とすべきものではない。二は一を加えれば、三となる。三とは、數の成數である。それらが、積み重なり十になれば、ふたたび一に戻る。十は、數とすべきものではない。だから、九とは、數の終わりである。こういうわけで、先王が禮を制定する際、皆、一二で覆いきれないものは、三で節目とする。三加・三推の類が、そうである。三で覆いきれないものは、九で節目とする。九章・九命の類が、そうである。これらは、制度の實數である。そういうわけで人が言葉を發して、すべて一二で覆いきれないものは、それを三でまとめて、その多さを示し、三で覆いきれないものは、それを九でまとめ、その極めて多いことを示すのである。これは、言語の虚數である。實數は考えることができるが、虚數は、それに拘泥してはならないものである。
 どうしてそのようであるのが分かるというと、『易經』に「利益を求めものを賣り三倍の利益を得る。」、『論語』に「どこに行ったとしても、三度ぐらいは免職になる。」、『左傳』に「三度肘を折って良醫となる。」(『楚辭』には、九回肘を折ると書いている。)とあるが、これらは、必ずしも三によって制約されない。『論語』に「季文子は三度考えて行動に移した。」、「めす雉は三度かいで飛び立った。」、『孟子』の書に「陳仲子はすももを食べ三度呑み込んだ。」とあるが、これらは、三度であったのか分からない。『論語』に「子文は三度仕え令尹になったが、三度免職された」、『史記』に「管仲は、三度仕えて、三度主君に追われた。」、「三度戰って三度とも逃げた。」、「田忌は、三度戰って三度勝った。」、「范蠡は、三度千金を稼いだ。」とあるが、これらは、必ずしも實際に三度したとは限らないのである。だから、三は虚數であることが分かる。
 『楚辭』に「幾度死ぬとしても、悔いることはない。」とあるが、これは九度することなどありえない。『詩經』に「その儀を九十にする。」、『史記』に「九頭の牛が一本の毛を失ったようなものである。」また、「膓は、一日に九回も回轉するほどであった。」とあるが、これは必ずしも九によって制約されない。『孫子』に「守備にたけている者は、極めて深い地の底に隱れ、攻撃にたけている者は、極めて高い天上で行動する。」とあるが、これは、九などと言うことができない。だから、九というのは、虚數であることが分かる。このことを十百千萬に推し考えると、やはりそのようである。だから、古を學ぶ者は、古の語言に精通すれば、その文字を誤って解釋することはない。

【語釋】

○成數 ①完全な數②多くの數③まとまった數等の意がある。ここでは、③の意か。『黄帝内經』素問三部九侯論に「天地之至數、始於一、終於九焉。」、『史記』律書「數始於一、終於十、成於三。」、『後漢書』袁紹傳・李賢注「三者、數之小終。」(中華書局P.2389)、『説文』に「三數名、天地人之道也。於文一耦二爲三、成數也。」(一篇上・十七葉)陳煥「數者、易數也。三兼陰陽之數言。」(同上)

○三加 古代の冠禮として、初めに緇布の冠、次に皮辨、次に爵辨を加える。『禮記』冠義に「冠於阼、以著代也。醮於客位、三加彌尊。」(主人の登るべき東側の階段・阼階で冠を付けるのは、父に代るのを示すためである。賓客に爵杯を注ぎ、三種類の冠を付けられ、地位はますます尊くなるのである。)とあることによる。

○三推 『禮記』月令に「是月也、……天子親載耒耜……帥二三公九卿、躬耕帝籍、天子三推、三公五推、卿諸侯九推。」(正月には、……天子はみずからすきを馬車に乘せ、……三公九卿を引き連れて神を祭る爲の田である籍田をみずから耕す。天子は、三度すきを動かし、三公は五度、九卿は九度押し動かす。)による。

