石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争4 将軍家茂と孝明天皇の死

2017年05月01日 | 戊辰・会津戦争


「将軍家茂と孝明天皇の死」

  会津古城研究会長 石田明夫      

 蛤御門の変後、落着きを取り戻した京都。幕府は、長州藩征討として元治元年(1864)7月、長州藩主親子がいた山口を攻めたのです。幕府軍の総督参謀は薩摩藩西郷隆盛で、長州藩の処分は「三家老の切腹と、脱藩浪士の始末、山口城破却」で決着しますが、山口城は城ではなく館であり寛大な処分でした。
 慶応2年(1866)1月21日、京都の薩摩藩小松帯刀の屋敷で、坂本龍馬の仲介により、薩長同盟が締結されます。同年6月、将軍家茂は、再び約15万人で長州藩を攻めますが、幕府軍は一枚岩でなく諸藩は形だけの参加でした。長州藩は、騎兵隊の高杉晋作らが実権を握り、約1万人で新式銃のゲベールやミニエー銃で装備し、甲冑と刀、火縄銃の幕府軍を簡単に撃破し、幕府軍は長州領内に入ることすらできませんでした。この戦以後、銃の時代となり鎧も着なくなります。
 同年7月20日、将軍家茂が病気により、21歳の若さで大坂城内において死去し、後継には、家茂が指名した田安亀之助ではなく、一橋徳川家の慶喜となったのです。さらに、同年12月25日には、『京都守護職始末』によると、容保公は、孝明天皇が天然痘で危篤と聞き、25日に御所へ参内し、夜中に帰ると三十六歳で天皇が崩御したのです。死は、岩倉具視が仕組んだ毒殺説(ヒ素)とされ昭和15年に日本医史学会で発表されていますが、今でも謎とされています。
 容保公は失意し、『京都守護職始末』によると、慶応3年2月12日、幕府に京都守護職の辞表を出しますが、英国公使が江戸で神戸開港を迫ったことから、神戸開港と長州藩からの京都防衛のため、4月23日再び、京都守護職を受けることになったのです。
  写真は京都御所

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