1960年代から1980年代まで、
日本では「帰国事業」の名の下、
日本中に残っている朝鮮人、いわば在日コリアンを
船に乗せて北朝鮮に送還する事業が盛んでした。
その後、帰国した在日コリアン出身の方々が脱北をし、
「地上の楽園」という宣伝で帰国を決心したが
大違いだった、北朝鮮当局と朝鮮総連に騙されたとして
次々と証言をしてくれています。
韓国の「国民統一放送」というところに
ご両親が在日コリアンで北朝鮮に帰国し、
ご自身は北朝鮮で生まれ育ったという脱北者が出演しました。
在日コリアン出身の帰国者は、
北朝鮮で「チェポ」と呼ばれ、軽蔑されています。
「チェぽ」は「在日僑胞(チェイルギョポ)」という言葉の略語として、
北朝鮮で彼らを見下す意味を表しています。
北朝鮮でチェポを軽蔑・差別する背景を考えてみると
やはり、当局による熱心な反日教育の結果ですね。
日本の植民地支配に対する恨みを込めて教育をするほか、
「日本の資本主義に浸かったお金好きの下品な者」と教えられるのが事実でした。
一方、日本からお金を沢山持ってきたか、
日本に残った家族より仕送りを沢山もらって、豊かにくらす帰国者については
密かに憧れを抱く矛盾もありましたが、
その憧れが嫉妬と変質し、また軽蔑と差別が繰り返されるといったパターンです。
日本から来たという理由で差別をするつもりだったら
「地上の楽園」と宣伝をして帰国させることもしなかったらよかったのにと思います。
以下は、国民統一放送で脱北者が出演して
在日コリアンとして受けた差別を証言する放送分の和訳です。
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北、在日コリアン出身の入隊・昇進機会を完全剥奪
デイリーNK 2017.1.10 (国民統一放送より)
脱北した在日コリアン2世、「人事で"在日出身はダメ"と露骨に指示」
北朝鮮人権記録センターが最近、実態調査に着手した。韓国政府が北朝鮮住民の人権情報を一つ一つ記録し、金正恩など北朝鮮指導部に人権弾圧犯罪の責任を問う根拠を設ける作業の先頭に立つという考えである。これと足並みを揃えて、デイリーNKと国民統一放送は、人権蹂躙の直接被害者らの証言を伝えることで国際社会に北朝鮮人権問題の深刻性を換気し、加害者らに警告のメッセージを伝えていきたい。
北朝鮮で人道に反する犯罪が起きており、北朝鮮指導部にその責任を問うべきだという声が強まっています。韓国の首都ソウルに人権事務所を設置し、北朝鮮の人権状況を監視するとともに被害者の証言を記録しています。韓国政府も北朝鮮人権記録センターを立ち上げて北朝鮮指導部に人権侵害の責任を問う法的根拠を設けようとしています。国際社会と韓国がなぜこのような措置を取っているか、北朝鮮で人権侵害を受けた被害者の話を聞きます。
-今日は、在日コリアンとして日本に暮らしていたが北朝鮮に帰国した、北朝鮮では「チェポ」と呼ばれる在日コリアン帰国者の子女で、北朝鮮で社会的な差別を受けたチョ・チュンヒさんの証言をお伝えします。
チョ・チュンヒさん、こんにちは。自己紹介をお願いします。
私は平安南道・平城に住んでいました。平城から2011年2月に脱北して2011年4月に韓国に入国しました。
-ご両親が在日コリアンでいらっしゃるそうですが。
はい、私は北朝鮮で生まれましたが、両親は日本に住んでいました。父、母は日本の広島で暮らしていましたが1960年に北送(北朝鮮へ帰国)され、私が1963年に北朝鮮で生まれました。
-前回の放送でも、突撃隊に支援したことも出身成分による差別のせいだったと証言されましたが、在日コリアン出身は北朝鮮でどのような差別を受けるんですか。
北朝鮮では出身成分を「核心群衆(核心階層)」「基本群衆(動揺階層)」「複雑群衆(敵対階層)」に分けています。在日コリアン出身の帰国者は複雑群衆にされます。だから、政治的な成功は難しかったんです。よく言う「権力の中心」というところには決して入れません。
-直接差別を受けることもあったと思われますが。
