融通無碍なる留学生活

~豪に入っては豪に従います~

生活スタイルの多様性~はじめに個ありき

2007年02月14日 | 気付いたこと築いたこと
我が家にメリケン娘が越してきて一週間以上が経過した。
ここ数日、けっこう大変だった。

メリケンちゃんはキホンいつも自室にはおらずリビングでテレビを見まくっている。困るのは、そのテレビ鑑賞に他のハウスメイトを誘ってみたり、用もないのに他人のドアをノックしてみたり、宿題をしている人の邪魔をしたりする。たのんでないのに、みんなの分も料理(缶詰パスタ)作ったとかいって、無理矢理リビングに引き出そうとかする。

実際「ちょっと付き合ってみるか」と一緒に座ってみても、ぼぉ~っとテレビを見るだけで、私にとって興味深いトピックを話すわけでもなんでもない。せいぜいお若い娘さんの恋愛話ってとこだ。興味深いやりとりができるなら、私はいくらでも時間を惜しまない。だが他人の恋愛なんて、そんなこたぁどーでもいい。基本的には私は私の納得する使い方でしか自分の時間を使いたくない。頼むから自己満足のために他者の時間を奪おうとしないで欲しい。。。

私以外のハウスメイト香港ガール、上海ガールも疲弊している。うちひとりが、「用がなくとも、特定の誰かでなくても、とにかく人といたいっていうのは、西洋文化なんじゃない?別のアパートで西洋人ばっかりがただただ集ってるの知ってるよ。」とか言い出した。

私は「文化の違い」という、たまに便利だけど結構胡散臭い考え方は避けるようにしている。だが一方で、そういう傾向もあるなかなぁとちょっと気になった。ちょうどシェアという暮らし方についてブログ記事を書いた「あっちゃん」に、そのところどう思う?と聞いてみた。彼女はアメリカでの生活経験もあるし。彼女のお返事は以下。

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たしかに、欧米人は日本人よりも、リビングに集ってワインを飲んだりするのが好きっていう傾向はあるかもしれない。もともと、社交っていう文化があるからさ。日本人って、飲みに行くのも食事に行くのも、もとからの仲間(職場とか学校とか)の親睦を深めるっていう感じでしょ。でも、アメリカとかだと、知らない人と出会って交流するっていうのが社交なんだよね。

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「社交」というものの捉え方に違いがある、という彼女の指摘のはとても面白い。彼女の言う「知らない人と出会って交流する社交」という言葉で、私の頭に思い浮かんだのは19世紀のパリのカフェ文化。そこでは芸術家が集い、活発な交流が行われていた。それが時代の潮流を動かすほどの活発な集いの場であったことは言うまでもない。しかしそれはやはり一人一人の芸術家の際立った個性があってこそ。芸術家は基本的に人と一緒のことができないサガの人たちですからねぇ・・・・

「最初が肝心」とばかりに、毅然とした態度をキープする私のことを、メリケンちゃんは「アノ人は社交性がないのか?」とか言っているらしい。誰でもいいから人と一緒にいることを社交性というのなら、確かに私は社交的ではない。しかし思うに、本当の意味での社交性というは、個人主義の上に初めてなりたつものだろう。個人主義者は他人に何かを強要したりはしない。いつでも一緒に~・・・とかはしない。それでも互いにタイミングや目的なんかが一致すれば、それこそ楽しく盛り上がる。お互いの話を聞いたり、お互いにいいように動く。ただただ一緒にそこにいる、寂しいからくっついている、なんていうのはハウスメイトとの関係としては私はごめんだ。いや、どんな関係でもごめんだけど。

とりわけ、今かけがえのない外国生活を送る中、そこら辺はやっぱり肝に命じておきたい。ここらへんも、はげしくアグリー。

あ、しかし。我が家のメリケンちゃんは、決して悪い子ではないのだ。ずるいこととかは絶対出来ないタイプだろうし、ただただ普通にナイーヴなのだ。憎めないところがまた、コマってしまうところではあるんだけれど・・・。