弁当日記

ADACHIの行動記録です。 
青年海外協力隊で2006年4月からバングラデシュに2年間住んでました。

バングラデシュのニュース(2019/09/23) その1

2019年09月23日 | バングラデシュのニュース

9/28,29に東京お台場でグローバルフェスタが開かれます。
バングラデシュに関係する団体も多数参加しますので、ご興味のある方は行ってみてください。
日比谷公園ではなく、お台場なのでご注意ください。

残念ながら今年は2日間とも不参加です。すみません。


◆イベント情報◆
〇バングラデシュ人材育成交流セミナー (9/24)
 http://www.ipm.or.jp/ipmpdf/20190924bangladeshseminer.pdf
〇グローバルフェスタ2019 (9/28,29)
 http://www.gfjapan2019.jp/

■見出し(2019年9月23日) No2019-40
〇渡部清花 難民は「難しい民」なんかじゃない。
 みんなが“自分らしく”暮らせる社会をつくる。
〇~バングラデシュからの「ユーグレナGENKIプログラム」レポート~
〇山口絵理子が24→38歳の苦闘で掴んだ経営哲学
 マザーハウスが社会貢献しながら成長する理由
〇原発を続々輸出、ロシアの狙いはどこに 元ロスアトムの専門家に聞いた
〇JERA 日本企業初のバングラの火力発電事業に参画
〇起業支援へ実践型講座、体験通じノウハウ習得 沼津
〇簡易水処理システム「アクアタブズ・フロ」の発明が子供たちの命を救う
〇ファストリ、ILOと連携 アジアの労働改善を支援
〇BJITが、「信州ITバレー構想」の実現に向けてシソーラスと業務提携 
 長野市善光寺門前に合弁会社「nicolab」を設立
〇アジアの高校生、ごみ問題を議論 静岡聖光学院中高「サミット」
〇「世界一住みやすい都市」ウィーンが2年連続首位、大阪は4位
〇バングラデシュ⼈看護師の研修を受入れ
 JICA「看護サービス⼈材育成プロジェクト」の⼀環
〇雨水を生活用水に変えるシステムを考えた“雨水博士”の新たな使命
 株式会社天水研究所代表取締役 村瀬誠さん
〇そのカツラの毛 誰の髪か知っていますか?
〇死者千人超、アジアで最悪のデング熱流行 気候変動で世界に拡散
 <下川裕治の旅をせんとや生まれけむ>
〇バングラ警察官、レイプ被害女性に主犯の男との結婚強要 懲戒処分に
〇サッカー、日本が第2戦に大勝 U―16女子
〇「何度でも挑戦できる世界」の実現へ本場バングラディシュの絶品カレー!
 「りきまるバングラディシュカレー」が新宿に移転オープン!
〇北朝鮮高官、バングラデシュ政党代表団と懇談

■渡部清花 難民は「難しい民」なんかじゃない。
 みんなが“自分らしく”暮らせる社会をつくる。
 https://wired.jp/waia/2019/04_sayaka-watanabe/
 (WIRED 2019年9月20日)

日本に住んでいると「難民」と呼ばれる外国人に出会う機会は少ない。政治的理由や紛争
、人権侵害によって迫害の恐怖を感じ、自国から逃れざるを得ない難民たち。世界的に見
ると日本の難民認定率は低く、2018年に難民認定申請の手続きがされた数は13,502人。こ
のうち難民と認定されたのはわずか38人にすぎない。認定されなかった1万人以上の外国
人は、いったいどうなるのだろうか──。こうした宙ぶらりんな立場に置かれた人々が「
当たり前」に「自分らしく」暮らせる社会をつくるべく、NPO法人のWELgee(ウェルジー
)を立ち上げた大学院生の渡部清花は、今日も奔走している。

渡部清花は取材中、ずっと屈託のない笑顔だった。日本にいる難民たちの活躍機会をつく
るNPO法人WELgeeを立ち上げた彼女の活動を振り返ると、目を背けたくなるようなつらい
場面にもたくさん遭遇してきたはずだ。しかし、それすらも吹き飛ばすほど、彼女はパワ
フルだった。難民に寄り添う活動を続けている渡部の原点は、自身の育った家庭環境にも
ある。

