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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

人類皆兄弟 or 「壁を作って、お代はメキシコに払わせろ!」

2016-03-15 11:33:37 | アイデンティティの根源

 
問いある毎日
  いのちの不思議は、一人の子どもと分かち合う時、いっそう味わい深いものになりますね。 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p1...
 


 

 ルターのような宗教的人間は、人生の酸いも甘いも汲み尽す意味に気付く、人智を超えた恵みを人類にプレゼントしてくれる存在みたい。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、下から4行目途中から。

 

 

 

 

 

思春期の終盤の質の悪い混乱は、大人びた分別臭さや無理無理小さくまとまった感じになることが、よくあります。神様に選ばれた若者(だけ)が、自分を確かにさせる課題を森羅万象全てに広げます。他の人達は、地元やちっちゃな集団にある、バラバラな形で自分を確かにさせることでしかないものに、何とか馴染もう、嫌われないように上手くやろう、と努力することになります。神様に選ばれた青年は、信頼の課題こそ、永遠の課題だと思って、正面から取り組むのに対して、その他大勢の人達は、信頼の課題に上手く対処できませんから、「どうせ、人は当てにならないものですよ」などと否認してみたり、「信じらんな~い」と絶望してみたり、心がビョーキになったりしますね。

 

 

 

 

 

皆さまも、神様に選ばれた青年でありたいと思いませんか? 信頼感が豊かですから、心響く関係を様々な形で育むことができますし、人間皆兄弟と、異性や次世代や外国人や立場を異にする人達とも、なかよくやれます。

それに対して、その他もろもろは、仲間内だけ優先ですから、そこのお山のボス猿にはペコペコするけど、異性や次世代や外国人や立場を異にする人達には、「よそ者」「外人」「変人」などと言って、排除し、仲間外れにし、万里の長城を内外に作り出し、「お代はメキシコに払わせろ!」などとほざくのですね。

貴方は、どっち??

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人生の酸いも甘いも汲み尽す意味に気付く、人智を超えた恵み

2016-03-14 09:58:06 | アイデンティティの根源

 

 

 
「あなたは特別です」 内村鑑三と教育 part2 さらに改訂してみました
「上州かるた」から  内村は教員としては、失敗者でした。しかし、失敗者は「辺境者」でもありますね。マックス・ウェーバーの辺境変革説は、教育の世界でも当てはまる...
 

 

 良心の呵責って、青年期を過ぎちゃうと、鈍感になるのが普通なの?

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、長~い引用部分の後、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 思春期後期の危機も、大人のいろんな危機を見通すだけじゃなくて、最初の危機に戻るものですね。自分が生かさせていることに信頼して生きていいのか? それとも、自分が生かされていることに信頼しきれずに、生きざるを得ないのか? という危機ですね。人生の最初と最後の危機を両方含む、青年期の自分を確かにさせる危機が大きく変化することに集中すれば、何故、宗教的に、芸術的に創造性の高い人が、めったに解決出来ないような精神状態を経験するけれども、その経験こそが、人生の酸いも甘いも汲み尽す意味に気付く、人智を超えた恵みであると分かる、ということにも説明がつきますね。

 

 

 

 

 

 人生は実に不思議にできますでしょ。田中信生先生が「谷が深いほど、峰も高い」ということを説教でよくおっしゃっていたことを思い出しますね。ルターのような創造性の塊のような人は、人がめったに出合わないし、解決するのはもっと難しい課題を経験し、それをたくさんの人の身代わりになって、解決する、ということを、示してくれてる、わけですね。その答えは、文字通り、人生の酸いも甘いも汲み尽す意味に気付く、人智を超えた恵みなんですね。

 

 

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良心の呵責なき世界

2016-03-13 22:26:31 | アイデンティティの根源

 

 

 
内村鑑三と教育
  内村鑑三。1861年、江戸時代末期に、東京小石川で生まれ、1930年、東京は柏木、今の地番で言えば、新宿北新宿一丁目で亡くなっています。70才でした(詳しくは...
 


 

突き抜けた悦びって、どうしたら伝えることが出来るのかしら?

