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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争19 越後長岡・会津藩の戦い1

2018年04月24日 | 戊辰・会津戦争

越後長岡・会津藩の戦い1
 
 会津古城研究会長 石田明夫  
 
 白河城が慶応四年(1868)5月1日、西軍に奪われた翌日2日、越後にも西軍が迫っていました。『長岡藩戦争之記』によると当時会津藩領だった小千谷(小千谷市)において、長岡藩家老河井継之助は、「武装中立」を主張し、慈眼寺において山道軍軍監土佐藩岩村精一郎と会談し、進攻停止を訴えましたが、会津藩3千人が三条まで来ているとの情報を得たと話したことから、継之助の嘆願書は聞き入れられず会談は決裂したのです。
 越後長岡藩は、7万4千石の藩です。河井継之助は、佐久間象山などに学び、諸国を視察し、長年赤字だった長岡藩の財政を回復させました。戊辰戦争になると、財政改革の余剰金と、藩の家宝等を売却し、暴落した米を買い、それを箱館へ運んで売り利益を上げ、為替差益でも資金を増やしたのです。それを元手に、イギリス商人のウォーター、ファブルブラントやプロイセン(ポーランド付近)出身のスネル兄弟から大量の武器を買いました。前込めのミニエー銃と二千挺のエンフィールド銃、スナイドル銃、アームストロング砲、そして一門3千両(現在価格で1億から1億2千万円)とされるガトリング砲二門を購入したのです。
 会津藩は、強力な軍事力を持つ長岡藩を味方に引き入れようと、越後に一之瀬要人と佐川官兵衛、伴百悦らを送り込んだのです。閏4月26日には『若松記』によると、西軍1500千人と会津藩250人とが戦い、勝敗がつきませんでした。27日には、小千谷から会津藩は撤退し、5月2日、小千谷での長岡藩と西軍の会談決裂を受け、越後五藩は、5月4日、奥羽列藩同盟に参加し、奥羽越列藩同盟が成立し、北越戦争が始まったのです。

写真は、新潟県小千谷市の慈眼寺

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