──日本にいる難民たちとかかわる活動の内容についてお聞きしていると、さまざまな境
遇の人たちにわけ隔てなく自然に接している様子が伝わってきます。こうした姿勢の原点
は、実家の両親がNPOとして活動されていたことにあるそうですね。

はい。両親がNPOを設立して、家庭の暴力から逃げたり、学校に行けなくなったりした子
どもたちの“居場所”をつくっていたんです。そこではルールがないのがルールみたいな
感じで、自分で火を起こしてもいいし、木に登ってもいい。年齢も成績も関係ないし、帰
りたくないならそれでいいし、学校に行きたくないなら行かなくていい。子どもたち誰も
が「そのまま」でいられる場所でした。

WIRED Audi
INNOVATION
AWARD 2018
優れた発想力と革新によって「新しい未来」をもたらすイノヴェイターたちを支えるべく
、『WIRED』日本版とAudiが2016年にスタートしたプロジェクトの第3回。世界3カ国で展
開されるグローバルプロジェクトにおいて、日本では世界に向けて世に問うべき"真のイ
ノヴェイター"たちと、Audiがもたらすイノヴェイションを発信していきます。

大学時代を過ごした浜松での経験も大きかったですね。浜松には日系ブラジル人やペルー
人、フィリピン人など、外国の人がたくさんいるんです。居酒屋でのアルバイトのあとに
遊びに行った場所で、16〜17歳くらいの日系ブラジル人の子たちと知り合ったのですが、
彼らは学校に行ったことがないというんです。というのも、親が「どうせブラジルにいつ
か帰るから、学校に行かなくていいよ」と言う。そうすると、行政側も気にしない“見え
ない”存在になってしまうんですね。教育を受ける権利はあるけど義務はない。自分との
大きな違いを知りました。

大学では多文化共生論や国際労働力移動論などを勉強していたのですが、そういった話は
授業では教わらない。「ダイヴァーシティ」を言葉として言うのは簡単だけれど、実際は
一筋縄ではいかないんですよね。可能性と難しさの両方を生で知る経験ができました。

──そうしたなか、大学時代にバングラデシュを訪れたことが転機になったと。

はい。大学は6年かけて卒業したのですが、そのうち2年間はバングラデシュにいました。
大学3年生のとき、ゼミでバングラデシュの首都の近くの村に5日間のフィールドワークに
行くことになったんです。でも、どうせバングラデシュに行くなら首都ではなく、その国
のマイノリティに会いたいと思ったんですね。

そこで、インターネットで「バングラ マイノリティ」で検索して出てきたのが、チッタ
ゴン丘陵地帯という元紛争地でした。ここは1997年、わたしが幼稚園に通っていたころに
紛争が終わったはずでしたが、いまでも村の焼き討ちや女性のレイプが続いている場所で
す。

このチッタゴン丘陵地帯には、わたしがともに暮らしたチャクマ族を含む50万人の先住民
族が暮らしていました。独立戦争が終わり、貧困と人口爆発の中でカオス状態だったバン
グラデシュでは、政府が1970年代から80年代にかけて「家がない・土地がない・金がない
」という人たちを大量に“入植者”としてこの地域に送り込みました。開発という名の下
に入ってきたこのプロジェクトには、国際機関や外国の援助も入りました。それ以来、土
地の権利などを巡る紛争が続くようになったのです。入植者の背後には軍がいて銃がある
ため、自分たちの存在を守るために立ち上がった先住民族たちとの25年のゲリラ戦が続き
ました。表向きは停戦したいまも、不安定な状況です。

──そんな危険とされる場所なら、おそらく周囲の反対も大きかったと思います。どうや
って実現させたんですか。

先生に相談しても、フィールドワークでゼミ生を連れていくには危険すぎると反対されま
した。それにパスポートとビザだけを用意してもダメで、その地域に入るにはバングラデ
シュの内務省が発行する外国人特別入域許可証を持って行かなくてはならないんです。そ
れでもどうしても行きたくて、現地のNGOにつないでもらったりして何とか入域許可証を
とって。そしてゼミのみんなが5日間のフィールドワークを終えて日本に帰っていくのを
空港で見送り、「よっしゃあ、行くぞ!」と、ひとりで行ったわけです。

