Bid Competition(入札競争)というのは本当に厳しい。全てのプレーヤーが求めに応じて最大限の努力をしたにもかかわらず、結果的に1プレーヤーだけが選ばれてしまう。選ばれなかった人が行った全ての努力は、結果に結びつかなかったという意味でムダとなるのだ。
僕が前から追い求め続けている『競争のための協力』哲学も、基本的には「競争こそが最大の成果を生み出す手段」だという考え方に立っている。最大の成果を生み出す可能性が高いからこそ、協力してでも競争に勝つ必要があるのだ。「協力」は「競争」に勝つための手段でしかない。
しかし、最近になって「競争こそが最大の成果を生み出す手段」という前提に少し疑問を抱くようになってきた。本当は競争によって敗者の側の「努力のムダ」が増え、社会全体としての成果の最大化を実現できていないのではないかと思うようになってきたのだ。
具体的には、ある新型ロケットの開発プロジェクトに関連して、そのプロジェクトをメインで請け負うプライムコントラクターを競争入札で決めることになったとする。もちろん、価格だけでロケットの良し悪しを判断できる問題ではないので、概念設計までを各プレーヤーが独自に行った上で、その提案内容も含めて総合的にプライムコントラクターを誰にするかを決めることになるのが普通だ。
この場合、最終的にプライムコントラクターとして選ばれるプレーヤーが1社であると仮定すると、残りのプレーヤーが概念設計のために投入したヒト・モノ・カネの全てのリソースは、結果的にムダとなる。もちろん、選ばれなかったプレーヤーの中に技術が蓄積して残ると考えればムダではないのかもしれない。しかし、今回の選定において結果に結びつかなかったという意味で、競争によってまたムダな努力が生産されてしまったことになるのだ。
Economics(経済学)の講義では、競争のないMonopoly(独占)状態こそが社会全体の富の最大化を阻む要因だと習った。企業としては独占状態ほどおいしいビジネスはないのだけど、社会という観点で見た場合、独占状態のビジネスが社会全体としての価値の最大化に向かうことはない。企業利益の最大化と消費者利益の最小化といった方向に全てが動く。それが「独占」の本質だ。
その「独占」の対極として「競争」は存在する。しかし、「独占」状態では社会全体の富は最大化されないし、かといって、「競争」を生み出しても社会全体の富が最大化されない可能性があるとすれば、一体僕達はどやって社会全体にとって最適な状態を作り出すことができるのだろうか。社会全体の富を最大化できる状態とは、一体どんな状態なのだろう。絶対に発生することのない理論上の「完全競争」の状態こそが、今の僕の疑問に対する答えなのだろうか。
もっと現実的なしっくりくる答えを知りたい。でも今はまだ何も分からない。
(写真はトゥールーズ郊外の街Moissacの街並み)
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