ルターが、心の中に自分を確かにさせてくれる存在がおられることに気付いたのはね、信頼の、良心のルネッサンスだ、とエリクソンは言います。
Young Man Luther 『青年ルター』p213の第3パラグラフかの、9行目途中から。
キリストが生きて死んだのは、人が、将来の最後の審判を心配して、落ち込むためなんかじゃぁ、ない。今日を心豊かに生きてもらうためなんですね。nam judicia sunt ipsae passiones Christi quae in nobis abundant .「(ラテン語で)というのは、裁きとは、キリストの十字架そのものだからですし、豊かさそのものだからです」。ご覧ください、ルターは、これらの講義の中で言っていますよ(Ⅳ,87)、「画家がキリストの十字架の苦しみを描く時にはいつだって、聖パウロが、『私どもは、十字架についたキリスト以外を知りません』と言ったことに賛成しているかのようですよ」と。キリトスの十字架を描いた画家で、魂の点でルターに一番近かったデュレルは、自分の顔を、キリストの顔に向けて、エッチングの絵を描いてますもんね。
中世世界で、「最後の審判」と言ったら、日本で閻魔さまが地獄の門で待ってる感じに近いんじゃないかしらね。真っ赤な顔で怒ってる感じです。怖い怖い…。でもね、ルターがめっけた自分を確かにしてくださる方は、慈しみ深くて、寛容な方だったようですね。菩薩様のように、阿弥陀様みたいに、いつだって、私どもが心豊かに生きていくことを願っていてくださいます。
あなたの心の中はどうなってますか? そこにいらっしゃるのは、コワーイ閻魔さまですか? それとも、菩薩様か阿弥陀様みたいな優しい方ですか?
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