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、長~い引用部分の後、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自分を確かにさせる青年期の危機と、まとめる力をもつ大人の危機を結び付けると、ひとりびとりが自分を確かにされるという宗教的人間の課題が、いまここに生きていることを確かにさせるという課題と同じになります。この課題は、ある程度は、青年期の後半の時期によくある未熟さを強調することにすぎません。宗教的指導者は、良心的呵責に対処するプロになります。この良心の呵責も、思春期を過ぎた真面目人間の多くには、一時の話です。この真面目人間も、後には良心の呵責から抜け出すか、良心の呵責で自分を失ってしまうか、良心の呵責と無の境地の間にある学問か芸術をみつけるか、のどれかになるものです。

 

 

 

 良心の呵責があれば、落ち着きませんね。でも、良心の呵責がなくなった個人と、良心の呵責がなくなった社会って、どんな人、どんな社会なんでしょうか?

 良心の呵責なき人間は、もはや人間の顔をしたケダモノだと私は考えます。またその社会は、いかに悲惨で、いかに息苦しく、人間が住むにはあまりにも苛酷なものか、今のニッポンのウソとゴマカシだらけを見たら、分かるはずです。

 

 良心の呵責なき世界とは、文字通り、普通の生活のようで、その実、地獄の日々です。

 

 

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イメージの中にこそ、自分らしさはある

2016-03-13 02:22:44 | アイデンティティの根源

 

 

 
いのちの不思議 改訂版
  星や虫や鳥の名を知らずとも、自然を “感じる” ことができますし、自然を “感じる” ことが何よりも大事なんで...
 

 書くことで、自分が無心に欠ける場合がありますね。それはもう自分が書いているようで、自分を超えた何者かに書かされている感じになる場合があります。それは一種のトランス状態で、深い内省に通じます。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.240の、ブランク後の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 自由に書くこと(フリー・ライティング)と呼ばれることをする場合、自分の連想の流れに入るための、自分専用のロールシャッハテストとして、何でも使えますよね。単純に、最初に心に浮かんだことを書いていくのです。目の前にある物を見て、途中で止めたり、読み直したり、訂正したりせずに、見続けるんですね。カウターの上の木のスプーンが、おばあちゃんと一緒にトマトソースを作った思い出の引き金になるかもしれません。あるいは、子どものころに打たれたことを思い出すかもしれません。代々受け継がれている急須を見れば、当て所なく、亡くなった大事な家族のことまで思い出すことになるやもしれませんし、愛憎相見える家族のお休みのことを考えてしまうのかもしれませんでしょ。イメージがすぐに立ち現れるや、記憶が蘇って、それが言葉になります。何でも紙の上に示されたことは、あなたならではの思いを、ハッキリと示すことになる訳です。

 

 

 

 

 

面白いですね。思いのまま、気の向くままに書いていく。フリーライティング。連想が連想を呼びます。横道好き、脱線好きの私のブログも、このフリーライティングですね。私に示された使信を皆さまにお伝えしますと共に、自己確認をしていることになる訳ですよね。

 

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#突き抜けた悦び 

2016-03-12 12:11:11 | アイデンティティの根源

 

 

 
プレイフルな関わり 改訂版
  楽しい時間、と言ってもピンとこない人もいるんでしょうか? 子どもと毎日接していて、「楽しい時間」程肯定的なことはありません。最近の子どもは、「愛着障害」だ...
 

 

 問いをもって生きるって大事。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.261の、長~い引用部分の後、7行目途中から。

 

 

 

 

 

 というのも、宗教的人間は、若い時分に、最後の課題に対する突き抜けた悦びを体験しますから、殉教者になったり、若死にして自分の使信を封印するか、あるいは、あの世を夢見ながら、1人豊かな時間を楽しむ方が、マシかもしれませんね。ナザレのイエスという若者については、あまり知られていませんけれども、あの人は中年には思えない、ということだけは確かでしょうね。

 

 

 

 

 

 「突き抜けた悦び」と訳したのは、breakthrough ブレークスルーという言葉です。突破口、飛躍と言っても、甚だ不十分です。そこには、計り知れない苦しみがあるとと同時に、それに見合った、計り知れない悦びが、必ずあるからです。突破口、飛躍と言ったら、その2つの感情体験があることを見失ってしまいやすい。

 突き抜けた悦びは、もう、言葉にすることなどできないものかもしれません。どうせ伝えることが出来ないのなら、その使信のために死んでしまうか、1人を決め込むか、後世の人の為に、少数の弟子か書物に、その使信を封印する方がマシ と考える人がいても、不思議ではありません。

 しかし、その道を選ばなかった人が、少なくとも一人いたわけですね。それがナザレのイエス、という名の若者です。

 

 

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