石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の歴史38  角館は会津葦名氏の城下町

2007年11月17日 | 会津の歴史

角館は会津葦名氏の城下町、河原田家は南会津久川城主の河原田氏

会津古城研究会長 石田 明夫

071110_057 071110_024会津を1289年から1589年まで400年間支配した葦名氏(芦名は略字で「葦名」が正しい)は、1589年に伊達政宗に磐梯山麓の摺上原で敗戦すると葦名義広は父のいる茨城県へ戻ります。1600の関ヶ原では会津の上杉景勝に味方したことから1603年に茨城県の江戸崎町から秋田の角館に移りました。葦名義広は盛重と改名し角館へ移り、さらに義勝と名乗り、今の形となる城下町を築きました。角館はの基礎  は、会津の044_2160803_001葦名氏と伊南の河原田氏、須賀川市の二階堂氏らの家臣が築いたのです。葦名氏の家臣が多く移り住み、今でも南会津町伊南の河原田家をはじめ多くの武家屋敷が残されています。また、会津若松市東山町にある天寧寺から分けられた、角館の天寧寺には、葦名氏三代の墓所があります。角館の葦名氏は伊 達政宗に、秋田の佐竹氏は関ヶ原の一件で秋田に移されたことから徳川家 に恨みがありました。角館の写真は11月10日の河原田家。南会津の写真は河原田家の居城、山城の「駒寄城」と伊達政宗の進攻で1589年に築いた「久川城」。写真は拡大します。

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