──実際に現地に行ってみてどうでしたか。

まず最初にNGOに所属しているチャクマ族の方と首都で落ち合って、現地に連れて行って
もらう約束をしていました。そして12時間もバスに揺られて着いた場所は、まるで日本の
農村みたいな景色だったんです。のんびりと牛が歩いていて、農村のお茶屋さんではおば
あちゃんたちがお茶を飲んでいて、竹タバコを皆で吸っていて。「あれ、紛争はどこ?」
という感じでした。97年に紛争は終わっているはずだし、平和になったならそれはよかっ
たな、と思っていました。

ところが帰国前日になって、少し先にある町で先住民族と入植者との衝突が起きたんです
。けが人がたくさん運ばれて、迷彩服で銃を持った(バングラデシュの大半を占める)ベ
ンガル人たちの軍がたくさんいました。戦車でのパトロールが始まり、ついには戒厳令が
敷かれて…。わたしは顔がチャクマ族によく似ているので、「あんたも外にいたら捕まる
から…」と家に隠れることになりました。

でも日本に帰らないといけないので、いちばん偉いお坊さんが「軍と警察に特別に話をし
たから、指定されたクルマで村を出なさい」と話をつけてくれて。外国人だから特別扱い
で、用意された投石で窓がバリバリに割れたマイクロバスで村を出ました。

──普段は平和に暮らしているなか、いきなり紛争状態になるわけですね。

はい。のどかな農村の風景だったはずが、軍がパトロールするなか負傷者がたくさん出る
状況に一夜にして変わってしまう。紛争地は常に紛争をしているわけではないんだ、とい
う事実を肌身で感じました。

パレスチナのガザ地区だって毎日が空爆ではないし、シリアだってそうです。そこにはパ
ンを買いに行ったり、学校に行ったりする人たちがいて、人間の営みがある。だけど、そ
れを分断されることがあるんです。

お世話になったお坊さんにお礼を言ったら、「This is the life(これが人生だ)」と言
われました。子どもたちが急に学校に行けなくなったり、昨日まで平和だった村に軍が攻
め入ってきたり……。それを“人生”だと受け入れるしかないのだなと思いました。

──そうした現実はメディアでは報道されないですよね。

はい。わたしが体験した日のことも、日本語のニュースにはなりません。なぜかというと
、わたしたちが勉強している国際関係論などの教科書では、すでに「紛争が終わった地域
」だからなんです。

いま国際社会では、最も大変なのはシリアやアフガニスタンといった地域だと考えられて
います。バングラデシュは紛争終了を宣言して和平協定を結び、首相はユネスコ(国際連
合教育科学文化機関)の平和賞をもらいました。でも、戦争は終わったはずなのに、まだ
死んでく人たちがいるということを、わたしは知らなかった。

きれいな開発について書いてある教科書は勉強したけれど、そこでは「人」が見えていな
かった。メディアがつくった歴史しか見てこなかったなと思って……。帰りの飛行機の中
で「また戻ろう」と心に決めて、日本に帰ってすぐに休学届を出しました。

──そのままチッタゴン丘陵地帯に戻ったのですか?

はい。現地に戻ってからはNGOでボランティアをしたり、先住民族の子どもたちの教育支
援のために日本の教育里親を探したりしていました。最終的に18人くらいの子どもたちを
、教育里親さんとつなぐことができました。

でも……紛争は終わらない。また同じこと起きるし、きっと人も死ぬ。NGOがどんなに頑
張っても、アクティヴィストがどんなに頑張っても、活動を休止させられてしまう。だか
ら、本当に意欲のある人たちは出て行ってしまう。

NGOには1年間いて学んだことはたくさんありましたが、これだけでは変わらない。そこで
、国連ならもっと違うアプローチができるはずだし、違う紛争解決の道も考えているはず
だ、もっとレイヤーが高い長期計画でこの地域のその紛争解決と平和構築がプログラム化
されてるだろうなと思い、現地の国連開発計画(UNDP)で働いてみることにしました。そ
れが2年目の休学になります。

