エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #水たまりの空

2019-02-17 10:31:09 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #1人豊か #スピリット
 聖書の言葉 : 単独者の幸福    ジョアンのお祈り、人類のお祈り 鍛錬の賜物    弱さの強さ  弱さの強さ。形容矛盾に見えますね。何を言いたいのか分かりません......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpediaと

発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典Weblio辞典

をご参照ください

 

 

生きているのに

死んでいるあなたへ

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。

 

 

 

 

雨が上がると

 

水たまりに

 

空が


うつります

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#継続は力なり

2019-02-17 09:50:48 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#ストレス社会 #大人もストレス #子どもはもっとストレス
 “診断の隙間” と パンデミック      心の眼と心の眼で穏やかに聴いたらば、あら⁉ 不思議!   弱さの強さ  弱さの強さ。形容矛盾に見えますね。何を言いたい......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 
 発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典

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 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.326,第4パラグラフから。その前もご一緒に。



トラウマはいかに脳波を変えるのか?

 

 ニューロフィードバックの実験室で,トラウマ・ストレスに長い間苦しんだ人で,既存の治療法が,歯が立たなかった人を何人も見守りました。その人たちの脳波パターンは様々でした。右側頭葉が活動しすぎな場合が多かったんです。右側頭葉は脳が恐怖を捉える中枢で,しかも,前頭葉があまりにも働かない,ということが同時に起こります。つまり,興奮しすぎた感情脳が心を支配している状態です。私どもの研究によれば,恐怖を感じる脳中枢を静めれば,トラウマが元になった様々な課題は減りますし,上等な頭の回転も進みます。これは,患者さんのPTSD得点を減らすのに役立っただけではなくて,頭がスッキリとするのにも役立ちますから,些細なことでも引き出されて動揺したその動揺を静める力を増していきます。

 トラウマを負わされた他の患者さんたちは,目をつぶると多動になるパターンがあります。自分の周りがどうなっているのかが分からないと,トラウマを負わされた患者さんたちはパニックになり,脳波も狂ってきます。私どもは,トラウマを負わされた患者さんたちの脳波がリラックスするように訓練します。しかし,別のトラウマを負わされた患者さんたちは,様々な音や光に過敏でして,(訳注:感覚刺激を受け取る脳幹である)視床が,要らない情報を取捨選択することができません。このような過敏な患者さんたちの中には,後頭部の脳のコミュニケーションパターンを変えることに集中する人もいます。

 私どものトラウマ・センターが,長期にトラウマ・ストレスに晒された人を上手に治療する治療法を探すことに夢中になっているとき,アレクサンダー・マクファーレンは,戦闘場面に晒されると,普通の脳がいかに変わるのかを研究していました。オーストラリア国防省は,アレクサンダー・マクファーレンの研究グループに,イラクとアフガニスタンで戦闘場面に配属されたことが,脳波のパターンも含めて,心理的,生理的に機能にいかに影響するのかを調べてほしい,と言ってきました。はじめのうちは,マクファーレンと仲間たちは,179人の戦闘員部隊の脳波を4か月間ずつ,中東に派遣される前後に測定しました。

 マクファーレン達が見つけたことは,3か年の内,何か月間戦闘に加わったか,その月の数が,後頭部の脳のアルファ波を余計に減らすことと関係がある,ということでした。後頭部の脳は,身体の状態を調べて,睡眠,空腹と言ってなくてはならない生理を整える役割を担当する部位で,ふつうは,脳のどの部分よりも,特に目を閉じたときに,アルファ波を出す部位です。これまで見てきたように,アルファ波は,リラックスすることと関係します。この兵士たちは,アルファ波の力が減ったのは,(訳注:戦場では)いつも心が動揺し興奮していたからでしょ。同時に,この兵士たちの前頭部の脳波は,この部分は通常ベータ波が高いのに,戦場に配置されるたびに,次第に落ちてきました。この兵士たちは,前頭葉の働きが進んで,ADHDの子どもみたいになりましたから,知的に高い活動がやりにくくなりましたし,集中するのも難しくなりました。

 現実問題として,目覚めていることが,ふつうは日々の仕事に携わるのに役立つと思われるのに,イランとアフガンに派遣された兵士にとっては,目覚めていることは,日々の仕事に集中するのに役立たなちません。目覚めていることで,この兵士たちは動揺しますし,落ち着くことができません。この段階のマクファーレン達の研究は,この兵士たちがPTSDになってしまうだろうということを予見するには至りませんでしたし,時がたてば,兵士たちの脳も,再び市民生活に馴染むでしょう,としか言えませんでした。

 


 研究には時間がかかります。待つこと,やり続けることが大切です。

 継続は力

 

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#時間と空間に対する根源的な指針になる態度 #フィリピ第2章4節

2019-02-17 08:49:09 | エリクソンの発達臨床心理

 
#復元力 #神様が中心 #約束も大事
 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 視覚の恵み,ヴィジョンの恵み    子どもに必要なのは、知識ではなく、エネルギー   創造の翼も広がる  虫眼鏡の向こう......
 

