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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#祈りによる再生力 #祈り=サイコセラピー #発達トラウマ障害(DTD)

2017-06-11 10:57:57 | アイデンティティの根源

 

 

 Young Man Luther 『青年ルター』p208の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 それで,2つのやり方で、祈りによる再生は、受け身です。つまり、祈りは父なる神にすべてを委ねることでしょ。しかし、祈りは同時に、ex matrice scripturae nati、すなわち、聖書という母から、生まれ変わることでもあるでしょ。「母体」とは、1人の、男の中の男が「おかあちゃん」と言うようになるのと似ています。しかし、男の中の男は,思い出せないし、認めたくもないのが、何もかも意のままになるやり方を身に着けるずっと前には,もっとも,それは,厳しい父親がダメ出ししたり,逆にもっと「俺様の勝手でしょ」ということにもさせることにもなるものですが,一人のお母さんが,その男に,この世の中は,乳房を求める自分の口と,敏感に感じ取る鋭い感性とによって,知るものですよ,と教えていたことでしょうね。一人の男に中の男にとっては,身に着けがたい,この受け身になる,というようなことは,最初に身に着けたけれども,忘れているやり方によってイキイキしたものになる,再獲得しなくちゃいけない唯一の能力です。 

 

 

 

 2年前の翻訳は,ちょっと下手さが目立ちましたね。というよりも,この2年間で,私のエリクソン理解が深められたからかもしれませんね。

 男の中の男でも,赤ちゃんの時は,受け身で世の中を知っていたわけです。その時に必要だったのは,乳房を求める自分の口と,鋭い感性でした。そして,祈りは,まさに,心と口でお祈りをして,鋭い感性で感じ取って,生まれ変わらせてもらうことでした。

 そして,これは,セラピーの上でも,非常に大事な視点だ,ということをエリクソンは,臨床を通して,述べているところです。

 祈りとサイコセラピーはほとんど同じことです。

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ユングに学んだエリクソン

2016-04-01 07:19:20 | アイデンティティの根源

 

 

 
神の計画は∞
  オッカム主義では、神様は日常生活とは縁もゆかりもない者になっちゃいましたね。今と同じです。 Young Man Luther 『青年ルター』p190の第2...
 


  子どもには、良い良心をプレゼントしたいですね。神様以外は、何物も恐れずに、確信をもって、自由に活動してもらいたいからね

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.263の、第2パラグラフ、ブランクから。

 

 

 

 

 

                4

 

 この本では、私どもは西洋の宗教運動について論じていますけれども、この運動は、自分の感じに基づいて行動を起こしてもいい感じと、自分はダメだぁという感じのやり取りを極端に強調し、「神なる父と子」の関係を特に強調することから生じ、その後、ずってそれを強調し続けています。この枠組みでは、母はあい方ですけれども、陰の存在です。父なる宗教は、母なる教会を持ちます。

 

 

 

 

 ここに、ユングの父性原理と母性原理が、垣間見えますね。アイデンティティも、エリクソンの専売特許のように言われますが、ユングの方が先に言ってますからね。ユングに学んで、エリクソンはアイデンティティとライフサイクルを思いついた、というのが私の節です。

 

 

 

 

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秩序を作る力が答え

2016-03-31 08:33:50 | アイデンティティの根源

 

 

 

 

 
弱さの強さ
  これは、パウロの書簡「コリントの信徒への手紙 二」の第十二章10節「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行きづまりの状態にあっても、キリストのために満...
 


 とくに発達とウラマの子どもたちからは、悪い良心の大人は遠ざけたい。でもこれが結構いるから困ります。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.263の、第2パラグラフ、下から12行目途中から。

 

 

 

 

 

この定式では、すべての人が、自然の力や悪霊に対して抱いてきた昔ながら怖れは、人間の心の中にある力と、内なる子ども、とに再び投影されています。その眠れるエネルギーは、悪事になったり、天使みたいにロマンチックなものになったりします。人は訓練して身に着けた良心が必要ですから、自分は悪い良心に違いないと思ったり、時にお手軽に良心が身につくと思うときには、良い良心だと思う訳ですね。こういったすべてに対する答えは、あれやこれやの悪の感じを、子ども等から失くしたり、子ども等に「ダメダァ」と言って否定したりしようとしても、ダメですよ。避けられないことを否定したって、秘密やら、手に負えない悪がいや増すだけですよ。この答えは、人間が秩序を作る力にこそあんですね。秩序を作る力があれば、子どもたちは、訓練された、しかも、我慢強い良心と、確信をもって活動できる場を手に入れることが出来ますからね。