──なるほど。もう少し上のレイヤーからであれば本質的な課題解決につながるだろうと
考えて、その役割を国連に期待したと。

はい。でも実際の国連の活動では大きなクルマに乗って移動するし、調査に行くときには
銃を持ったセキュリティも付いてしまう。先住民族のおばちゃんたちのコミュニティの調
査に行くのに、入植者と同じ顔をした男性のセキュリティポリスが銃を持ってきたら、誰
も話をしてくれないわけです。

平和をつくるためのプロジェクトなのに、そういう矛盾をたくさん見ました。「平和」と
名がつくプロジェクトの実施は難しいと途中で中断になったり、本質に触れる活動はなか
なか進まなかった。教育や農業のプロジェクトは進んでも、憲法と和平協定のすり合わせ
や、人権のプロジェクトは頓挫する……。

国連と聞くと、何でも解決してくれるように思いますよね。国よりも強いイメージ。だけ
ど国連は国家の集合体でしかないので、ある国家のなかに入ってプロジェクトを行うよう
なときには、立場は国家よりずっと下なんです。実際に目にしたことと、社会において大
人たちや国連がつくっていると思っていた仕組みとは、まったく違っていると思いました

──そうした消化不良な気持ちを抱えながらバングラデシュで2年間を過ごし、日本に帰
ってきたと。

そうですね。モヤモヤしながら帰ってきました。卒論は2年間いたバングラデシュのフィ
ールドで、「少数派の排除と民族対立が存在する地域において 開発活動当初のプライオ
リティーが変化していく領域と過程について」をテーマに、10年分の国連開発計画の開発
を分析したものを書きました。

帰国してから、「国家が守らない国民は終わりなのか」とずっと考えていて、そのときに
「Human Security(人間の安全保障)」という概念に出合いました。国家の安全保障とい
う伝統的な考え方の反対側にあるものではなくて、それを補完するものだと知り、腑に落
ちました。

国家の安全保障とは、“外敵”から国を防衛力で守ることです。でも、防衛力を高めても
解決しなかったのがチャクマ族のエリアでした。国家の安全保障だけでは人間は幸せにな
らない。それを勉強したくて東京に行きました。

──そしていまも東京大学の大学院生として学びながら、難民支援の活動を続けているわ
けですね。同じマイノリティとはいえ、これまでは接点がなかった人たちだと思います。
支援に取り組むようになったのは、どんなきっかけがあったのでしょうか。

はい。大学院に入学はしたのですが、バングラデシュにフィールドワークに行こうとした
ときに、首都のダッカでレストランが襲撃される人質テロ事件が起きて、7人の日本人が
殺されました。このため入国ができなくなってしまったのです。

どうしようかと考えていたとき、たまたまあるプログラムに参加する機会がありました。
それは世の中をテクノロジーでどうにかしたい、社会課題の新しい解決法を考えたいとい
う学生起業家を対象としたプログラムで、「課題を掛け合わせることで課題解決のアイデ
アを提案しよう」というワークショップがありました。

そこでわたしたちは「難民×過疎地」というテーマで発表をしたら、会場が静まり返って
しまって。「犯罪が増えるんじゃないか」「そもそも日本人にだって困ってる人がいるよ
ね」「日本の法務省が難民を受け入れない理由をわかって言っているのか」といった声が
挙がり、「難民」という言葉が会場にいる人たちの“何か”を刺激して、すごく冷たい雰
囲気になってしまったんです。

──日本人は「難民」という言葉がもつイメージを掴みきれていないのかもしれません。

どうして「難民」という言葉がダメなのか……。そこで、ふと考えてみたら、チャクマ族
の村で一緒にいた人たちは全員が国内避難民なんです。思い返してみたら難民がたくさん
いた。というか、わたしは難民と暮らしていたんだと気づきました。

そして日本にもチャクマ族の人は来ていて、彼は日本で数少ない難民認定を受けている人
でした。でも、わたしにとっては「チャクマ族の仲間たち」だったから、それまでは「難
民」であることを意識していなかったんです。

わたしは彼に話を聞こうと、いつも通り友だちとカレーを食べに行って、そこで初めて「
難民ってどうなの?」という話を聞きました。認定されるまでの日々、収容されてたこと
も。

──収容されていたんですか?

