弁当日記

ADACHIの行動記録です。 
青年海外協力隊で2006年4月からバングラデシュに2年間住んでました。

バングラデシュのニュース(1971/3/16、3/28,6/2,3)

2011年05月28日 | バングラデシュのニュース(40年前)
バングラデシュ独立から40年が立ちました。
40年前の独立当時のニュースです。

独立宣言当日1971年3月26日の様子(新聞は翌日27日に掲載)は
こちら http://blog.goo.ne.jp/adachij/e/0fd949355e2b52c2cc5b1304ab77f55f

■見出し(1971年 バングラデシュ独立当時)
◯大統領ダッカ入り 妥協成立か分離独立か
 [読売新聞1971年3月16日朝刊]
◯情勢混とん -東パキスタン-
 ”政府軍が全土掌握”西側放送 ラーマン総裁地下放送 ”解放軍近く勝利”
 [読売新聞1971年3月28日朝刊]
◯市や町に”住民政府” バングラの旗ひるがえる
 [読売新聞1971年4月10日朝刊]
◯反乱から二ヶ月 混迷続く東パキスタン (上)
 職場に帰れ!軍絶叫 服従とゲリラ、迷う民心
 [読売新聞1971年6月2日朝刊]
◯反乱から二ヶ月 混迷続く東パキスタン (下)
 経済再建の”お荷物” 米やジュート生産激減
 [読売新聞1971年6月3日朝刊]



■大統領ダッカ入り 妥協成立か分離独立か
 [読売新聞1971年3月16日朝刊]

【ニューデリー武田特派員十五日発】
制憲議会の無期延期表明いらい混乱を続ける東パキスタン情勢は、十五日ラーマン・
アワミ連盟総裁が事実上の独立宣言を発表、一方同日ダッカ入りしたヤヒア大統
領が提示すると伝えられたところから、東パキスタンの独立か、自治要求の弾圧か、
あるいは双方の妥協が成立するかをめぐっていよいよ最大の山場を迎えた。
ダッカからの報道によると、ヤヒア大統領はラーマン総裁との会談のため、十五日
空路ダッカに到着した。同大統領としては、ラーマン総裁に新連立政権参加を求め、
それに平行して制憲議会で新憲法を作成するとの”妥協案”を提示すると見られ
ている。
一方、ラーマン総裁は同日、これに先立って「東パキスタンの全権を掌握した」と
声明、政府職員の職場復帰、「東パキスタン政府」への税金支払いなどを住民に求
めた三十五項目の計画を発表した。これは事実上、東パキスタン独立へ一歩を進め
たものといえよう。しかし、これがそのまま実施されて東パキスタンの分離独立に
進むか、ダッカ入りするヤヒア大統領を迎えて、譲歩を迫るために打ち出された強
硬姿勢の表れか、については当地でも観測が分かれている。
東パキスタンでは制憲議会延期決定で、独立への要求が高まり、ラーマン総裁は七
日、制憲議会出席の条件に戒厳令の解除などを要求、中央政府に対する不服従運動
を広げていた。東パキスタンは事実上、ラーマン総裁の元に一致団結、ヤヒア大統
領の任命した州知事の更迭を最高裁判事が拒否、また、中央政府期間に代わると見
られる執行委員会を各地に作るなど、実力による政権奪取の準備を続けてきた。
にもかかわらず、ヤヒア大統領側から妥協が得られず、また海上から軍隊の増強が
行われ、軍部の軍事弾圧の恐れもつよくなったため、ラーマン総裁は実力行使に踏
み切ったものと見られる。

ダッカでヤヒア大統領は制憲議会開会前に文官政府を認めるという妥協を考えられ
ていると伝えられたが、依然、戒厳令解除の意向はなく、十四日には東パキスタン
の戒厳令当局が不服従運動をしている軍関係者に職場復帰の最後通告を出し、また
東パキスタンの民兵組織が武装解除されるなど、軍部の強い態度が示された。




■情勢混とん -東パキスタン-
 ”政府軍が全土掌握”西側放送 ラーマン総裁地下放送 ”解放軍近く勝利”
 [読売新聞1971年3月28日朝刊]