 

 

 

 

 

 子どもに、寛容に、忍耐強く関わることが、子どもにも、寛容で、忍耐強く関わることが出来る、素敵な良い良心をプレゼントできます

司馬遼太郎さんが『二十一世紀にいきる君たちへ』で言っていることと同じです。

 子どもが、良い良心がプレゼントされれば、神様以外は、何物も恐れずに、確信をもって活動できる場も出来ますからね。

 

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悪魔とメンター

2016-03-30 08:06:05 | アイデンティティの根源

 

 

 
セラピーは、全人格的
  The sense of womder『不思議を感じる心』が訳了したので、どうしようかと思います。  今日からは、エリクソン晩年の著作 The ...
 


 

 幼い時分に、自分の弱さや道徳的な敏感さにつけ込まれてきた大人は、「正しいこと」をやってるフリして、口裏合わせてコッソリ悪だくみをやるパターンに陥りがちです。誰かに心底復讐したいんですね。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.263の、第2パラグラフ5行目途中から。

 

 

 

 

 

もちろん、宗教家も、悪と戦っている時でさえ、自分はダメだぁという悪の感じに支配されていますから、悪は人間の「本性」の属すものであるばかりか、神様のご計画にも属すものですし、神様が人間に恵まれた恵みでさえある、と考えます。この仮定に対する答えは、子どものしつけのやり方も、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込む点で様々なのは、宗教も同様にいろいろなのと同じだ、ということです。困ったことが生じるのは、まず、本能の力が暴走するのは、悪い良心が支配ではない場合だ、という道徳的な恐怖からですし、その次は、人間にとって最高のものは否定的な道徳だとハッキリと主張する試みが、融通の利かない制度によってがんじがらめになって仕舞うことからくるわけです。

 

 

 

 

 

 子どものしつけのやり方が、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込むのかどうかは、様々だと言います。付け込むのは悪い良心の大人です。付け込んだりしないで関わろうとするのが、良い良心の大人です。

 子どもにとって、特に、発達トラウマの子どもにとっては、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込む、悪い良心の大人は、善人面の仮面をかぶっていても、悪魔でしょう。しかし、根源的不信感、恥、疑い、自分を責める気持ちにつけ込むことを避ける、良い良心の大人は、伴走者であり、メンターです。

 

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悪だくみが行われてしまう時

2016-03-29 08:39:14 | アイデンティティの根源

 

 

 
不思議を感じる心、最終回 風を感じて
  不思議を感じる心は永遠です。 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p106の下から3行目から。  ...
 


 反抗があって、はじめて、物事は刷新されるもの。何かを新しく、人間らしいものを作り出そうとすれば、必ず反抗がなくてはなりません。法政大学の山口二郎教授も、同じご意見ですね(http://yamaguchijiro.com/?cid=10)。

 今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.263の、3行目から。

 

 

 

 

 

 人間にとって重大な問いは、幼い子どものしつけで、子どもの無力さと道徳的な敏感さを、どの程度利用して良いのか、あるいは、それに付け入ってはならないのか、ということです。付け入りすぎれば、自分は悪くでダメだという、根深い感じが避けられなくなりますからね。なぜなら、このような、自分は悪くでダメだという、根深い感じこそ、終いには、「正しいこと」をやってますと口では言いながら、口裏を合わせてコッソリと悪だくみをする結果になりかねませんからね

 

 

 

 

 

 エリクソンは、やっぱり人間の心を深く知ってますでしょ。堂々と悪いことをすることは稀で、悪いことの多くは、「正義」の名のもとに、口裏を合われてコッソリやるものだからです。それは、あの勘違いの大学教員や、大川小学校の教育委員会から、アベ・詐欺師ちゃんと悪魔の仲間たちはもちろん、会社や役場の小役人たちまでが、「人類に対する犯罪」をする時の常套手段です。

 

 

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