はい。一つは、高校を卒業する時でした。小学校から高校まで勉強は結構得意でした。学校全体で常に首位でした。でも、卒業をする時には辛い経験をさせられました。ある日、中央党からタイピスト採用のために人が来ましたが、卒業班全体100人のうち予備候補として選ばれた3人に私が入っていました。身長も170センチ以上で成績もよくて選ばれたようでした。翌日の朝、中央党に(最終選抜のために)来るよう言われ、ドキドキしながら行ったんですが、指定の場所に入ったとたんに中央党指導員が「お前がチョ・チュンヒか」と聞いて出て行けと言うんです。訳も分からないまま退場されたんです。私は理由が知りたくて残り2人の候補が出るのを待って状況を聞きました。すると、中央党指導員が彼らに「(チョ・チュンヒが)背も高くて見た目もよくて成績もいいけど、チェポ(‘在日同胞'の略語で軽蔑のニュアンスを含む)だからダメそうだ」と話したようでした。北朝鮮では日本から帰国した人を指して「チェポ」と言って見下すんです。
それだけじゃありませんでした。大学推薦の時にも差別を避けられませんでした。勉強を頑張ってきたんだから金日成総合大学や金策工業大学のような大学に願書を出して結果を待っていました。しかし、合格者のリストに私の名前はありませんでした。成績だけを見ればいくらでも入学できるレベルでしたが、後で分かったのが、帰国者子女やチェポはそういう名門大学には入学できないということでした。本当に悔しかったです。私が学校に通う当時は10点満点の採点が原則でしたが、9点の時も一度もなく、いつも10点でした。にもかかわらず、複雑群衆だという理由に希望の大学に行くこともできなかったのです。
それで結局軍隊に行って入党する道を選ぼうと思いました。でも、入隊まで拒否されてしまったのです。「帰国者は信用できない階層」というのが理由でした。北朝鮮は「階級の銃」を複雑群衆には持たせないからでした。このようなルールは1983年からやっとゆるくなりはじめました。当時は軍隊にも行けなくなるとあまりにも腹が立って友達何人かとお酒を飲んで入隊することになった人々を殴りました。その後私は保安署に連れて行かれて一ヶ月間殴られましたね。私みたいに軍隊や大学に行けずに残っている非主流が何人かいましたが、ちょうど速度戦突撃隊が隊員選抜に来たのです。それで仕方なく突撃隊に入ることになったわけです。
-突撃隊での服務を終えて大学に進んだとお聞きしました。獣医畜産大学を選んだそうですが、本人の希望でその大学にしたんですか、それとも在日コリアン出身ということを意識して獣医畜産大学を選択したんですか。
事実のところ、北朝鮮で大学や専攻を選択する機会なんて与えられません。特に私みたいな帰国者出身は(機会の剥奪が)もっとひどいです。私が突撃隊に務める時に、自分の身の程も知らずに金星政治大学というところに願書を出したことがありました。ところが、この学校は金日成の名前を取ったことから分かるように(※注※「金星」は「金日成」を意味する)青年人材を養成するところでした。だからか、願書を出す時に8親等までの親族の身分証明をしなければならなかったんですが、私は帰国者出身なわけで北朝鮮には4親等までしかいませんでした。保安署も私の証明書に「5親等は南朝鮮におり証明不可」という札を付けてくれましたね。そんなわけで帰国者出身は希望の大学に行けず畜産や農業、機械などの大学に行くしかありませんでした。私はその中では運がいい方で畜産大学に入ったんです。
-大学を卒業した後には3大革命小組活動をまた3年間されましたね。その後、職場配置となりまいたが、どんな職場でしたか。
まず、職場を配置される時にも身分による差別を受けました。同じ畜産大学でも出身成分がよければ中央党で別の枠で職場を配置します。学生の成績や人柄なぞ全然考慮しません。反面、成分が良くなければ内閣の大学生配置課が学生たちを出身地の現場に配置します。私も平城出身なので平城畜産部門に配置されました。そうやって地域党委員会傘下の経営委員会の畜産課で働くようになりました。
-行政官僚になったわけですが、その後にも差別がありましたか。
はい、職位を維持することも大変だったし、昇進の機会もなかなか得られませんでした。経営委員会に入社して4年になる年にやっと昇進の機会がやってきました。新しい部署ができてそこを担当する人が必要だったわけですね。私ともう一人の希望者が競争する形でしたが、北朝鮮で昇進をするには条件がとても厳しいです。賄賂も相当しなきゃいけないし、ある程度の経歴もないといけません。また学校成績はもちろん、これまで組織生活を誠実にしてきたかも確認します。もちろん私は中学校を卒業してから10年間速度戦突撃隊で服務し、入党もしたし、大学で勉強に頑張って成績も良かったです。
