エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#感覚過敏の人 は #瞑想が効く ?

2019-02-13 07:09:05 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#発達トラウマ障害の子ども #大人が死ぬほど働いている ことからくる #脳障害
 現世考: 大竹しのぶさんのお話: 人智を超えた不思議    恥と激しい怒り   宮崎奕保禅師  宮崎奕保禅師、と言って、知っている方はどれくらいいるのでしょう......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 
 発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典

 をご参照ください


 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.326,4行目途中から。その前もご一緒に。



トラウマはいかに脳波を変えるのか?

 

 ニューロフィードバックの実験室で,トラウマ・ストレスに長い間苦しんだ人で,既存の治療法が,歯が立たなかった人を何人も見守りました。その人たちの脳波パターンは様々でした。右側頭葉が活動しすぎな場合が多かったんです。右側頭葉は脳が恐怖を捉える中枢で,しかも,前頭葉があまりにも働かない,ということが同時に起こります。つまり,興奮しすぎた感情脳が心を支配している状態です。私どもの研究によれば,恐怖を感じる脳中枢を静めれば,トラウマが元になった様々な課題は減りますし,上等な頭の回転も進みます。これは,患者さんのPTSD得点を減らすのに役立っただけではなくて,頭がスッキリとするのにも役立ちますから,些細なことでも引き出されて動揺したその動揺を静める力を増していきます。

 トラウマを負わされた他の患者さんたちは,目をつぶると多動になるパターンがあります。自分の周りがどうなっているのかが分からないと,トラウマを負わされた患者さんたちはパニックになり,脳波も狂ってきます。私どもは,トラウマを負わされた患者さんたちの脳波がリラックスするように訓練します。しかし,別のトラウマを負わされた患者さんたちは,様々な音や光に過敏でして,(訳注:感覚刺激を受け取る脳幹である)視床が,要らない情報を取捨選択することができません。このような過敏な患者さんたちの中には,後頭部の脳のコミュニケーションパターンを変えることに集中する人もいます。

 


 感覚過敏の人は,リラックスしていない人でしょ。この後出てきますが,アルファ波を出す訓練をするみたいですよ。瞑想がいいんでしょうか?

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#毎日礼拝 #仲間づくり #自分づくり

2019-02-13 06:43:16 | エリクソンの発達臨床心理
 
#心からの優しさ #神様の声 #圧倒的な真理
 聖書の言葉 : 見るを探す=人間    光のある生活 感謝感謝の暮らし   2つにバラバラになっちゃったら、ダメよダメダメ!  縦の関係を横の関係に繋ぐもの、......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 
 発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典

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 昨日の続き。
 Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』から,Speciation and Ritualization 心から優しい育て方 と 毎日礼拝 の p.78,最後の第3パラグラフから。3訂版。

事実、精神分析は,この聖書の神様が促す内的促しの力は、やりすぎ・行き過ぎになりがちで,「子どもにピッタリ合わせる」心から優しい育て,にはならない嫌いがある,と普通,言いますね。子どもを大切にするように元気を下さる偉大なこの内的促しの力が,子どもが自分の生きている実感を伸ばす根拠になったのは,あんまり心から優しい育て方にならない場合が多い,内的促しの力を,子どもと自分のやり取りの中で,人は生まれながらに,毎日礼拝にするようになっているという事実があるからですね。すると,子どもと自分のやり取りを,毎日礼拝にすることが,長い子どの時代の間,互いに大切にし合い,子どもと自分が一心同体となり,聖書の神様とも一心同体になることを,一つにして,必ず生み出すことになりますからね。心が育つ子どもの遊びは(遊んで心を育てるためにこそ,長い子ども時代があるんですから),自由に想像力を働かせて選ぶ力を育む,温もりに満ちた心から優しい生き方を試す教育の場です。この温もりに満ちた心から優しい生き方は,温もりに満ちた命を繰り返し一巡して下さり真の平和という究極の目的をハッキリと示してくださる聖書の神様が統べ給い,導いて下さる唯一の全うな生き方になります。しかしながら,内的促しは,経済的激動や歴史的激動の中で,様々な形で世間に合わせなくてはなりませんから,人は聖書の神様と一心同体になれずに苦しむ予定です(そのために,青年期があります)。人が聖書の神様=生きている実感と一心同体になれない間は,若者たちは,出来合いの様々な「堅信礼」を喜んで受け入れたり,創造的に感動したり,様々な理想を吹き込まれたりしますね。あるいは,現実には,自分も人もぶち壊しにしたい,と思う人もいますよね。

