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#聖書の言葉 #1人豊か #大切にする インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 自由(そうしたい) と 強迫(そうせねばならない) 遊びの法則と、日本中に......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.341のⅢから。
今朝は,p.343の第3パラグラフ,5行目から。
Ⅲ 子どもの頃の初めと賢いこと
本当の自分を創造することを理解することが困難なのは,初めに行動指針を並べ立てるところから始めなくてはならない事実があるからです。本当の自分を創造することが発達して,その人ならでは,が育つ全体像の一番善い説明は,隠されている本当の自分が発達し,その人ならではが育つと,ひとりびとりが,キリストを介して聖書の神様と一心同体に成り,その結果,お互いにも一心同体に成ることです。それまで毎日礼拝が無言で「とてもいいぞ」と認めてくれていたことが,本当の自分が育つと,山のような人から,いまここで繰り返し,ハッキリと「とてもいいぞ」と認めて貰えるようになるはずです。子どもと,身体面でも,心理面でも,対人面でも関わる大人の数が増えますからね。つまり,毎日礼拝で,新しく出会った人たちと互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるんです。互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,敵が新しい友になる驚きの中にあります。それから,互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,新しい形が生まれます。
人間の毎日礼拝の第2の形は,一番相応しい言葉は,「judicial,分別の言葉」です。それは,ラテン語の「jus 立法」と「 dicere 話し言葉にする」という言葉の組み合わせだからです。とにかく,judicalという言葉は,正しいことと悪いことを「区別する」方法を含む言葉ですから,自分を創造する時には,確実になります。結局,善悪を峻別する「律法の話し言葉」は,人間の毎日礼拝の大切な見方になります。と申しますのも,毎日礼拝も,善しとされ仲間となる者と,それ以外のよそ者を区別しない毎日礼拝は,1つもないからです。選ばれる者と排除される者があるのは,最後の審判まで続きます。
この第2の形が自分を生み出す源は,第2の聖書の神様のいのちの舞台です。それは,子どもの頃の初めで,魂が生きている実感に従うのを習慣にすることが育つことと,発達が急にすすむこととが,特色です。「ある場所から別の場所に動けること」が,生きている実感を心の習慣にするのに役立つように,移動が許される限界にも出くわすことになります。「分別」が鋭くなるにつれて,「分別」は,「正しく見える」ことと「正しくは見えない」ことを他者の眼で見る忖度を受け容れることにもなります。しかも,「言葉が育つこと」(言葉は,「人間を上下2つに分けるウソ」による繋がりの一番強力な絆であることは明らかです)が,言葉になる世界の中で概念的に纏まるものを強調しますから,言葉にならないことは,名前もなく,奇妙で「悪い」ママになります。こういったこと全てに強烈な意味を与えるものは,フロイトさんが「お尻の穴」と呼んだものです。「お尻の穴」って,腑に落ちない新しい心の習慣にもなります。生きている実感を真っ直ぐに生きると,面目をなくして,恥ずかしいことになるんだと,子どもは気が付きます。真っ赤な顔をして正体がバレますし、一人ぼっちの孤独をひどく感じるのに,自分が悪いのか,自分を裁く親が悪いのか,が分かりません。大人たちは,いのちを削り合う関係の中で,子どもを出汁に使わなきゃ損だと感じますし,子どもは恥をかき,悪いのは自分なのか親なのかに迷う心の習慣をますます酷なものにします。しかし,本物の大人が,人間様を超える聖書の神様の正義を代弁するのは,善悪を分別する毎日礼拝じゃないんですからね。つまり,悪い行いは裁いても,悪いことをした当人を裁く必要などないんじゃないの?
