エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

お子ちゃま国家 改訂版

2015-01-11 15:29:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 この前沖縄県知事に当選したばかりの翁長雄志知事が上京しても、安倍晋三政権や自民党は、相手にしなかったことが、1.9,2015の朝日新聞の30ページ、社会面の記事「翁長知事だから会わない?」にあります。会えたのは、山口俊一沖縄北方相だけ。

 この記事によれば、新年早々翁長知事が上京したわけは、新年度予算で、沖縄関連の予算要請をするためだったと言います。仲井真前知事が上京したときには、安倍晋三政権や自民党幹部と直接日程を調整して、政権幹部との面会や自民党の沖縄関連の会議には、県職員と共に出ていたと言います。自民党幹部の中には自民党の沖縄関係の会議に「呼ばないのは、仲井真知事じゃないから」と露骨にいう人もいるとか。

 わが安倍晋三首相は、相手が自分の意見を聞き入れない時には、「シッカリ説明していきたい」と言う癖に、人の話となると、聞く耳がないみたい。さらには、わが安倍晋三首相は、自分とは異なる意見を聞く耳を、全くお持ちでない。「シッカリ説明する」のはいいことかもしれないけれども、それは「聴く耳」を持つ人がそうするといいんだけれども、「聴く耳がいな」人の「しっかりとした説明」は押し付け、強要、強制と何ら変わりがありません。これでは反民主主義。国民の多様な意見を大事にする姿勢とは正反対ですね。

 これが親だったら、子どもは心の病気になります。親が「お子ちゃま」ですからね。今の日本、わが安倍晋三首相があまりにも「お子ちゃま」ですから、国民も病気になりますよね。

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大事にされたい現代人 改訂版

2015-01-11 13:05:36 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 低俗なラブソングを聴いたり、B級のメロドラマ(ソープオペラ)を見ても、人を大事にすることを学べません。

 p1第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 この種の態度は、たくさんな前提があります。その前提は、1つでも、複数でも、その態度を支持してくれます。たいていの人は、人を大事にすることは、「自分が大事にされる」ことを第一に、「人を大事にする」ことは二の次と、みなします。したがって、ほとんどの人の課題は、どうやったら自分が大事にされるのか?ということですし、どうしたら自分は大事にされやすいか? ということです。この目的を実現するために、ほとんどの人はたくさんなやり方をします。男がよくやる方法は、成功すること、自分の地位の持つ役得を大きくすることですし、女がよくやる方法は、自分を魅力的にするやり方で、自分の身体や着ものなどを洗練させるやり方です。自分を魅力的にする別のやり方は、男も女も使うやり方ですが、陽気で楽しい立ち居振る舞いと、面白い会話を身に着けるやり方と、人に役立ち、謙虚で、嫌味がないというやり方です。人から大事にされやすいたくさんのやり方も、「友達を作ったり、人々に影響したりする」ことをうまくやるやり方と同じです。現実に、私どもの文化の中でほとんどの人は、人から大事にされる事と言えば、人気があること+セックスアピールが上手だということになります。

 

 

 

 

 フロムはここでも、現代人の特色を上手くとらえています。人を大事にするのは、あくまでも、自分が大事にされることが中心だと言います。何故でしょうか?

 それは、親からも共同体からも、守られている感覚が、現代人は希薄になっているということでしょう。ですから、個が自律することが求められている割には、この自律を基礎づける、自分が幼い時から大事にされた経験が、決定的に不足しているからだろう、と私は考えます。

 

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倫理がバラバラだと、自分はブラブラ! 改訂版

2015-01-11 10:05:58 | アイデンティティの根源

 

 最も大事なものは、人の心、そこに根差すスピリット。

 p241ブランクの後から。

 

 

 

 

 

 私たちすべてが研究し、働きもしている世界、すなわち、国際情勢の不吉な地平が、現在と遠き未来において、来ることについて、どのように最後に申し上げたらいいのか? ここでも私どもは、個人の倫理と、職業人としての倫理と、政治的倫理をバラバラなままでいつまでも放っておくことなど、出来ません。それがバラバラなままですと、生活そのものが危うくなりますでしょ。私どものが職業をする上で、その倫理がバラバラなままにしておこうと誓ったりすれば、私が個人として存在するその確かさそのものを切り刻むことになっちゃいますよね。私どもの時代になって、私どもの世代になって初めて、トラウマの悲しみを抱えつつ、気付くことになったのは、単独で自明なこと、すなわち、黄金律は、あらゆる前史において、いつでもずっと、争いと共にあった、ということです。

 

 

 

 

 

 ここも非常に大事なところですね。倫理を一貫したものにするのか? それとも、私的生活と、職業生活と、政治参加において、倫理がバラバラのままにしておくのか? 

 エリクソンは、この倫理がバラバラだと、自分を確かにすることなどできない、と言いますね。どうでしょうか? 仕事場で言っていること、やってることと、家庭で言ってること、やってることがバラバラだったら? どれがホントの自分なのかはわからなくなっちゃいませんか? いろんな仮面をいろんな場面でつけるのが、日常生活の実態かもしれません。でもね、それがあっちではこうだけれども、こっちでは、ああだ、となれば、本音の自分は隠しておくべきもの、自己表現の場がなくなっちゃいませんか? すると人は息苦しさを感じますし、イキイキした感じを失っちゃって、なんかビクビク、オドオドして、あるいは、ペコペコ、ニヤニヤする生活になっちゃうでしょ。

 私はそんな生活はしたくないですね。釜石小学校校歌のように、

「息あるうちは、イキイキ生きる」存在であり続けたいものですね。

  

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