○九章 天子の服の九つの模樣。龍・山・華蟲・火・宗彝・藻・粉米・黼・黻。

○九命 九つの任官の儀式である「九儀」の辭令のこと。九つの規定によって、官爵の貴賤を定めた。『周禮』春官・太宗伯。

○措辭 詩文などの文句の配置。

○虚數 實際の數量を示していない數詞。

○『易』近利市三倍 説卦傳「巽爲木、爲風、……爲近利市三倍、其究爲躁卦。」(巽の卦は、木であり、風であり、……利益を求めものを賣り三倍の利益を得るものであり、究極的には、騷がしくあわただしい躁の卦である。)による。

○『詩』如賈三倍 大雅・蕩之什・瞻「鞠人忮忒、…… 如賈三倍、君子是識。婦無公事、休其蠶織。」(婦人の巧舌は、人を困らせ害し、言う言葉はその都度變わる。……價格を三倍にして利益をむさぼるのは、君子があずかり知ることではない。婦人は公の外事がないのに、蠶づくりと機織りを休んでいる。)による。

○『論語』焉往而不三黜 微子篇「柳下惠爲士師、三黜。人曰子未可以去乎。曰、直道事人、焉往而不三黜。」(柳下惠が、魯の獄官の職に就いて三たび免職された。或るひとが言った。「あなたは、まだ魯を去ることができないのですか。」と。柳下惠は言った。「正しい道を歩み人に仕えれば、どこに行ったとしても、三度ぐらいは免職になる。)による。

○『春秋傳』三折肱爲良醫 定公十三年に「三折肱、知爲良醫。」(三度肘を折って名醫であることが分かる。)。なお、「三折肱」は成語として、「經驗を積んで老練になること」のたとえとして用いられ、「九折臂」とも言う。

○『楚辭』作九折肱 九章・惜誦に「吾聞作忠以造怨兮。忽謂之過言。九折臂而成醫兮。吾至今乃知其信然。」(私は「忠を盡くして怨みを招く」というのを、うかつにも言過ぎであると思っていた。しかし、「九たび肘を折って醫者となる」というように、私は今になってその言葉が本當であることが分かったのである。)。

○『論語』季文子三思而後行 公冶長に「季文子思而後行。子聞之曰、再斯可矣。」(季文子は、三度考えて後行動に移した。先生は、このことを聞いて二度考えて行動に移せば、よいであろう、と言った。)。

○雌雉三嗅而作 『論語』鄕黨篇に「色斯擧矣、翔而後集。曰、山梁雌雉、時哉、時哉。子路共之。三嗅而作。」(詩經に「鳥は、人の樣子を見て飛び上がり、飛び回って止まる。」とある。先生は、言った。谷川の橋にいる雌きじは、時を得たものだなあ。時を得たものだなあ。」と。子路が、これに餌を與えたところ、雉は三たび臭いをかいで飛び立った。)。

○『孟子』書陳仲子食李三咽。 滕文公に「匡章曰、『陳仲子豈不誠廉士哉。居於陵、三日不食、耳無聞、目無見也。井上有李、螬食實者過半矣。匍匐往將食之。三咽、然後耳有聞、目有見也。』」(匡章が言った。「陳仲子は、誠に淸廉な士ではないでしょうか。於陵に居り、三日食べるものもなく、耳は聞こえず、目は見えぬ状態であった。井戸の側に、すくもむしが半分ほど食べたすももがあり、腹ばいになって行きそれを取って食べ、三口ほど呑み込んでやっと耳は聞こえ、目は見えるようになった。」と。)。

○『論語』子文三仕三已 公冶長に「子張問曰『令尹子文、三仕爲令尹、無喜色。三已之、無慍色。舊令尹之政、必以告新令尹。何如。』子曰、『忠矣。』」(子張は質問していった。「楚の宰相であった子文は、三度仕え令尹になったが、喜んだ樣子もなく、三度免職されたが、不滿な顏つきもせず、辭める際には、自分の令尹としてした仕事を必ず新しい令尹に告げたというのは、どうでしょうか。」先生は言った。「忠實なことだ。」と。)。