 青年期に戻りましょう。毎日礼拝に戻りましょう。しかし,ここからお話しすることにおいては,特別な儀式や行事と,毎日「礼拝する中で皆が共に育つ人生の習慣」を区別したいと思います。共に育つ人生の習慣は,人間らしい陽気な楽しさ人生の習慣にして,その人生の習慣を本気で心から優しい子育てにすることですね。ここまで,私が心掛けてきたのは,「儀式的」だとか,「礼拝にする」だとか,という言葉は,様々な分野の様々なことを意味しますし,最高の意味にもなれば,最悪の意味にも使われます。精神医学で,「手を洗う儀式」と言えば,単独者の恵みが歪められた中で,両手をゴシゴシと洗って,皮が剥けても,まだきれいになった気がしないものですね。この精神分析で使う「儀式」という話し言葉は,この儀式という言葉の,勇気を吹き込まれている人間という意味とは矛盾しています。勇気を吹き込まれている人間という意味は,「礼拝」という話し言葉に,共に自由にされたいという最深欲求と,不動にされた顔と,就中,畏敬とスピリットに漲る心の習慣全ての参加者に打ち込まれる気高さをもたらします。

 共に暮らす動物を研究する動物行動学者たちは,ジュリアン・ハックスレーの教えに従ってきましたでしょ。つまり,「毎日礼拝する」という言葉は,たとえば,オスのペンギンが海を渡る長い航海から戻って時に,夫婦のペンギンたちがする陽気で楽しい挨拶みたいな,身体を使って仲間を確かめる礼拝的な動きを示しました。



 毎日礼拝は,このように,仲間づくり,人が人と仲良くなるためにあります。

 すると,この後に出てきますが,毎日礼拝は,自分自身になる上でも欠かせないものになります。

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#心響かせる人 = #大人 #日々新しい人

2019-02-13 05:39:55 | エリクソンの発達臨床心理

 
#アイデンティティとは #復活の心の習慣 #腑に落ちる感じが続いていること #心からの優しさを仲間と分かち合っていること
 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 老人と子ども    関係こそが全て : 心の耳を澄ませてみれば   不思議を共に感じる時  私どもは、馴れていること......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきて,かなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。


 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 

 発達トラウマ障害を英語で・英訳  英和辞典・和英辞典 Weblio辞典

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 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することが,できた』 p.91の第2パラグラフからです。その前も。

 


 

でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることが,あまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人,あるいは,2人以上の人が,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,本音で協力する時だけ,2人(以上の)の「生きている実感」が一心同体になり,「共に生きている実感」に融合します。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。
 「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」が生きる心の習慣)。
 ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ち心から平和な関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。生きている実感が,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。

