#心からの優しさ #神様の声 #圧倒的な真理聖書の言葉 : 見るを探す=人間 光のある生活 感謝感謝の暮らし 2つにバラバラになっちゃったら、ダメよダメダメ! 縦の関係を横の関係に繋ぐもの、......
「発達トラウマ障害」Enpedia と
発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典
をご参照ください。
昨日の続き。
Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』から,Speciation and Ritualization 心から優しい育て方 と 毎日礼拝 の p.78,最後の第3パラグラフから。3訂版。
事実、精神分析は,この聖書の神様が促す内的促しの力は、やりすぎ・行き過ぎになりがちで,「子どもにピッタリ合わせる」心から優しい育て方,にはならない嫌いがある,と普通,言いますね。子どもを大切にするように元気を下さる偉大なこの内的促しの力が,子どもが自分の生きている実感を伸ばす根拠になったのは,あんまり心から優しい育て方にならない場合が多い,内的促しの力を,子どもと自分のやり取りの中で,人は生まれながらに,毎日礼拝にするようになっているという事実があるからですね。すると,子どもと自分のやり取りを,毎日礼拝にすることが,長い子どの時代の間,互いに大切にし合い,子どもと自分が一心同体となり,聖書の神様とも一心同体になることを,一つにして,必ず生み出すことになりますからね。心が育つ子どもの遊びは(遊んで心を育てるためにこそ,長い子ども時代があるんですから),自由に想像力を働かせて選ぶ力を育む,温もりに満ちた心から優しい生き方を試す教育の場です。この温もりに満ちた心から優しい生き方は,温もりに満ちた命を繰り返し一巡して下さり真の平和という究極の目的をハッキリと示してくださる聖書の神様が統べ給い,導いて下さる唯一の全うな生き方になります。しかしながら,内的促しは,経済的激動や歴史的激動の中で,様々な形で世間に合わせなくてはなりませんから,人は聖書の神様と一心同体になれずに苦しむ予定です(そのために,青年期があります)。人が聖書の神様=生きている実感と一心同体になれない間は,若者たちは,出来合いの様々な「堅信礼」を喜んで受け入れたり,創造的に感動したり,様々な理想を吹き込まれたりしますね。あるいは,現実には,自分も人もぶち壊しにしたい,と思う人もいますよね。
青年期に戻りましょう。毎日礼拝に戻りましょう。しかし,ここからお話しすることにおいては,特別な儀式や行事と,毎日「礼拝する中で皆が共に育つ人生の習慣」を区別したいと思います。共に育つ人生の習慣は,人間らしい陽気な楽しさを人生の習慣にして,その人生の習慣を本気で心から優しい子育てにすることですね。ここまで,私が心掛けてきたのは,「儀式的」だとか,「礼拝にする」だとか,という言葉は,様々な分野の様々なことを意味しますし,最高の意味にもなれば,最悪の意味にも使われます。精神医学で,「手を洗う儀式」と言えば,単独者の恵みが歪められた中で,両手をゴシゴシと洗って,皮が剥けても,まだきれいになった気がしないものですね。この精神分析で使う「儀式」という話し言葉は,この儀式という言葉の,勇気を吹き込まれている人間という意味とは矛盾しています。勇気を吹き込まれている人間という意味は,「礼拝」という話し言葉に,共に自由にされたいという最深欲求と,不動にされた顔と,就中,畏敬とスピリットに漲る心の習慣が全ての参加者に打ち込まれる気高さをもたらします。
共に暮らす動物を研究する動物行動学者たちは,ジュリアン・ハックスレーの教えに従ってきましたでしょ。つまり,「毎日礼拝する」という言葉は,たとえば,オスのペンギンが海を渡る長い航海から戻って時に,夫婦のペンギンたちがする陽気で楽しい挨拶みたいな,身体を使って仲間を確かめる礼拝的な動きを示しました。
毎日礼拝は,このように,仲間づくり,人が人と仲良くなるためにあります。
すると,この後に出てきますが,毎日礼拝は,自分自身になる上でも欠かせないものになります。
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