引っ越し

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滾々

2010-01-17 16:05:00 | 学問

 「滾滾・滾々」について 2003年記

 「滾滾」という語を、擬音語としたり、「わきいでる」さまとしたり、解釈が分かれていて、どう理解して、訳出したらいいのか苦労する。

 擬音語なら、日本語に置き換えると、

日本にある川のような急流の「ゴー」や「ザー」という重々しさを伴った音に近いのか、

「ぶくぶく」や「どっぷんどっぷん」

に近いのかなのか、そこが知りたいとこでもある。

 詳しくみてみよう。

【滾滾】

 ○水の盛んに流れる貌(増補『字源』簡野道明・1955・私蔵本)。

 ○水の流れ続けるさま(転じて、尽きないさま)。車輪の回転するさま(転

じて押し寄せるさま。『中日大辞典』・1973)。

 ○水など液体が盛んに流れて尽きないさま。泉が尽きることなく湧き出る

さま。(BookShelf)

 ○大水奔流貌(『辞海』1977)。

 

 ○浪のうねるさま(『岩波中国語辞典』・倉橋武四郎・1985)。

 ○水の流れるさま(『大漢和』1986)。

 ○水がぼこぼこと、ころがるように流れるさま(『漢字源』・1988)。

 ○(波などが)逆巻いている。(煙などが)もくもく立ちこめている(『中

国語辞典』白水社・2002。下敷きにした『現代漢語詞典』では、「形容急速

的翻騰」)。

 説明として、『大漢和』は群を抜いて「最悪」だが、それにしても、これでは、最大公約数的な意味が不明だ。杜甫の「登高」という詩に、

 不尽長江滾滾来

というのが見える。中国語では擬音語の類が、記録されることが少ないが、日本の急流の「ザー」というさまとは違うことが想像される。

 後に、非常に驚いたさまを、生々しく「屎滾尿流」「屁滾尿流」というが、「滾」は、「ごろごろ」「ごぼごぼ」「こぼこぼ」というイメージに近いさまで中国人に理解されているのであろう。

 今でも定番の輿水優著『中国語基本語ノート』1982に、「滾」の記載があり、

 現代語では、滾滾は雷鳴や車輪の回転音などの形容としても使われます。

……水がわきたち流れるさまと、ものがころがって移動するさまが、感覚的

につながっていることは、いうまでもありません。

とある。

 現在、『靖亂録』を訳しているが、そこに、「滾木」という語が見える。訓読を主とした『王陽明靖亂録』(6/3)明徳出版社・p117の中で中田勝氏は、「滾水」の誤かとしているが、見当はずれである。

 「滾木壘石」を、「築城して戦闘準備する」と『中日大辞典』では記しており、「滾木」を『大漢和』では、「丸い木。ころばし木。丸太棒。」と説明する。

 『靖亂録』(6/3)で、

「滾木礧石」(「峻壁四面、滾木礧石、以死拒戰。」)

 

また、

(8/5)で

「滾水【滾木の誤り】磊石」(「但多備滾水磊石、爲守城之計。」)

と記されている「滾木」という語は、(ごろごろところがる)「落とし丸太」のことである。すなわち、防城の際に使用される武器の一種で、城を上ろうとするのを阻止するため上から落とされる装備としての丸太のことでなのである。

 そうである以上、「滾木壘石」については『中日大辞典』の解釈より、「守城の装備を整え交戦の準備をする」と解する方が妥当な場合が多いだろう。

 図は、『城守籌畧』卷五もの。「滾木壘石」の具体的な装備例である。『防守集成』卷十四にも同じような画像がある。ちなみに、画像の説明文に見える「滾石」は、(ごろごところがる)「落とし石」のこと。日本の「木落とし」と構造が違っているが、『防守集成』に拠ると城壁の厚い各部分に設けて、敵が半分ほど城に上ってきた時に落とすものとされる。


免許更新

2010-01-17 12:43:00 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、優良免許の更新に行った。豊田市では、狭いスペースで講習ビデオを見て、ハイおしまい、みたいな感じだった。名古屋近辺でも同様。