決して忘れまいと思う経験が1つありまして,それは,全ての人類学者(プロでもアマでも)と分かり合えると確信します。つまり,それは,「現場で」「天から間違いなく善しとされる,善い生き方を直感することによって,自分の生業をとっても善いものですよ」と語った古老と初めて出会った,あの驚きです。善い実例をお示ししましょう。それは、北カリフォルニアに住むユーロック・インディアンの人たちから聞いた話です。そのユーロック・インディアンの人たちは,鮭と,増えて移動する(長い間,ハッキリとは分からなかった)鮭の謎の生き方に頼って暮らしてきました。
「昔はね,ユーロック人の食事は,自分が繰り返しユーロックの神様と一心同体に成る本物の礼拝でした。厳格な置き方があり,子どもは決まった食べ方を教えられました。たとえば,食べ物を少しスプーンに乗せること,そのスプーンをゆっくりと口に運ぶこと,食べ物を噛んでいる間はスプーンを下げておくこと,そして特に,その間,自分は豊かになっていると想像すること。食事の間は沈黙でしたが,それは,皆がお金と鮭に三昧になるためです。この食事の毎日礼拝は,おっぱいが恋しい思いを,心から優しい夢を大切にする物差しにしてくれます。このおっぱいが恋しい思いは,(アメリカ・インディアンの中では極めて例外的に)離乳がとても速く行われることから生じていました。後年(訳注:大人になる毎日礼拝を行う)「汗の家」の中で,お金のことに意識を集中させて,女性のことは一顧だにしないという,2つを1つにするキリストを学ぶことになるんです。ユーロック人は,大人になれば,シーズンオフでも、木々にはお金がなり,川には鮭が泳ぐのが見えるようになります。というのも,ユーロックの大人は,内的促しの中で「夢のような」思いは神々が実現してくれるものだ,と信頼しているからです。」
この礼拝の仕方は,幼子の心にも記しを残しましたし,日々のあたりまえの暮らしの中でモデルになる人が居ましたから,聖書の神様のいのちが一巡する道の全てで,(訳注:感動によつて生かされる人生をプレゼントしてくれる)似たような毎日礼拝を礼拝にすることになりました。というのも、子どもを心から大切にすることは,時に適った毎日礼拝の流れ全てに,「2人がピッタリと一心同体に成ること」と「切っても切れない絆」のギフトをプレゼントしようとします。
毎日礼拝の第2の元は,「その子が自由に歓んで関わる意志」を強調することが,毎日礼拝の第一の元と主に違います。赤ちゃんの時期の第1礼拝では,危機回避は,お母さんの責任でしたが,第2礼拝では,子ども自身が「自分に注意する」ように訓練されなくてはなりません。この目的のために,両親や目上の人たちは,その子(その子の顔)と,注意していないとこうなりますよと言う場合に「なるかもそれない」失敗したダメな私とを比較します。ですから,これこそが,「ダメな一心同体」の大元になりま,この「ダメな一心同体」こそが、「人間を上下2つに分けるウソ」が続く大元になります。なぜならば,「ダメな一心同体」は,自分がそうなるはずはないけれども,万が一そうなるかもそれない全てを具体的に示すからです。「ダメな一心同体」は,「人間を上下2つに分けるウソ」のよそ者のイメージに必要なものを全て整えます。「人間を上下2つに分けるウソ」は、自分の仲間を受け容れてもらうために,似てはいけないものです。空恐ろしい絵の後ろには,両親そのものがそうはならないようにしているイメージで,子どもがそうなることを疑い深く恐れているイメージがある場合がよくありますから,「歓び溢れる主キリスト」が打ち込まれる弾丸は,子どもがそういう者にならないようにイメージできるようにならなければならない人になります。自分が2つにバラバラになり,隠れた恥じが,自分の一部を「外に出す」必要と激しい怒りを押さえつける必要と結びついて,人間の中にかなり「●●ねばならないと感じる激しい怒り」を作り出したんです。この「●●ねばならないと感じる激しい怒り」がありますと,親同士が喧嘩したり,親が子どもと喧嘩したりする喧嘩の元です。それに,この「●●ねばならないと感じる激しい怒り」がありますと,バラバラに2人の自分が喧嘩します。事の次第を暗く申し上げるのは,子どもが1歳か2歳の時にこそ,「人間を上下2つに分けるウソ」の元があるからなんです。●●ねばならないことのせいで自分が2つの分裂することは、悪い他者に敵対する態度が吹き込まれることで先鋭化します。悪い他者に敵対する態度が吹き込まれることは,小さな子どもが嫌いな自分を相手のせいにして見る影になります。またこの悪い他者に敵対する態度は,後々,「正しいこと」を残酷に人に押し付ける差別になります。そして,「正しいこと」を残酷に人に押し付ける差別は,ウソを生きる、2つに自分が分裂したご当人にとって最大の危機になります。しかし,ご当人の「自分のことをダメと信じる身勝手な判断」は,強迫性障害,ねばならないと思う病、うつ病の元です。他方,他者をダメだと信じる理屈に合わない判断は,沢山の人のダメな判断と近代兵器が揃えば,1つになるはずの水辺で、大人になれないままで人類滅亡になります(エリクソン,1965)。これらのこと全てから,本物の毎日礼拝が,言葉と音色で,振舞い方のルールを伝える,個人や組織を超えた祈りとして大切なことが分かります。個人や組織を超えた祈りとなる言葉と音色をその子どもは体得底で身に着けていますし,その子が手にする様々な立ち位置の中でも,本物の毎日礼拝は,振舞い方のルールを伝える,個人や組織を超えた祈りとして大切なことが分かります。
ところが,「賢い判断をする言葉を伝える日常生活の礼拝」の中で心豊かに働く中で,賢い判断をすることが大掛かりに繰り返し肯定されますから,ひとりびとりの心の中で起きていること全てが,白日の下に晒されて,出来事になります。「ねばならない決まり」は,あらまぁ、私どもの良心同様,疑り深いんです。「ねばならない決まり」は,ピッタリなスケープゴートをでっち上げて,「見せしめ」とします。その見せしめには,みんなが心の中に持っている恥を投影します。自分を監視して繰り返し思い出し深まる恥じは,親の叱責,友達の囃し立て,周りの者たちの輪になった声と同じで,そのたびごとに食い違っていることとと,ピタリと呼応します。最後の審判が,結局,みんなの前でハッキリとさせることは,私憤や自分の恨み辛みを晴らすもんだ、ということではなくて,結界の中で自分という傑作を共に作り出すものだ、ということなんですよ。
この結界を心得たものには,毎日は,苦しみの包装紙の中にある歓びを探し出す宝探しになります。
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