東パキスタンの内戦は二十七日、二日目に入り、中央政府(西側)軍七万の武力制
圧に東側は一万の死者を出したといわれる。検閲がしかれ、通信が途絶しているた
めもあり、詳細は不明だが、西側放送が、東パキスタン全土の自体を完全掌握し、
急速に平常に復帰しつつあると伝えるのに対し、東側地下放送は、「一両日中に勝
利・・・ダッカはわが解放軍の手中に帰そうとしている」と述べている。また、西
側のラーマン逮捕を東側が拒否するなど”心理作成”の様相を呈している。外電に
よると西側からは増派と空軍力投入の情報も伝えられているが、情勢は混沌として
いる。隣国インド政府は二十七日、higashiへの同情的立場を表明したが、米中ソ各
国とも影響力拡大を図ることを警戒、事態を注視しており、内戦は外交的波紋も広
げようとしている。

【PR東京】二十七日のパキスタン放送によると、パキスタン政府軍は東パキスタン
全土の事態を完全に掌握、急速に平常に戻りつつある。これは二十七日、戒厳令当
局がダッカで公式に述べたものである。また、戒厳令当局は、東パキスタンで戦闘
が行われている一部外国通信社の報道はまったく根拠のないものだと述べた。

【ニューデリー二十七日発AFP=時事】二十七日、当地で聞いた東パキスタンの地下
放送は、東パキスタンの首都ダッカはいまやラーマン・アワミ連盟総裁の率いる解
放軍の手におちようとしていると伝えた。
ダッカからインド国境に着いた難民たちが伝えるところによるとパキスタン空軍の
”無差別爆撃”で数千人が死亡したといわれる。

西側、ラーマン監禁説流す
【ニューデリー二十七日発AFP=時事】パキスタン放送は二十七日、ダッカで行われ
た公式発表として、東パキスタンのラーマン・アワミ連盟総裁が、東パキスタンの
独立を宣言した数時間後の二十七日、午前一時半(日本時間同四時半)にダッカ市
内の自宅から連行され、監禁されたと伝えた。

【ニューデリー二十七日発AFP=時事】二十七日、当地で傍受した東パキスタンの地
下放送は同日、ラーマン総裁自身が自由のみであると語ったと伝え「同志たち、私
は健在だ。目標である自由達成のため計画に従って進もう。敵の宣伝に踊らされな
いように」との談話を伝えた。
地下放送によると、ラーマン総裁はチッタゴンに居ると述べた。ラーマン総裁談話
内容は次の通り。
「私はチッタゴンにいる。自由ベンガル国軍は込みらを占領したあと、チッタゴン
に進軍中である。チッタゴンは現在ベンガル軍兵士が完全に占領している。(西パ
キスタンからの)パキスタン侵略者はバングラ・デシュの農村部にひそんでいる。
彼らを一掃せよ。ベンガルに勝利を。」

<<東を支持>>
ガンジー首相
【ニューデリー二十七日発UPI=共同】ガンジー・インド首相は二十七日国会で演説、
東パキスタン住民支持を示唆して、次のように述べた。
「民族の統一民主行動をわれわれは歓迎する。インド政府は情勢の推移にきわめて
強い関心をいだいており、遅滞なく決定を行うだろう。いまや非武装の民衆が戦車
と対決しているのである」




■市や町に”住民政府” バングラの旗ひるがえる
 [読売新聞1971年4月10日朝刊]

【クシチア(東パキスタン西部)九日発=AP】東パキスタンの総人ロ約7千万人の少
なくとも三分の一にとって、バングラ・デシュ(ベンガルの国)はすでに現実の物と
なった。

東パキスタンをほぼ二分しているガンジス川の西側にある無数の市町村は東パキス
タンの住民自身が統治しているようだ。赤、黄、緑のバングラデシュの旗が市町村
役場の建物にひるがえっているし、住民たち訪れた人々に「ジャイ・パングラ(ベン
ガルに勝利を)」と叫んでいる。
※注:バングラデシュ独立当事は国旗中央の赤丸内にバングラデシュ国土が黄色で
   書かれていました。

