いろんな価値は、コッソリ神のような顔をします。危ない、危ない!
Young Man Luther 『青年ルター』p215の第2パラグラフから。
人によっても、こういった憂鬱な状態が、その人自身の理由から、毎日だ、という人もいますよね。拝み屋はこういう人から人を集めをすんですね。全ての人は、この憂鬱と言う発展する可能性のある状態から、「世界はこんなもの」というイメージを、何とかして作るんですね。ウィリアム・ジェームズは言っています、「ラテン人は、簡単に悪の圧迫を打ち砕いて、『いろんな病や複数形の罪業を、粉々にして取り除くことができる者にしてしまいます』。だけど、ゲルマン人は、『単数形の≪的外れ≫と大文字のS』を一つ立てて、生まれながらの主体性を根っから無視して、少しづつ手当して取り除けくことができない」と。
民族によって、憂鬱に対する態度が違ってきます。南国育ちのラテン人と、北国育ちのゲルマン人とでは、憂鬱に対する態度が正反対ですよね。
ここで、拝み屋というのは、その憂鬱に付け込む輩です。病院や福祉施設に、信者を集めに来る人が、「拝み屋」と呼ばれている、と昔、西村秀夫先生から聞いたことがあります。患者や利用者から、軽蔑的に「拝み屋」と呼ばれてたんですね。それはどんなヴィジョンを持ちたいのか? 分かち合いたいのか? で決まってきます。拝み屋は決して、信頼を強めたりはしませんよ。むしろ、弱弱しくしか信頼できないところを利用とします。
私どもは、弱弱しい信頼も、頼もしい信頼に変えていただくために、子どもと関わりたいですね。
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