本気は、実は静かに打ち込んだ手仕事のような仕事に現れます。目立たないのに、キラリッと光ってる。忌野清志郎さんの歌にもありましたっけ。
Young Man Luther 『青年ルター』p210の第4パラグラフから。
ルターが聖書の御言葉に耳を傾ける時、素直な耳で耳を傾けてたんですね。素直な耳で御言葉を聴くルターのやり方は、2つ。1つは聖書からの御言葉を聴くこと、もう1つは自分自身の心に響いてる言葉を聴くこと。「あなたがたの気持ちがどうであれ、神様の言葉はあなた方にやって来るでしょう」とルターは言いました。ここで気持ちと言うのは、あなたが「何のために生きるのか?」ということに関して、心の中で一番本気になっていることの塊です。ルターが本気になるのは、「話し言葉になった御言葉が能動的になるのは、自分が受け身になった時です」とルターが言う時だと、ルター本人も知っていました。受け身になる時、ここで、「信頼と言葉が一つになります。信頼と言葉が揺ぎ無く結びつく Der Glawb und das Worth wirth gantz ein Ding und ein unuberwintlich ding.」のです。
ルターが宗教改革をすることになったことの神髄がここにあるんだと思います。聖書の御言葉をいくらありがたがってても、本気にはなれませんよ。教養にはなっても、生きるいのち言葉、生活に、人生に活かせる言葉には決してできませんね。聖書の御言葉が真に迫ってくるのは、受け身の体験に、能動的な意味があることに気付いた時ですね。それをルターが繰り返し体験し、それを聖書報告(説教 と呼ばれることもあります)の中で話していたんだと思われます。そして、その言葉は、集会(教会と呼ばれることもあります)の枠を超えて、現実に政治にまで及んだのが宗教改革でした。
ですから、聖書は全人格、生活すべてに渡るものですから、いわゆる「福音派」は勘違いも甚だしいわけですね。でも、いわゆる「社会派」でも困ります。基本は静かな手仕事だからです。
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