インド国境から約四十八キロガンジス川岸の行政中心地、クシチア市では、その傾
向が最も顕著であり、ベンガル人の当局者が同地の鉄道、警察、郵便、行政を一手
に運営している。税金も徴収され、当地の銀行に預けられている。
十五人から構成される「地区行政委員会』が人ロ三万のクシチア市を運営している。
同委員会のシャムスルフク副議長によると”解放された”他の市町村にも、同種
の委員会が結成されているという。

近く内閣発表 臨時政府
【ニューデリー九日発=AFP】PTI通信が九日報じたところによれば、東パキスタン
解放軍東部地区司令官アブ・オスマン少佐は「バングラ・デシュ臨時政府一週間以
内に内閣を発表する」と言明した。

政府軍、コミラを攻略
【ニューデリー九日発ロイター=共同】インドのPTI通信が九日伝えるところによる
と、パキスタン政府軍は陸、海、空からの攻撃を加えており、東パキスタン東部の
重要な拠点コミラが政府軍の手に落ちた。しかし解放軍も再度プール、ラジシャヒ
近くの政府軍基地二箇所を奪還した。解放軍はまた、東パキスタンの重要な鉄橋を
爆破し、ダッカと東部のコミラ、東北部のシルヘトなど主要都市との連絡を断って
いる。
インドとの国境の町クリシュナガルにはいった情報によるとパキスタン政府軍は西
部のジェソール、クスチア、ジナプールを取り巻く地域で、攻撃を加えているとい
う。

戒厳司令官、知事に
【ニューデリー九日発UPI=共同】パキスタン放送が九日伝えたところによると、東
パキスタンのチッカ・カーン戒厳司令官は東パキスタン知事に就任した。



■反乱から二ヶ月 混迷続く東パキスタン (上)
 職場に帰れ!軍絶叫 服従とゲリラ、迷う民心
 [読売新聞1971年6月2日朝刊]

東パキスタンは五月末、ほぼ雨期にはかった。モンスーン特有の激しい雨が緑濃い
大地をたたき、空から見る田畑は無数の無数の湖となって広がり始めた。千六百㌔
離れた西パキスタンは雨一滴降らず、砂あらしの中で乾き切っているというのに-。
だが三月二十六日以来の血塗られた争乱によって、二つの民族の心はこの途方もな
い地理的距離以上にかけ離れてしまった。統一パキスタン共通の回教という宗教的
結合は消えかけ、銃剣の下で支配者と植民地の民族的対立ばかりが表面化していた。

「ダッカ、チッタゴンへの交通が開通しました。アワミ連盟の反乱は完全に鎮圧さ
れ、治安は軍によって完全に守られています。安心して職場に戻ってください」
-ダッカ、チッタゴンを結ぶ幹線道路の中間にあるプンガムニの政府軍守備隊司令
部の前を「平和委員会」のメンバーを乗せたトラックががなりたてて通り過きた。