はい。保護されると思ったら収容だったんです。一度、難民認定が不認定になってから、
収容の日々が続いたそうです。外から鍵がかけられて、言葉もわからない。そして1日1時
間しか檻の外に出られない。まるで刑務所みたいに鍵がかけられた空間で、国籍も言葉も
宗教も違う人たちと同じ部屋に入れられ、そこからいつ出られるか誰も知らないという。
無期限収容ですね。

結局、彼は日本の友人たちが署名活動をしてくれて、5~7年くらいで難民認定されました
。日本で認定されている極めて数少ない難民のひとりです。

日本に来て最初の数カ月は、すごく辛かったそうです。言葉はわからないし、住むところ
もない。不法就労だとわかっているけれど、働かなくては食べていけない。だから居酒屋
さんでお手伝いさせてもらって、床で寝させてもらっていたそうです。

──難民認定には時間がかかるわけですね。その間も、お金を稼がないと生きていけない

はい。わたしは「支援団体」「難民支援」と名のつく団体に、順に会いに行きました。た
くさん勉強になりました。でも、難民の当事者には会わせてもらえないんです。勉強会や
オフィス訪問やワークショップに行っても、誰ひとり難民に会えない。

だから、ホームレスの人を探しに行こうかなと思って、終電が終わった渋谷駅や麻布十番
の地下道に行きました。そこには日本のホームレスの人もいるし、外国人もいるんですね
。効率のよくない“難民発見隊”をひとりでやっていました。

──難民申請から数カ月は何も支援がないためホームレス状態になってしまうのですね。
実際に探し回ってみて、難民には会えましたか?

カトリック教会のボランティアの日本語教室で、ようやく数人に会えました。わたしが日
本語教員養成科を副専攻していたので、「日本語を教えられるなら教えてあげて!」と言
われて、急に難民に日本語を教えることになったんです。彼らは年齢も近くて、自分のこ
とを話してくれました。「いつか国が平和になったら国の復興に携わりたい」とか、「女
の子たちが学校に行ける環境をつくりたい」と。「いまは路上生活だけどね」と言いなが
ら、いつのまにか友だちになっていきました。

──日本にきて路上生活をしている彼らを救いたかったということですね。

そうですね。でも、ただ支援しようと思って団体をつくったわけではないんです。難民た
ちが語る未来が本当に実現したら、社会や世界が、日本もずっとよくなるだろうなって思
ったから。アフリカから来ている難民たちと話していたときに、彼らは難民体験がわかる
、わたしは日本語や日本の人の感覚がわかるから「一緒にやろう!」という話になりまし
た。

わたしは法律の専門家ではないけれど、「友だちをつくりたいなら、わたし友だち連れて
くるよ!」みたいな(笑)。一緒にお好み焼きを食べたり、公園でサッカーしたり、富士
山に登ったり……。ロシア、コンゴ、カメルーン、アンゴラ、シリア、アフガニスタンと
、さまざまな国の人が集まりました。

彼らは内乱の祖国から日本に来て、言葉も話せないしお金もない。どうして日本に来たの
かという話も面白かったし、希望を求めて日本に来たのに自分の“活かし方”をわかって
ない人たちがたくさんいました。だからWELgeeの事業は、最初から「支援プログラム」が
決まっていたわけではなく、彼らとの対話のなかで出来上がっていきました。

──日本に来てみたものの、社会とのつながりをもつのが難しいわけですよね。

みんな「“入り口”がわからない」と言うんです。日本人はすごく親切で、けんかもなけ
れば紛争もない。だけど、それは日本人同士ではそうかもしれないけれど、外国人にはそ
こへのドアが開かれない。灰色の大きな壁の周りをぐるぐる歩いているみたいな気持ちだ
と言っていました。

確かにわたしも高校まで日本人しかクラスにいなかった。クラスに目の見えない子もいな
かったし、クラスに半身不随の子もいなかった。それなのに大人になってから「電車では
目の見えない人に親切にしましょう」と言われても、声のかけ方も全然わからない。障が
いがある子どもたちは、うちの実家にはよく遊びにきていたので、わたしは偶然なんの抵
抗もなかった。それと同じ。一緒にいるつもりの社会のなかですごく分断されているから
、“架け橋”をつくれたらと思いました。

──いまの活動でも、こうした課題をどう突破していくかが鍵になると思います。実際に
最近はどんな活動に取り組んでいますか?