    3重になった生きている実感のある現実

 エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします。
 そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。その仲間は,自分の身近にいて,1人の「他者」として,人生の大切な時期に,「あの人のことね」,と分かる人もいれば,そのほとんどが,心の繋がりをなんとなく感じる人たちです。その仲間は,壁を作って私たちに反対しようとする場合でさえ,生きている実感を分かち合うことによって,ひとりびとりの生きている実感を確かにしたいと願っている人たちです。人間関係を心理的に見る視点があるからこそ,私が他の人に同調することを話すだけでは,実に不十分なわけです。といいますのは,あらゆる人間がピッタリとくっつくことは,諍いになりますから,私がピッタリとくっつくことを教えられる前に,すでにピッタリとくっつく様々な実験に夢中になり,一心同体になる体験を強烈に心に刻み付けてきているんですから。実際,フロイトさんが「リアリティ,すなわち,生きている実感」に相当するドイツ語は,Wirklichkeit(「うまく働く」ことと関係します)には,受け身の関わりを自ら始める意味と,働き掛け合う意味がありますから,ふつうは,「アクチァリティー,自ら関わる現実」と翻訳すべきですし,「互いに,自ら関わりを始める」意味に理解すべきだと,私は考えますね。
 ですからね,生きている実感は,≪共に居る≫ということが,一杯ある,ということが,欠かせない,と言われます。≪共に居る≫ことができるのは全て,2人の心が自由にされる,2人がピッタリとくっつく場では,(訳注:目的も方法も知らない)動物の本能とは対照的に心の中で聖書の神様が促す,唯一の内的促し次第ですから,その内的促しにしたがって,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりが,発達の間,その子どもの思い通りに手に入る,という(訳注:目的も方法も自覚した)「魂を貫き通す,聖書の神様が下さる一方的な約束」のおかげですし,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりは,人が輝き共に育つ際に,大人の人たちが,謙虚に子どもの下に立ち,子どもに夢中になること(洗礼に与ること)に,とても役立ちますこのようにしてもらうと,その子どもは,「人を自分のように大切にする」ようになる,と言われます。それはちょうど,自分が,名前を呼ばれ,大事にされ,気持ちを分かってもらったのにビッタリ同じように,人も大事にするようになることですし,聖書の神様の命が一巡する時,互いに大切にし合う生き方が,心の中に育まれるんですね。
 生きている実感を育むためには,≪共に居る≫ことが欠かせない3次元について,様々な事実がある,人が育つ「出会い」という日常世界では,「関わり合う」ことが一番強調されます。なるべく,歪めたり,蔑ろにすることなく,なるべく,肯定して,「関わり合う」ことは受け止めるべきでしょう。それは知的発達の舞台でも,科学技術や化学の舞台でも,同じです。
 「生きている実感」という言葉の2番目の隠されている意味は,「なるほどホントだね」と腑に落ちるほど,聖書の中で教えられていることが,「なるほどホントだね」と分かる2人が一心同体になることに体現して,聖書の話し言葉と出来事がピツタリと一致して「なるほどホントだね」と分かる習慣(大なり小なり,驚きますね)です。「なるほどホントだね」と分かることは,唯一の真実の価値ですから,1つの話し言葉と心響かせる大人に発達するイメージを掴んだ人全てが,「なるほどホントだね」と分かります。「腑に落ちる」(アインシュタインは「Begreiflichkeit ドイツ語で『腑に落ちる』」と言います)生きている実感のこの側面にピッタリした言葉でしょうね。もう1つの話し言葉は,もっと目に見える,「うまくできてる」です。というのも,「うまくできてる」は,様々な事実が見事に織り上げられているので,様々な事実が聖書の神様からのメッセージを示していると分かります。「関わり合う」「なるほどホントだね」と腑に落ちる「うまくできてる」,の3つの次元で生きている実感が,主たる発達の様々な舞台で,2人が響き合うようにし続ければ,その時だけ,心から自由にされた大人の人生の習慣(倫理)が間違いなく親から子に受け継がれます。この心から自由にされた大人の人生の習慣がありますと,たくさんの自由にされた仲間達は,それぞれの持ち味を最大限発揮して(訳注:,創造の心からの歓びに与り),生きることができます

 

 命が育つ視点として,生きている実感こそは,ですから(生きている実感が,そのものズバリに,「聖書の神様の命の通り道」と呼ばれるとしても),うまくすれば,森羅万象すべてを包み込む創造の源になりますから,生きている実感を生きる人は,人を不動にする場を選ぶことだけに,練達した意識を集中します人を不動にする場は,「うまくできてるね」と実感する心の習慣を益々高める,言ってることとやってることが一致した生き方ができる心から自由にされた見通しを持つことができますし,復活して不動にされる働きに2人が共に身も心も捧げることによって,友愛精神を実現するのを常にするができます

 人が心響貸せることができる大人になるイメージは,究極的には,ひとりびとりがお互いが共に発達する予定です。人が心響かせることができる大人になるイメージは,日々創造されるたびに,毎日「新しい人」になる予定です。



 生きている実感があると,毎日礼拝の中で,毎日「新しい人」になります

 生きている実感があると,相手に心響かせることになりますから,日々,共に発達し,毎日創造されることになります

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