摠見寺(見寺:そうけんじ)は滋賀・近江八幡市の安土城跡にある。
以前にも書いたが、特に五重塔や三重塔マニアというわけではなく、家人と
共にともに古刹・名刹巡りをやっているうちにいつしか多くの五重塔や三重塔、
や多宝塔を目にしてきていた。
ここ摠見寺もそういった訳で、安土城跡を訪ねて行ったら偶然そこにあったと
いう次第である。
しかしこの寺は、織田信長が安土城を築城する際に合わせて発心し創建した
という由緒ある寺である。織田信長は比叡山の焼き討ちで多数の僧侶たちを
殺戮したり、石山本願寺と長年対峙して仏教を目の敵にしてきており、城の
一廓に寺を創建したなぞということは俄かに信じがたいが、天下を平定した
あとの治世にはやはり宗教の利用が必要だったのだろう。
目の敵にしたのは仏教そのものではなく、僧兵を集めて武装化したり社領を
拡大したりして俗世化した仏門従事者だったのかもしれない。
いずれにしても、安土城は築城からわずか3年半後に勃発した本能寺の変に
より光秀軍の手勢に攻められて焼け落ちたものの、寺は延焼を逃れており
三重塔および仁王門は創建当時のものであるという。
因みに寺の本堂は江戸末期に焼損したため城郭の別の位置(大手道)に再建
されていて、現在は安土城跡全体が�絶見寺の所有地になっている由である。
●’05年 最初の探訪
安土城跡を最初に訪れたのは’05年のGWで信州に行った時である。
通常、安土城跡の見学は駐車場に車を置いて大手門口から登るのが常套だが
無料の青空駐車場を探して城山の麓の道を周回してみると、大手門口から
時計周りに50mくらい進んだところに登山口があり、安土城跡の案内板
も設置されており幸いなことに道路の端に車を留めるスペースもある。
そこでここから登城することにした。しかし、後ほど触れるが城跡探訪
という意味ではこれが失敗の元となった。
正面の大手門口に対して、ここは百々橋口(どどばし)という。
百々橋(ネットから引用:最近のもの))
橋の突き当りが登り口、右手を回り込む大手門口へ行く
登山口(’05年のもの)
石碑の前に説明板が設置されており、石段の前にはまだ標識がない。
写真で判るように傾斜が45度もあろうかと思える急な石段が�絶見(見)寺三重塔まで続く。
説明板
百々橋が掛かる堀
当時の城下町に当たる。有名な”楽市楽座”が開設されたところだろう。
15分ほど急な石段をのぼると立派な仁王門に続き、三重塔が現れる。
石段と仁王門
仁王門
�絶見(見)寺三重塔
三重塔より一段高いところが平坦になっており礎石が散在する。周りを見渡す
とこれ以上高いとこころはなくどうも頂上のように見えた。このためここが
安土城跡と勘違いしてしまった。
礎石群
案内標石
実は、ここが江戸末期に焼損した本堂伽藍の跡だったようである。
確かに案内標石を拡大してみると�絶見(見)寺跡と書いてあり、石柱にも”右 安土城跡”
と刻まれている。
家人を駐車場に一人残してきており、ゆっくり探索できなかったので勘違いに
気付かなかった。
木々の間から琵琶湖が広がって見える。勘違いのまま、これがかつて信長も見た
安土城からの眺望なのだろうかひとり感激して下山した。
しかし、その後どうも様子がおかしいことに気が付いた。城跡にしては石垣
が小さすぎるし規模も小さい。往復の所要時間も30分足らずである。
後で調べるとどうも本当の安土山山頂は別にあるようなのである。
●今年(5月末)の再探訪
以来ずっと気にはなっていたのだがわざわざ立ち寄る気にはならなかった。
ところが今年、ひょんなきっかけで再び訪れることになった。その経緯は省
くが、兎も角、今回も前回と同じく百々橋口の方へ回ることにした。
しかし前回と何やら若干様子が違う。石段のところに立て札が立ててあり、
注意書きのようなものが書いてある。一瞬、通行止めというような文字が目に
入った気もするが、石段に柵はなく前回も登っているので気にも止めずに