いまは就労伴走事業をしています。例えば医療に携わりたいとなれば、ほかにもいろんな
方法はありますが、日本人なら医学部に進学したりするわけです。そして国家試験を受け
る。でも難民として来た人が、たとえ祖国で医師免許をもっていたとしても、日本でそれ
は使えない。大学に再び通い、日本語で国家試験を受験するなんて果てしない。でも、国
家資格がとれなくても公衆衛生を大学院で学ぶ方法もある、とアドヴァイスできますよね
。だからわたしは彼らと社会をつなげていきたくて。その先にあるのが「働く」というこ
とでした。

パレスチナのガザから来た人が「生きることは働くこと。それなのに体が“生きている”
だけで、何もしてはいけない、何もできない日々は、体は生きているけれど心は死んでい
く。だから働きたい」と言っていたんです。彼は、かつて看護師をしていた人でした。

──外国人が、しかも難民申請をしている人が日本で就職するのは確かにハードルが高そ
うです。

日本企業で働く外国人の労働市場において重視されるのは、「日本人っぽいコミュニケー
ションがとれるか」「より空気が読めるか」です。でも、彼らの魅力はそこではなかった

外国人は日本に来て8カ月が経つと就労許可が得られるので、普通に働くことができるよ
うになります。でも実際のところ、8カ月ずっと路上で寝ていたり、生き延びるために知
り合いの家をただ転々としていたりした人が、「はい、就労許可です」と言われても、自
分のバックグラウンドを活かした仕事の探し方もわからない。社会と接続することができ
ないのです。

一方で、日本では単純労働だったらいくらでも仕事がある。もっというと、労災も効かな
いようなアングラの市場はたくさんある。でも、そこで働くと、いまの路上は脱出できる
けれど、来月の電気代を払うためだけに働くことになり、ワーキングプアから抜け出せな
くなってしまう。「本当にやりたいことなんだっけ」「この先、何があるんだっけ」とな
ってしまう。そうならないために、彼らが“自分らしく働ける”方法を考えなければなら
ない。

──ただお金を稼ぐためだけではなく、外国人が日本にいても“自分らしく”働けること
こそが重要であると。そのために支援活動を続けているわけですね。

そうですね。そんなとき、たまたま27歳のアフガニスタン人と出会いました。彼は新宿駅
でホームレスをしていたので、「寝袋あるけどオフィスに来る?」と誘ったら、そのまま
オフィスに6カ月くらい住むことになって(笑)。彼に「この先やりたいことってなに?
」と聞いたら、「アフガニスタンでは、タリバン政権下で多くの女の子が学校に行けなく
なってしまった。でも地域をつなげ直すのは教育だから、オンラインで学べるようにした
い」と話していました。

よく聞いてみたら、もともとデザイナーの仕事や中国語の一級通訳士をしていた人で、プ
ログラミングをやったことはないけれどすごく興味があると言うんです。そんなとき、シ
リコンヴァレーで起業したわたしの友人が、たまたまWELgeeの集まりに参加しました。彼
は「英語を話せる人を探していて、ゼロからプログラマーを育てる気がある」と言って人
材を探していたので、お互いのニーズが合ったんです。

──彼のことを「人材」と見て、受け入れたのですね。

彼は採用選考の宿題を死に物狂いでこなして、「根性あるな!」と評価されて、会社の寮
に入ることができました。半年後にインターン就業期間を経て正式採用になり、いまもそ
の会社で働いています。そして今度は彼が次の人たちを育てようとしているんです。

──なるほど。そうして彼が次の難民のために動くことで、つながっていくと。

はい。母国で身も心もボロボロになって、せっかく日本に来て希望をつないだけど、また
ボロボロになってしまう──。そうならないように、こういった事例をたくさんつくりた
いなと思いました。

わたしは「難民支援団体が支援します」というものだけではなく、人々がもともともって
いる「よさ」を引き出したり、発見したり、発掘したりして、それがさらに回っていく仕
組みができたらいいのかなと思っています。

