神様を日々冒涜している人の、つづき。神様を日々冒涜している人は、強情ですね。
Young Man Luther 『青年ルター』p.248の、2行目途中より。
罰の時に「お尻ペンペン」となる大切さを、示してきましたよね。お尻を打っても、身体の心配はしなくてもいいけれども、情緒的には危険な部分でもあります。というのも、罰を与えることは、親の意志と赤ちゃんの意志がぶつかるお尻の意味を台無しにしてしまうからです。親たちや教員たちが、ルターを完全に従えて、子どもの意志と大人の意志がぶつかるお尻を支配するかもしれない、という心配があると、マルティンが反抗するという時限爆弾が爆発するのを遅らせるダイナマイトを仕掛けることになりますし、だからこそ、ルターは最後まで、強情な反抗心が残り、反抗しない時には、自分自身は「もうダメだぁ」と落ち込んだ気分になったことの説明にはなるかもしれませんね。
得てして、トイレット・トレーニングが行き過ぎになると、強情と怯えが同居することになります。強情に散歩に出かけても、いつ見ても、怯えた顔をしている人のなか・に、ここでエリクソンが教えてくれる通りのことが、具体的に示されているでしょ。不思議ですね。
あの人が国会に行ってくれるおかげで、このブログの読者の皆さんも、エリクソンがここで言ってることが、国会前のサンプルを参照しながら、理解が進みますでしょ。
世の中に無駄はない、という訳ですね。
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