この地域は都市労働者の供給地。ダッカ、チッタゴンでアワミ連盟の反乱が敗れ、
政府軍の血の粛清が始まると、何千、何万という人々がいなかへ逃げ戻ったのだ。

「武力制圧は終わったが、今度は人心をつかむ作戦を遂行しなければならない」
(ダッカ民政長官)。軍と民間の潤滑油の役を果たすため、全国各地に平和委員会
皿会という協力機関が軍の手で作られた。だが、アワミ連盟一辺倒になっていた民
衆から見れば、これは「敵対協力」になる。同委員会の主力メンバーだった回教連
盟の政治家数人がすでにゲリラに暗殺されている。
軍は平和委員会を政治勢力として育成し「大政翼賛会」にしたいと考えているよう
だ。その基盤の上に州府を作り、新しい統一パキスタンを再出発させようというわ
けだ。ベンガル人の体質ほ温和従順で力に弱いという。あるインテリは「われわれ
ベンガル人の歴史は常に支配者への服従とざ折の歴史出すよ。」と自ちょうする。
だが、ホテルや街田で外国人と見て話しかけてくる青年は、はっきり軍、西パキス
タン人に対する憎しみと復しゅうの誓いをロにする。
「アワミ連盟の幹部、学生の指導者はほとんど全員がインドに逃げているんですよ。
彼らはいつかは戻ってきてパングラ・デシュ(ベンガルの国)の旗を掲げてくれる
に違いない」
こんどの争乱で、アワミ連盟幹部、とくにムジブル・ラーマン総裁には体質的な弱
さ、戦略、戦術などの誤りがあったのではないか。自治拡大を旗しるしとする不服
従運動の高まりが絶頂に達した時、若い学生、労働力の突き上げにあって抑制能力
をを失ったのではないか。政治交渉でパキスタン国旗をひきおろし、バングラ・デ
シュの独立旗を掲げ、しかも西の軍事力を倒すだけのカの蓄積も緻密な計画もなか
った結果として、反逆者という落とし穴にむざむざとはまり、数十万の命を失った。
戦う体質のないブルジョア幹部は民衆を置き去りにして逃げるのに懸命だった。し
かもその間にウルドゥ語を話す西パキスタン人やビハール人に対する虐殺という非
人道行為もやり、あとで報復されたりしている。
ムジブル・ラーマン総裁は逮捕されてはいるものの、手厚い保護の下にある。
その家族はダッカ市内に家をもらい、ゆうゆうと暮らしている。ペンガル民衆も決
してアウミ連盟を批判しない。ラーマン氏は神格化されている。だが「ムクチ・ファ
ウジ」(解放軍)-つまり、政府軍に追われてインド領にのがれた独立運動の武装グ
ループは、もはやアワミ連盟を乗り越えて、急速に左に傾斜していると一般に考え
られている。ナクサライトなどインドの改革派は将来のインド革命の温床とするた
めにも、東ベンガルへのテコ入れを強めるだろう。
政府軍筋によると、インド領内の約八十か所に解放躍の訓練所があり、二、三週間
の訓練を受けたあと、東パキスタン領に進入して破壊活勤をやっているという。

アワミ連盟と組んで反乱した東ベンガル・ライフル連隊、警官などの初歩的軍事知
識を持った者もかなりいる。近代兵器を持ったパキスタン軍には正面からはいどめ
ないが、地の利を知り、民衆の暗黙の支持をあてにできるだけに、ゲリラ戦化すれ
ばあなどれない。
とくにモンスーンには、七万五千の政府軍は、かわいた西パキスタン出身のパンジャ
ブ兵、パッタン兵であり『水と泥の中での作戦は得意ではない。「われわれはモ
ーターボートをもっているし、火力も十分だから敗残ゲリラなど少しも恐れていな
い」-前線部隊の指揮者はこう断言する。
ライフル連隊は『東パキスタン民間兵」と改称して再組織しようとしている。従来、
ライフル連隊が守っていたインド国境まで正規軍が警備するのでは、兵力は分敢
するし、補給も大変だからに違いない。
だが、民衆からの非難を恐れてなかなか集まらないようだ。
パキスタン軍はほほ二か月かかってようやく東パキスタシ全土の支配を回復した。
バシグラ・デシュ政権はカルカッタに逃げ、解放区らしいものはまだどこにもない。
下積み生活になれている民衆は、無気力な表情で徐々に職場に戻り始めた。といっ
て西が完全に東を押えたとは言えない。わずか数日でも西かちの解放感を味わった
都市呂衆は、さまざまな形でサボ、.テロをやるだろうし、対軍協力者は割りの合わ
ない仕事に命をかけなければなるまい。そして、武装ゲリラがガンジス川の水かさ
と比例して活動を増すのだろうか。(ダッカ・阿部特派員)



■反乱から二ヶ月 混迷続く東パキスタン (下)
 経済再建の”お荷物” 米やジュート生産激減
 [読売新聞1971年6月3日朝刊]