難民申請しても今後の見通しがつかない人々にとって、日本で働くために何をしたらいい
のか、寄り添ってくれる存在は本当にありがたいですよね。

わたしが彼らに出会えたのは、出会う“場所”があったからなんです。だから就職という
“出口”も大事だけれど、“入り口”もつくらなくてはならない。その入り口として「
WELgeeサロン」をつくりました。毎月開催していて、今月で30回目です。

サロンには留学生もいるし、難民の人もいる。そして“難民支援”のための場所ではなく
、フラットに、個人として、友だちをつくる場所です。だからそういう場所にたくさん人
が来て、いざ困ったときに電話ができる関係の友だちが増えていくといいですよね。

──入り口から出口までサポートできるようにしているわけですね。この先、これからど
のように活動を発展させていきたいですか。

わたしは“難民支援”がしたいというよりは、血管が詰まってしまっている社会が活き活
きと動き出すようにしたいんです。もっとなめらかで、人がいきいきしている社会。「自
分が自分でいい」と言い切れる日本人の若者も増えていってほしい。

日本の若者は「社会」の話をするのが格好悪いと思っています。例えばカメルーンの若者
たちは、「自分がいつか社会で」と、自分を主語として語ることができる。でも日本では
、なかなかそうではない。

難民の友人たちから学ぶことはたくさんあります。WELgeeサロンは月1回開いているので
、ぜひたくさんの人に遊びに来てほしいですね。

 

渡部清花 SAYAKA WATANABE

NPO法人WELgee代表。1991年、静岡県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科国際社会科
学専攻、修士課程。専攻は人間の安全保障。静岡文化芸術大学卒業。大学時代は国連開発
計画(UNDP)インターンを経て、バングラデシュの紛争地でNGOの駐在員として1年滞在。
帰国後、日本に逃れてきた難民との出会いからWELgeeを設立し、難民が仕事に就くまでの
伴走を行う「就労伴走事業」や、難民の講師からグローバルリアリティを学ぶ「セミナー
事業」などを展開している。

 

■~バングラデシュからの「ユーグレナGENKIプログラム」レポート~
 https://www.euglena.jp/genki/report/report_65.html
 (株式会社ユーグレナ 2019年9月)

2019年8月の活動報告
~IT教育を推進する学校の紹介~
株式会社ユーグレナ
事業開発部 / バングラデシュ事務所

今期(2018年10月~2019年9月)のユーグレナクッキー配布目標210万食(2019年7月に修
正)に対し、8月までに約192万食(進捗率:91%)を配布しました。

1.IT教育を推進する学校の紹介
IT大国インドの隣国であるバングラデシュでは、政府主導で「デジタルバングラデシュ」
の政策を進めており、先進国のIT人材の不足を補う優秀なIT人材の育成に力を入れていま
す。しかし、スラム街にあるGENKIプログラム対象校の多くでは、子どもたちが学習する
ためのパソコンは設置されていません。そんな中、SSKS小学校では、校長がデジタル化の
進む同国においてパソコンの使い方を学ぶ必要があると考え、2016年7月から他校に先駆
け独自でパソコン教室を始めました。現在、学校には学習用のパソコンが6台あります。
これは校長が、使わなくなったパソコンを知り合いの学校関係者から無償で譲り受けたも
のです。このパソコン教室はパソコンを使える先生が放課後に週に1回、1時間、3ヵ月間
に渡り実施しています。当初は、外部から講師を招き授業を行っていましたが、現在はパ
ソコンの使い方を習得した先生が教えています。
 同校には1年生から5年生まで約400人の子どもたちが通っていて、校長がパソコン教室
の募集をかけ、興味を持った子どもたちが参加しています。これまでパソコンを触ったこ
との無かった子どもたちは、まずタイピングやインターネットの使い方を学び、その後ワ
ードやパワーポイントを使って資料を作成したり、専用のソフトウェアで絵を描いたりし
ます。授業料は1人月200円で、同校の子どもたち以外に、他校の子どもたちも同価格で授
業を受けられます。
 パソコン教室を開始してから約3年間に、計105人の子どもたちが授業を受けました。先
生は、パソコン教室を継続するため、近隣の小学校の先生にも声がけするなど生徒募集を
行っています。
 パソコン教室を卒業したある子どもは、小さな頃から絵を描くことが好きだったため、
色彩豊かなペイントのソフトウェアを使って、パソコンで絵を描くことができるようにな
ったことに喜びを感じているようです。