登り始めた。すると20mほど登ったところで左手に神社があり、その先が
通行止めになっていた。
前回はこの道をフリーで登っており、まさかこのような山道で入山料をとる
ようになっているとは思いもよらなかった。崩壊するかなどかで危険なため
柵がしてあるのかと思ったのである。引き返すのも面倒で取り敢えず先に進む。
※帰宅して調べてみたところ、安土城跡への入山は’06年6月から有料と
なり大手門口に料金所が設けられているとのこと。前回行ったのが’05
年のGWだからそれから1年後に有料化されたことになる。
入山料500円。駐車料金500円。整備するのに金がかかったとは言え
石畳だけの山道に合計1000円はないだろうと思う。
大手門口(奥の関所のようなところが料金所:ネットから引用)
安土山地図(Google Mapより)
百々橋口からの登りは等高線が密になっており急峻であることがわかる。
三重塔のところが一つの峰になっており、安土山は更に奥にある。
木立があって前回は奥にあるもう一つの峰が判らなかった。
今回見た三重塔
ここを一旦下ると峰と峰の間の鞍部で大手門からの道と合流する。というより
大手門口から登るとここで天主、本丸方面と�絶見(見)寺三重塔方面へと分岐する。
なので大手門口から登っていたら間違うことはなかった。
さらに進んで天守等があった安土城跡へ向かう。
天主跡
縦横20mほどの矩形のくぼ地に礎石が並ぶ。意外と狭く感じるが、実は
このくぼ地は天主の基礎部分にあたり、周囲の背丈ほどの高さの土手一杯
に天主が建てられていたらしい
天主跡からからの琵琶湖の眺め
築城当時は安土山の周囲は琵琶湖の内湖になっていて湖水が広がっていた
ようで、現在とはかなり眺めが違っていたらしい。
車に戻ると散歩に来ていた地元の人らしい年配の人が居て、話をすると
「たった3年しか存在しなかった城をわざわざ見にくるとは」と言っていた。
地元の人は日常化して歴史を感じないようだ。
ともかくも、これで積年の疑念が晴れてすっきりした。
以前にも書いたが、特に五重塔や三重塔マニアというわけではなく、家人と
共にともに古刹・名刹巡りをやっているうちにいつしか多くの五重塔や三重塔、
や多宝塔を目にしてきていた。
ここ摠見寺もそういった訳で、安土城跡を訪ねて行ったら偶然そこにあったと
いう次第である。
しかしこの寺は、織田信長が安土城を築城する際に合わせて発心し創建した
という由緒ある寺である。織田信長は比叡山の焼き討ちで多数の僧侶たちを
殺戮したり、石山本願寺と長年対峙して仏教を目の敵にしてきており、城の
一廓に寺を創建したなぞということは俄かに信じがたいが、天下を平定した
あとの治世にはやはり宗教の利用が必要だったのだろう。
目の敵にしたのは仏教そのものではなく、僧兵を集めて武装化したり社領を
拡大したりして俗世化した仏門従事者だったのかもしれない。
いずれにしても、安土城は築城からわずか3年半後に勃発した本能寺の変に
より光秀軍の手勢に攻められて焼け落ちたものの、寺は延焼を逃れており
三重塔および仁王門は創建当時のものであるという。
因みに寺の本堂は江戸末期に焼損したため城郭の別の位置(大手道)に再建
されていて、現在は安土城跡全体が�絶見寺の所有地になっている由である。
●’05年 最初の探訪
安土城跡を最初に訪れたのは’05年のGWで信州に行った時である。
通常、安土城跡の見学は駐車場に車を置いて大手門口から登るのが常套だが
無料の青空駐車場を探して城山の麓の道を周回してみると、大手門口から
時計周りに50mくらい進んだところに登山口があり、安土城跡の案内板
も設置されており幸いなことに道路の端に車を留めるスペースもある。
そこでここから登城することにした。しかし、後ほど触れるが城跡探訪
という意味ではこれが失敗の元となった。
正面の大手門口に対して、ここは百々橋口(どどばし)という。
百々橋(ネットから引用:最近のもの))
