エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

青年ルターと受苦的態度

2013-10-16 03:16:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 精神分析、その流れにある(エリクソンの)心理療法が、能動的に、受動的であることを選択していることが分かりましたね。言葉を換えれば、受苦的態度を能動的に取るのです。こうすることで、クライアントが、かつて「~された」受身の体験で、猛烈に否定的情動がベッタリと付いてしまっている体験を、いま一度、能動的に捉え返し、折り合いのつくものにできるのです。

 しかし、これは心理療法の時だけのことではないのです。あらゆるヒューマン・サービスにおいて応用可能です。ですから、教育や福祉はもちろん、外食産業、アパレル産業、商取引などにも応用できるでしょう。きちんと応用できれば、あらゆるその分野のクライアントとの関係を、陽気で楽しいものとすることができますし、お互いに高め合う関係にもできることでしょう。

 今日からは、受苦的態度(patienthood)に焦点を当てている『Young Man Luther 青年ルター』の第一章第1節「事例と出来事」を翻訳することとします。しかし、その後は別の論文を取り上げる予定です。

 

 

 

 

 

 ルターに関する著作や、ルターの手になる著作は、その量たるや膨大です。しかし、ルターの子どもの頃と青年期に関して、当てになる資料となると、極めて少ないのです。(ですから、)歴史上のルターの役割は、特にルターのパーソナリティーは、ひどく曖昧なままです。ルターは、ウソのない、真実の学者たちから、否認されると同時に、是認もされてきました。その学者たちは、自分の人生の良い部分を、全部ではないけれども、使って、生データからルターを再構成したのでした。それは、学者たちが決まり文句でルターを一纏めにしようとする時はいつでも、1人のスーパーマン、ないしは、スーパーマンのロボットを創りだす結果になってしまいました。それは、ルターがかつて実際にそうしたようには、決して息遣いをせず、身動きせず、少なくとも、言葉にしない代物なのです。この本を書くとき、私は果たして、ましなものを書くつもりだったのか、ですって?

 

 

 

 

 受苦的態度(patienthood)について、考えるために、エリクソンは、ルターやガンディーについて、彼の精神分析を駆使して、本を書いたのだと、私は考えています。そして、この受苦的態度は、例えば、ロマ書の第五章3節と4節に出てくるυπομενωを英訳したものだ(日本の聖書ではふつう、「忍耐」と翻訳されます)と、私は考えています。これは文字通り、υπο「下に」μενω「立つ、留まる、待ち続ける」、つまり、下に留まって、待つ」ことを意味します。それはまさに、セラピスト・カウンセラーの根源的態度なのです。

 これに関連して、もう1つ申し上げることがあります。このυπομενωは、早熟の天才、シモーヌ・ヴェーユが最もこのんだ言葉であり、態度なのです。それは、彼女の著作のタイトル『神を待ちのぞむ 』(春秋社)になっているほどです。

 さらに、ついでにもう一つ申し上げることがあります。それは、このυπομενωは、「理解する」を表す、英語のunderstandと、under下に stand立つ、という言葉の成り立ちが同じだ、ということです。つまり、これは、目の前の子どものことを本当に理解するのは、生徒指導やお小言を言ったりしてもダメだ、ということだと、私は理解しています。それでは、子どもに対して、「下に立つ」こととならないからです。子どものことを本気で理解したいと思うのなら、子どもの下に立つ」ことに私どもが努めなくてはならないことを、このυπομενωunderstandは示しているのです。

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