それにもかかわらず、昇進できませんでした。私が競争において劣るところと言えば帰国者という出身成分だけだったのにですね。しかも、私と競った候補は大学も経営委員会入社も私より後輩でした。私の後輩として指示を受けて働いていた人なのに身分のせいで私が負けたんですから本当に…秘書局で「同じ条件なら帰国者は不合格にしろ」と指示したらしいです。私の委員会が100人くらいいましたがみんなが私が昇進すると予想をしていました。しかし、他の候補の身分があまりにも良かったわけです。彼のおじさんが中央党の留学生配置課所属でしたが、そのおじさんのロビーがかなり影響したそうでした。
-当時どんな気持ちでしたか。
本当に悔しかった。私は党と首領のために忠誠を尽くしたら分かってくれるという話を信じて本当に一生懸命頑張りつづけました。高校卒業の時に差別を経験して、突撃隊で大学入試を受ける時にも差別がありましたが、それにもかかわらずひたすら頑張って働きました。人間関係もうまくやっていくよう努力しましたし、きつい仕事があれば率先して手を挙げました。でも何一つ報われることはありませんでした。
こういうふうにやられっぱなしでは、私自身が辛いことも問題ですが、家族にまで被害を与えかねないと思うと本当に気がくさりました。それでもう官僚としては希望がないと考えて商売をしようと決心しました。ちょうど当時は苦難の行軍(1990年代後半の経済難)の時期でしたが、いっそのこと商売やってお金でも稼ごうと思い、退職しました。
-なるほど。脱北を決心したきっかけは何ですか。
2000年のはじめ頃に脱北を決心しました。息子が中学3年生でしたが、父親が職場で差別を受けて結局商売をしようとするのを見て、自分が家をもり立てると考えたようです。それから息子はボクシングを始めました。北朝鮮では体育や芸術分野で頭角を現して国際競技でメダルを取ってきたら平壌に住むこともできるじゃないですか。家もくれるし仕事もくれるし。そのために息子は歯を食いしばって3年間ボクシングに励みました。その結果、韓国式で言うと国家代表、北朝鮮式で言うと青少年総合として選抜されました。アジア競技大会に出場する機会を手にしましたが、息子もやっぱり出身成分のせいで競争者に機会を奪われ、出場ができなくなったのです。それじゃなくても親として息子がリングの中で殴られるのを見たら胸が痛むのに、一生懸命頑張ったにもかかわらず試合にすら出られないから本当に悲しかったです。息子も悔しかったのかボクシングをやめると言いました。
その時は本当に申し訳なかったです。出身成分の悪い父親のせいで子供がこんな被害を受けるんだと思って。私も自分の両親をとても恨みました。そのまま日本に住んでたらこんな差別は経験しなくていいのにって。当時私の両親も何も言えずにため息ばかりついていましたが、その姿がまだ記憶に鮮明に残っています。ともかく、当時「これじゃダメだ。何でもいいからやってみよう」と思っていましたが、ちょうど平城でも韓国ドラマが流行りだしてラジオ放送が聴けるようになりました。私もラジオ放送を聴きながら両親の故郷である南朝鮮について知るようになって、「こんな社会で子どもたちが教育を受けるようにしてあげよう」と決心しました。それが脱北のきっかけです。
-今韓国に在住しながら北朝鮮の人権実態を広報し、改善を求める活動をされていますが、脱北者の一人として北朝鮮当局に伝えたいことはありますか。
住民たちが市場で自力で生計を立てていく今日の現実の中で、北朝鮮の当局者たちがやることは何もありません。ただただ権力維持のために核兵器を作っていますが、核は決して万能ではありません。核にしがみつくどん底から出てきて、心の扉を開いて世界とコミュニケーションをしてほしいです。また、住民たちも自由にさせて閉鎖的な世界から解放させることを願うし、それこそが本当に北朝鮮当局者らが権力を維持する方法でもあることを伝えたいです。
-北朝鮮当局は北朝鮮が平等な社会であると宣伝していますが、実際には差別が深く根付いています。日本に居住しているうちに1959年から1980にかけて北朝鮮に移住した在日コリアン帰国者たちは、学校に入る時にも入隊する時にも職場に配置される時にも常に差別を受けています。いくら能力を認められても組織の中で高級職位になる資格は最初からないものでした。北朝鮮当局は、住民たちがいかなる差別もなく社会的な権利を享有できるようしっかり保障すべきです。