 今回行った竜ヶ崎では、40人が入れるところに、5人ほどが来ていた。20分ほどのビデオを見て、係の人が法令改訂の説明をした後、新しい免許を交付された。

 茨城は、飲酒運転ワースト2の県であり、老人が多く、距離感がつかめないためか、急に右折・左折をして直進車の進路をふさぐ輩が多い。事故が多いのもむべなるかな。

 さてさて、ビデオを見ていて笑ったのだが、車の運転では、「心の目」を開かなくてはならないらしい。なんとも、哲学的・宗教的である。また、「キープ・レフトを守る」なんて、ナレーションもあった。この抽象的用語・ちぐはぐなカタカナ使用は、高齢者運転封じのための対策なのかと勘ぐったのは私だけか。


二重ブログ状態

2010-01-16 08:09:00 | 日記・エッセイ・コラム

 カカクコムのキャンペーンから、OCNの光に移行したのだが、「新規」に申し込みをしたため、過去のホームページ・ブログが使えなくなりそうだった。

 仕方なく、オプションサービスを利用して、料金を払って継続している。

 同じプロバイダーなのに、この対応には納得がいかない。

 とはいえ、すべては、私が「サービス移行・変更」を申し込まなかったからだ。

 とほほ。


ユビキタス

2010-01-07 00:31:00 | 日記・エッセイ・コラム

「ユビキタス。コンピューター革命」を読んだ。

 トロン開発者のリーダーである坂村健氏の、2002年版のものを読んだ。

将来ゴミとなるべき素材すべてにチップを埋め込めば、ゴミ処理の選別が楽になるという夢のようなことを語っているのだが、実は、今はもうユビキタスなのだ。

 小さなコンピューターを持つ携帯端末には、GPS機能がつき、居所が瞬時にわかる。昔のお笑いコントのような、パチンコ屋の背景音声を流して電話しながら居場所をごまかして浮気なんかできないということだ。

 これは、逆に、個人の憂さ晴らしの機会を奪いかねないことと同義でもある。

そこで、二種類の人物が発生するだろう。時計も持たず・携帯も持たずに、のんびり暮らせる人と、常に指示され駆けずり回っている人とが。

 指示され続けている人は、自主性を保持できるのだろうか。

 また、坂村氏は、ウィンドウズの欠陥についても論じている。生活の基盤となるOSが、一社にほぼ独占されていることは、不健全であると。

 この牙城は、私も時々使うLinuxなどの無料OSの普及により、駆逐される運命であると思う。欠陥品を高値で売り、欠陥部分は、客が時間を割いてダウンロードして補綴するなんて、もう数年前から批判されている。最近は、自動UP DATE機能が付加されたが、更新を許可すると再起動をいきなり促されたり、終了時に待たされる。放っておけば電源が切れるのは分かっているが、気分的にいいものではない。昔のフリーズ現象や、「不正な処理をしたため窓を閉じます」なんていうセンスなきギャグが、さらに噴飯ものに変わっただけ。その原因が、クローズド・アーキテクチャーなのである。

 ほぼ独占状態だから、顧客のニーズに無頓着に開発を進め、VISTAなんていう嫌われソフトを作ってしまい、もうWindows7も買わない客を増やしているという末期的な状況になっている。

 パソコンは、ソフトを入れなければただの箱とばかり、高いソフトを買わされたが、Wiiのように体感的に使えるソフトの方が人気なのは、キーボードを叩いてバーチャルにのめり込む姿勢より、バーチャルを体を動かして楽しむという人間が持つ本能的な要求・欲求の方が勝るからであろう。

 インベーダーゲームが、かつてはやったが、パソコンでキーボード叩いてやっても面白みが減じる。ピンボールやパチンコもそうだ。ただ、将棋などデータベースがしっかりしているものは、研究には役立ちはする。

 ワードより一太郎が使いやすく、英文・中文キーボードがあるように、一太郎に特化したキーボードもあっていい。昔のワープロは、直感的にできていた。