三・二六争乱の結果、東パキスタンは、”プラスの植民地”から”マイナスの植民
地”へ変わった。世界生産の三分の二強を占め、大いに外貨をかせいできた東のジ
ュートはめざましかった六〇年後半のパキスタン経済発展のささえだった。その外
貨が東には正当に還元されず、外国援助の割り当ても不当に少ないうえ、災害援助
まで西にごまかされている、と東の住民は非難してきた。ところが、相次ぐ天災と
今度の「人災」で、東は西に養ってもらわねばならない立場になった。
ジュート、米などの植え付け、取り入れが遅れ、ジュート加工工場の操業は半分以
下。生命線ともいわれるダッカ、チッタゴン間の鉄道、幹線道路は、ほとんどの橋
が爆破されたためいいまだに不通。
フェニーにある長い鉄橋は工兵隊の手では修理できず、仮の浮き橋で急場をしのこ
うとしているが、ゲリラの襲撃で工事が思うにまかせないという。貿易湾チッタゴ
ンでは平時5千人以上いた港湾労働者が、いまは日中だけで七百ー八百人が出てくる
にぎない。
ことしの米の作柄はよく、昨年の1千百万トン以上の増収が見込まれていた。とこ
ろが、この騒きで八百トン程度に減ったと専門家は踏んでいる。
すでに到達している災害救援米百万トンのほか、政府は国連に二百万トンの緊趣援
助を要請しなければならなかった。西が軍事力で東を維持し続けられるとしても、
経済的に面倒を見切れるかが問題だ。ゲリラ、農民、工場労働者の生産意欲の減退、
消極的なサポタージュ-そういった要因も生産を阻害してゆくだろう。
東パキスタンに対するきびしい
武力弾圧と、選挙で過半数を取ったアワミ連盟禁止で、ヤヒア政権は西欧諸国から
ソ連圏にまでそっぽを向かれた。「内政干渉するな。援助は頼まない』とみえをき
ってはみたものの、アメリカを中心に西欧諸国に依存してきた経済はたちまち行き
話まった。アメリカの意向を反映する世銀、つまりパキスタン債権国会議諸国が、
東の政治解決案を提示するまでは金は出せないという態度に出た。これに対してパ
キスタンは五月一日以降支払い期国のくる債務は六か月間支払えないという通告を
一方的に西欧、ソ連にしたため、日本などは輸出停止で報復せざるをえなかった。

頭にきたパキスタン政府は、新聞で日本などの援助姿勢を攻撃し、唯一の理解のあ
る国として中国をたたえた。しかし、中国も戦略上、パキスタンを重要視しても、
ベンガルの民族解放闘争をまったく見殺しにもできないし、破産状態の経済を丸が
かえするカもない。窮したヤヒア大統領は経済顧問アマド氏をワシントン、ニュー
ヨークに派遣して頭を下げざるを得なかった。これとタイミングを合わせ外国人記
者団を東に入れ、五月二十四日の記者会見では「二、三週間中に政治解快の構想を
発表する」と表明したのも、もっぱら
台所の要請によるものだった。これでようやく国連経由の緊急食糧、船舶援助はメ
ドがついた。
債権国会議も一応七月ごろ開かれる見通しになったが、その前提はあくまでも平和
的な政治解決案の中身による。ニュル・アミン元東州政府首相などの古い政治家を

かつぎだし、回教連盟などの反アワミ勢力と、アワミ連盟の転向組を結集した州政
府を東パキスタンにつくり、ブット元外相の人民党を主体とする西の州政府と協力
させるといったところが、ヤヒア構想のようだが、軍のカイライになることは命に
かかわるので、希盟者が少ないとう。
東ベンガル独立運動は、早晩起こらなければならない歴史の必然だったかもしれな
い。しかし、それを早めたのはヤヒア大統領だったといえるのではないか。大統領
は記者会見で西郷隆盛のような大きな顎を神経質にふるわせながらな□った。
「私ほど東パキスタンのためを考えたものがあるか。みんなが疑った一人一票制の
民主選挙の公約を果たしたではないか」。
だが、この選挙ほど政治家としての大きなミス、判断力の欠如を告白したものはな
い。パキスタン軍部は一九五八年政党政治の乱脈にあいそをつかして、政治に直接
接介した。アユブ・カーン前大統領は西欧式直接選挙を廃止し、村落レベルの政治
を重視する間接選挙を編み出した。しかし結局、民主主義を要求するアワミ連盟や
ブット派のために倒された。
あとを継いだヤヒア大統領は政党の要求をいれて西欧並みの民主選挙をやったが、
それは西と東の民族的対立を表面化させ、国家統一に決定的な日々を入れてしまっ
た。藪へビをつついてヘビを出し、あわてて殺そうとしたヘビは隣の国からかま首
をもたげて、じっと狙っているといった図式である。振幅が激しく一貫性に乏しい
軍人ヤヒア大統領は、きわめて高度の政治力を要求される局面を迎えている。
(ダッカ・阿部特派員)


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