 

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 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することが,できた』 p.91の第2パラグラフ,11行目途中からです。その前も。

 


 

でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることが,あまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人,あるいは,2人以上の人が,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,本音で協力する時だけ,2人(以上の)の「生きている実感」が一心同体になり,「共に生きている実感」に融合します。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。
 「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」が生きる心の習慣)。
 ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ち心から平和な関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ち心から平和な関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。生きている実感が,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。

    3重になった生きている実感のある現実

 エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします。
 そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。その仲間は,自分の身近にいて,1人の「他者」として,人生の大切な時期に,「あの人のことね」,と分かる人もいれば,そのほとんどが,心の繋がりをなんとなく感じる人たちです。その仲間は,壁を作って私たちに反対しようとする場合でさえ,生きている実感を分かち合うことによって,ひとりびとりの生きている実感を確かにしたいと願っている人たちです。人間関係を心理的に見る視点があるからこそ,私が他の人に同調することを話すだけでは,実に不十分なわけです。といいますのは,あらゆる人間がピッタリとくっつくことは,諍いになりますから,私がピッタリとくっつくことを教えられる前に,すでにピッタリとくっつく様々な実験に夢中になり,一心同体になる体験を強烈に心に刻み付けてきているんですから。実際,フロイトさんが「リアリティ,すなわち,生きている実感」に相当するドイツ語は,Wirklichkeit(「うまく働く」ことと関係します)には,受け身の関わりを自ら始める意味と,働き掛け合う意味がありますから,ふつうは,「アクチァリティー,自ら関わる現実」と翻訳すべきですし,「互いに,自ら関わりを始める」意味に理解すべきだと,私は考えますね。
 ですからね,生きている実感は,≪共に居る≫ということが,一杯ある,ということが,欠かせない,と言われます。≪共に居る≫ことができるのは全て,2人の心が自由にされる,2人がピッタリとくっつく場では,(訳注:目的も方法も知らない)動物の本能とは対照的に心の中で聖書の神様が促す,唯一の内的促し次第ですから,その内的促しにしたがって,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりが,発達の間,その子どもの思い通りに手に入る,という(訳注:目的も方法も自覚した)「魂を貫き通す,聖書の神様が下さる一方的な約束」のおかげですし,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりは,人が輝き共に育つ際に,大人の人たちが,謙虚に子どもの下に立ち,子どもに夢中になること(洗礼に与ること)に,とても役立ちますこのようにしてもらうと,その子どもは,「人を自分のように大切にする」ようになる,と言われます。それはちょうど,自分が,名前を呼ばれ,大事にされ,気持ちを分かってもらったのにビッタリ同じように,人も大事にするようになることですし,聖書の神様の命が一巡する時,互いに大切にし合う生き方が,心の中に育まれるんですね。
 生きている実感を育むためには,≪共に居る≫ことが欠かせない3次元について,様々な事実がある,人が育つ「出会い」という日常世界では,「関わり合う」ことが一番強調されます。なるべく,歪めたり,蔑ろにすることなく,なるべく,肯定して,「関わり合う」ことは受け止めるべきでしょう。それは知的発達の舞台でも,科学技術や化学の舞台でも,同じです。
 「生きている実感」という言葉の2番目の隠されている意味は,「なるほどホントだね」と腑に落ちるほど,聖書の中で教えられていることが,「なるほどホントだね」と分かる2人が一心同体になることに体現して,聖書の話し言葉と出来事がピツタリと一致して「なるほどホントだね」と分かる習慣(大なり小なり,驚きますね)です。「なるほどホントだね」と分かることは,唯一の真実の価値ですから,1つの話し言葉と心響かせる大人に発達するイメージを掴んだ人全てが,「なるほどホントだね」と分かります。「腑に落ちる」(アインシュタインは「Begreiflichkeit ドイツ語で『腑に落ちる』」と言います)生きている実感のこの側面にピッタリした言葉でしょうね。もう1つの話し言葉は,もっと目に見える,「うまくできてる」です。というのも,「うまくできてる」は,様々な事実が見事に織り上げられているので,様々な事実が聖書の神様からのメッセージを示していると分かります。「関わり合う」「なるほどホントだね」と腑に落ちる「うまくできてる」,の3つの次元で生きている実感が,主たる発達の様々な舞台で,2人が響き合うようにし続ければ,その時だけ,心から自由にされた大人の人生の習慣(倫理)が間違いなく親から子に受け継がれます。この心から自由にされた大人の人生の習慣がありますと,たくさんの自由にされた仲間達は,それぞれの持ち味を最大限発揮して(訳注:,創造の心からの歓びに与り),生きることができます

 