橋の突き当りが登り口、右手を回り込む大手門口へ行く
登山口(’05年のもの)
石碑の前に説明板が設置されており、石段の前にはまだ標識がない。
写真で判るように傾斜が45度もあろうかと思える急な石段が�絶見(見)寺三重塔まで続く。
説明板
百々橋が掛かる堀
当時の城下町に当たる。有名な”楽市楽座”が開設されたところだろう。
15分ほど急な石段をのぼると立派な仁王門に続き、三重塔が現れる。
石段と仁王門
仁王門
�絶見(見)寺三重塔
三重塔より一段高いところが平坦になっており礎石が散在する。周りを見渡す
とこれ以上高いとこころはなくどうも頂上のように見えた。このためここが
安土城跡と勘違いしてしまった。
礎石群
案内標石
実は、ここが江戸末期に焼損した本堂伽藍の跡だったようである。
確かに案内標石を拡大してみると�絶見(見)寺跡と書いてあり、石柱にも”右 安土城跡”
と刻まれている。
家人を駐車場に一人残してきており、ゆっくり探索できなかったので勘違いに
気付かなかった。
木々の間から琵琶湖が広がって見える。勘違いのまま、これがかつて信長も見た
安土城からの眺望なのだろうかひとり感激して下山した。
しかし、その後どうも様子がおかしいことに気が付いた。城跡にしては石垣
が小さすぎるし規模も小さい。往復の所要時間も30分足らずである。
後で調べるとどうも本当の安土山山頂は別にあるようなのである。
●今年(5月末)の再探訪
以来ずっと気にはなっていたのだがわざわざ立ち寄る気にはならなかった。
ところが今年、ひょんなきっかけで再び訪れることになった。その経緯は省
くが、兎も角、今回も前回と同じく百々橋口の方へ回ることにした。
しかし前回と何やら若干様子が違う。石段のところに立て札が立ててあり、
注意書きのようなものが書いてある。一瞬、通行止めというような文字が目に
入った気もするが、石段に柵はなく前回も登っているので気にも止めずに
登り始めた。すると20mほど登ったところで左手に神社があり、その先が
通行止めになっていた。
前回はこの道をフリーで登っており、まさかこのような山道で入山料をとる
ようになっているとは思いもよらなかった。崩壊するかなどかで危険なため
柵がしてあるのかと思ったのである。引き返すのも面倒で取り敢えず先に進む。
※帰宅して調べてみたところ、安土城跡への入山は’06年6月から有料と
なり大手門口に料金所が設けられているとのこと。前回行ったのが’05
年のGWだからそれから1年後に有料化されたことになる。
入山料500円。駐車料金500円。整備するのに金がかかったとは言え
石畳だけの山道に合計1000円はないだろうと思う。
大手門口(奥の関所のようなところが料金所:ネットから引用)
安土山地図(Google Mapより)
百々橋口からの登りは等高線が密になっており急峻であることがわかる。
三重塔のところが一つの峰になっており、安土山は更に奥にある。
木立があって前回は奥にあるもう一つの峰が判らなかった。
今回見た三重塔
ここを一旦下ると峰と峰の間の鞍部で大手門からの道と合流する。というより
大手門口から登るとここで天主、本丸方面と�絶見(見)寺三重塔方面へと分岐する。
なので大手門口から登っていたら間違うことはなかった。
さらに進んで天守等があった安土城跡へ向かう。
天主跡
縦横20mほどの矩形のくぼ地に礎石が並ぶ。意外と狭く感じるが、実は
このくぼ地は天主の基礎部分にあたり、周囲の背丈ほどの高さの土手一杯
に天主が建てられていたらしい
天主跡からからの琵琶湖の眺め
築城当時は安土山の周囲は琵琶湖の内湖になっていて湖水が広がっていた
ようで、現在とはかなり眺めが違っていたらしい。
車に戻ると散歩に来ていた地元の人らしい年配の人が居て、話をすると
「たった3年しか存在しなかった城をわざわざ見にくるとは」と言っていた。
地元の人は日常化して歴史を感じないようだ。
ともかくも、これで積年の疑念が晴れてすっきりした。