○『史記』管仲三仕三見逐於君 管晏列傳に「吾嘗三仕三見逐於君、鮑叔不以我爲不肖。知我不遭時也。」(私は、嘗て三度仕えて、三度主君に追い拂われた。しかし、鮑叔は私を愚かものとはしなかった。私が時に惠まれていなかったことを知っていたからである。)。

○三戰三走 『史記』管晏列傳「吾嘗三戰三走。鮑叔不以我爲怯、知我有老母也。」(私は、嘗て三度戰って、三度とも逃げたことがあった。しかし、鮑叔は私を卑怯だとはしなかった。私に老母がいたのを知っていたからである。)による。

○三戰三勝 田敬仲完世家「吾田忌之人也。吾三戰而三勝、聲威天下。」(私は、田忌の手下のものである。私達は、三度戰い三度勝ち、名聲は天下に轟いた。)による。『戰國策』齊策にも見える。

○范蠡三致千金 『史記』貨殖列傳に「十九年之中、三致千金、再分散與貧交疏昆弟。(范蠡は、十九年の中に、三度も千金を稼ぎ、その金を二度も貧しかった時の友、疎遠になった兄弟らに分け與えた。)。

○『楚辭』雖九死其猶未悔。 『楚辭』離騷「亦吾心之所善兮、雖九死其猶未悔。」(私が心中よしとしたことだから、幾度死ぬとしても、悔いることはない。)による。

○『詩』九十其儀 風・東山に「我徂東山、不歸……之子于歸、皇駁其馬、親結其、九十其儀。」(私は、東の山に行き、久しく戻らなかった。……妻が嫁いだ時、妻は樣々な色の馬車に乘り、妻の母は妻の腰ひもを結んであげ、作法も丁寧にされた。)。

○『史記』若九牛之亡一毛 司馬遷『報任安書』「假令僕伏法受誅、若九牛之亡一毛。與螻蟻何以異。」(たとえ私が、罪に服し誅を受けたとしても、九頭の牛が一本の毛を失ったようなものである。むしけらが死んだと同樣である。)とあるのが出典で、「非常に僅かなたとえ」として使われる。該當個所は『漢書』司馬遷傳(中華書局P.2732)・『文選』卷四十一にも見える。

○膓一日而九迴 司馬遷『報任安書』による。憂悶の甚だしいことの形容。該當個所は『漢書』司P.2736)にも見える。

○『孫子』善守者、藏九地之下。善攻者、動九天之上。 『孫子』形篇。

【參考文獻】  『古代中國人の「數觀念」』酒井洋・嶽書房

●あとがきーこれは數年前の演習時に配布した私の發表ノートです。また、かつてのノートを整理していて發見したものです。淸の考證學の特徴の一つは博引旁證よって意義を究明するということでしょうが、汪中自身よくもこれだけ集め考察したものです。ただ、この箇所の發表當番となった不運の思いもそれに反比例して增長していたのは閒違いありません。ただこの論によって古典を讀解するうえで三と九について実數か否かを見極めねばならないことについて改めて注意を促されました。
 日本で最も漢文が讀める數人の一人とされる石川梅次郞先生から講義中に承ったことですが、先生いわく「二時閒の講義の豫習には六時閒相當かかるのに、給料は……」と。まさかと當時聞き流していましたが、不肖な私の場合は石川先生の數倍もかかることがこのノートの件で實感されました。學部生でも院生でも一週閒前から發表の箇所の下調べしても誤りを指摘される状態ですので、大學の先生方はそれなりに過酷な修羅の道をかいくぐっていることを一般の人々に分かってほしい氣もします。そして何かを究明しようとしたら受驗勉強なみの勞力ではなしえないこともちょっとは理解してほしいです。改革と稱して大學の敎員の定數削減をし助手の數も減りましたが、小學・中學・高校・大學に關わらず敎員は日夜精神的な葛藤の中にあることも。