 命が育つ視点として,生きている実感こそは,ですから(生きている実感,そのものズバリに,聖書の神様の命の通り道と呼ばれるとしても),うまくすれば,森羅万象すべてを包み込む創造の源になりますから,生きている実感を生きる人は,人を不動にする場を選ぶことだけに,練達した意識を集中します。人を不動にする場は,「うまくできてるね」と実感する心の習慣を益々高める,言ってることとやってることが一致した生き方ができる心から自由にされた見通しを持つことができますし,復活して不動にされる働きに2人が共に身も心も捧げることによって,友愛精神を実現するのを人生の習慣にすることができます

 人が心響かせることができる大人になるイメージは,究極的には,ひとりびとりがお互いが共に発達する予定です。人が心響かせることができる大になるイメージは,日々創造されるたびに,毎日「新しい人」になる予定です。私たちの人生の様々な時期を振り返ると,身体が響き合う仕組みから,姿勢や感覚が響き合うようになり,生きる指針にまつわるぶつかり合いから,人の関係を心理的に見る見方が様々にぶつかり合うことへと発展しましたね。また,私どもが示そうとしたのは,心響かせる大人になるイメージは,互いに大切にし合う関係になるのか,互いに支配する関係になるのかを実験する様々な実験全てに,手を省みて,聖書の神様の命が一巡する場と意味をもたらすか,あるいは,自分ばかり見て(訳注:自己愛に溺れて,あるいは,自己中心,身勝手に),聖書の神様の命を蔑ろにする逆向き(的外れ=いわゆる原罪)が一巡する場と意味をもたらします。相手を省みて,聖書の神様の命が一巡するときにだけ,ひとりびとりの≪生きている実感≫は,この世に中で生きる,細やかながらも素晴らしい向き(方向感覚)を身に着けて,人とも分かち合うようになります。そこで,心響かせる大人になるイメージを研究することは,ひとりびとりの≪生きている実感≫が,時間と空間に対する根源的指針になる態度を必要としているところから始めなくてはなりませんし,この時間と空間に対する根源的な指針になる態度とピッタリと結びついた物の見方を与える仲間のやり方にも通じます。


 

 さっきの青年ルターの件と重なります。大切なのは,時間と空間に対する根源的な指針となる態度で,それが仲間内で共有することです。

 キリスト教では,繰り返しですが,いまは恵みの時という態度で,今ここを最高に生きる生き方になります。

 それは,新約聖書で,冒頭の4つのキリストの物語の後に,パウロの手紙が続く中にある,短い手紙「フィリピの信徒への手紙」の第2章4節で,パウロが,

「皆さん,自分のことばかりに感(かま)けてないで,相手のことを省みなさい」(私訳)

と言っていることにピッタリと重なります。

 

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#いまここを最高に生きる生き方 は  #時間と空間に対する態度  しだい #今は恵みの時 = #いまここが最高と思い出す

2019-02-17 07:23:16 | エリクソンの発達臨床心理

 
#日常生活の中にある奇跡 #神様の笑い
 現世考: 今の学校は,いじめ    信頼することと、従うこと   甘いこと、甘やかすことって、大事です。 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』......
 

 

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 昨日のところから,さらに戻ります。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.216,最後の第3パラグラフから。5訂版。

 

 

 ルターが強調したのは,スピリットがいまここにいてくださる,ということですし,初めからいつも,立って=復活していなくてはならないことが,聖書の神様を信頼する信頼の,1つの行動計画であるばかりではなくて,精神分析が「強い自我」と呼ぶ心の状態を司っている,時間と空間に対する最高の態度に似ていますよ,ということです。自分にとって,自分の過去は変えられないものではありませんから,迫りくる悲しく運命になりそうなものとして経験するばかりのものじゃぁ,ありませんよ。むしろ,過去は,いまここを最高に生きる生き方の一部になります。今ここを最高に生きる生き方は,過去を,忘れたり,書き換えたり,理想化することで,自分の過去を,今ここを最高に生きる生き方にピッタリ合わせるのにビッタリな善い方法を活用します。でも,知らないうちに,人をだましたり,わざと悪いことをするわけではありませんよ。自分は,過去の敗北や失敗を,(訳注:聖なる諦めとして)諦めて,将来できそうもないことを自分に課すこともなくなります。自分は,いまここで陽気で楽しい気分を楽しむものですし,様々な迷いや様々な思い煩いに苦しむことはありませんからね,という思い全てが,一番当てにならないということを防いでくれます。それは,一番容易な,一続きになっている経験は,そういえば,いまここが1つも傷がないくらいに最高だ,ということと,瓜二つだね,と思い出すからです。

 

 

 ここは,キリスト教のエッセンスを述べているところ

 米沢興譲教会の中心的聖句「今は恵みの時」(第2コリント 第6章2節)を実感した,時間と空間に対する最高の態度で生きることです。


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