石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争10 会津藩の武器購入

2017年05月20日 | 戊辰・会津戦争

「会津藩の武器購入」

  会津古城研究会長 石田明夫  

 慶応四年(1868)の戊辰戦争が始まると、会津藩では、武器を調達するため、オランダ国籍でプロシャ(ドイツ)人のヘンリー・スネル、エドワルド・スネル兄弟から購入するようになります。『会津藩武器購入に関する一問題』に、慶応四(1868)年3月23日、会津藩では、エドワルド・スネルから、オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)を一挺洋銀九枚で、合計780挺を7020ドルで買っています。買ったのは、会津藩商人の鈴木多門が、新潟港経由で買ったのです。同じ日、若松城三ノ丸では、フランス人から銃隊歩法訓練受け、須藤時一郎、柴五六郎ら20数人は、フランス語で、小隊止まれを「小隊アルハイ」と言っていました。
 会津藩では、金を用意できず船の荷を受け取ることが出来なかったこともあります。旧幕府の「順動(じゅんどう)丸」を借上げ、3月13日に江戸を出発し、箱館経由で4月11日新潟港へ入港したものの運送代2700両の内、700両しか用意できず、結局、荷は揚げられず、船は移動し、5月24日、新潟県の寺泊港で停泊中、薩摩藩の乾行(けんこう)丸と長州藩の丁卯(ていぼう)丸から砲撃を受け艦は焼失しています。同じ日『甘粕継成日記』によると、武器商人のヘンリー・スネルは、髪を剃り、日本製の羽織に袴姿で名を平松武兵衛と称し、若松城内で松平容保公と会い、城下西(材木町の西若松駅南西隣)に屋敷が与えられました。
 西軍の長州藩と薩摩藩では、イギリスから莫大な資金援助と、スペンサー銃、アームストロング砲などの武器援助もあり、会津藩とは圧倒的な軍事力の差があったのです。そこで、会津藩では、資金援助がないことから、西出丸で埋蔵金を作ることになるのです。

写真は「会津若松市材木町、スネルの屋敷跡」

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