石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争20 越後長岡・会津藩の戦い2

2018年04月26日 | 会津の歴史


越後長岡・会津藩の戦い2
 
 会津古城研究会長 石田明夫  


慶応4年(1868)5月4日、奥羽列藩同盟に参加した長岡藩。それから北越戦争が開始されます。『北国戦争概略衝鋒隊之記』によると5月13日西軍は、長岡城進攻に欠かせなかった小千谷市の朝日山の確保を目指しますが、朝日山にいた会津藩の萱野権兵衛隊と桑名藩の立見鑑三郎と長岡藩兵約五千に対し、西軍は約一万で攻めますが、一週間戦闘が続いたものの落ちませんでした。麓の浦柄神社には、白虎隊士新国英之助と会津藩戦死者19人を含む墓22基があります。
 西軍の山県有朋は、南からの陸路攻めに手焼いていたことから、5月19日、西の与板から信濃川を渡河し、長岡城へ奇襲攻撃をかけたのです。長岡藩は、軍主力部隊を朝日山方面の守備へ回しており、城下には部隊がいなかったのです。そのため、城は半日で西軍の手に落ちました。長岡藩は、急遽引き返し加茂に集結、見附市の今町で対峙したのです。
 一方西軍は、制海権を目指し、長州藩の第一丁卯(ていぼう)丸と薩摩藩の乾行(けんこう)丸を差向けます。24日、『順動丸による会津救援』によると弥彦の寺泊に停泊していた旧幕府順動(じゅんどう)丸がいて、艦砲射撃による戦いがあり、翌25日、順動丸は沈没しました。順動丸には、会津藩兵が乗船し藩が調達した武器が大量に積載されていましたが、船賃の2700両の内、700両しか払えず、陸揚げできなかったのです。会津藩では、武器を西軍に渡さないため船を自爆させたのです。そのため会津藩へ武器が届かず大きな損失となり、武器、弾薬不足を招くこととなります。また、この戦いで佐渡に停泊していた桑名藩の和船も抑えられ、大砲やミニエー銃も西軍に接収されました。

写真は、新潟県小千谷市朝日山ふもとにある会津藩墓

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