2.家族と離れ学校の寮で生活するパルベスくんの紹介
今月は、家族と離れ学校の寮で生活しているパルベスくんについて紹介します。パルベス
くんは、GENKIプログラム対象校であるバウニアバス・イスラミヤ・マドラサ学校に通う
小学校1年生(8歳)です。4歳の頃にお父さんを病気で失くしました。その後お母さんは
再婚し、義理のお父さん、お母さん、4歳の義理の妹、パルベスくんの4人家族になりまし
た。複雑な家庭環境から、パルベスくんは首都ダッカから南に約250km離れた港町である
チッタゴンに住む家族と離れ、ダッカにあるおじいさんとおばあさんの家で暮らし始めま
した。バングラデシュでは、掃除機ではなくほうきを使い清掃するのが一般的で、おじい
さんは、藁からほうきを作る仕事をしています。おじいさんは、この仕事で14,000円の月
収を得ていますが、ダッカスラム街の平均月収は約20,000円であり、おじいさんはパルベ
スくんの生活・教育費を捻出することが難しい状況でした。
 そのため、パルベスくんは寮がある「マドラサ」と呼ばれる敬虔なイスラム教徒が通う
学校に転校しました。通常の教育課程に加えて、毎日イスラム教の聖典コーランをアラビ
ア語で勉強します。非常に貧しい子どもたちは、無料で学校内にある寮に住むことができ
ます。パルベスくんも、寮で暮らし、授業料も免除されています。パルベスくんは週末、
寮から約10分離れたおじいさんとおばあさんの家に帰り、ほうき作りを手伝います。お父
さん、お母さん、妹に会えるのは夏休みなど長期休暇時のみです。パルベスくんは「友達
と共同生活をすることは楽しいけれど、家族に頻繁に会えないのはとても寂しい。いつか
みんなと住めるようになりたい」と話をしてくれました。

3.学校での清掃習慣の違いについて
皆さんは、日本の小学生が清掃や給食の配膳をする風景を撮影した動画が海外で話題とな
ったことをご存知ですか?私たちにとっては当たり前の風景ですが、世界を見渡すと日本
のように子どもたちが掃除をする国は約4割、清掃員が掃除をする国は約6割で、少数派で
す。バングラデシュでも、清掃員が清掃をするのが一般的です。しかし公立学校をはじめ
、子どもたちが清掃する学校が少しずつ増えつつあります。
 GENKIプログラム対象校のある小学校では、子どもたちが主体となり「学校清掃プログ
ラム」を行っています。校長自ら校長室を清掃し始めたことがきっかけで始まりました。
月に2回、清掃員が子どもたちに清掃の仕方を教え、校内及び学校の周りを清掃します。
この取り組みの目的は、学校を自ら清掃することで身の回りのものを丁寧に扱うこと、1
つのことを友達と協力してやり遂げる協調性を養うことを目的としています。この取り組
みにより子どもたちは、身の回りを清潔にすることの大切さを学び、自宅でも進んで清掃
をするようになったと言います。また、清掃の仕事の大変さを知り、今まで以上に清掃員
に対する感謝の気持ちを持つようになりました。一方、子どもたちに掃除させることに否
定的な学校もあります。ある学校では、親から「子どもに労働をさせている、清掃員の人
件費削減にすぎない」いった声が挙がり、子どもたちによる掃除の実施に向けた動きが足
踏みしています。このように私たちにとって当たり前である子どもたちによる清掃も、世
界中ではさまざまな考え方があり、当たり前ではないことがわかります。

引き続きご支援をよろしくお願いいたします。

 

■山口絵理子が24→38歳の苦闘で掴んだ経営哲学
 マザーハウスが社会貢献しながら成長する理由
 https://toyokeizai.net/articles/-/301257
 (東洋経済 2019年9月6日)

今年8月で38歳になった山口絵理子は、「起業した13年前といちばん変わったことは?」
という質問に一瞬考え込んだ後、こんな言葉を切り出した。

「利益が上がったことですね」

バングラデシュへ単身で渡り、2006年3月に24歳でマザーハウスを起業。「途上国から世
界に通用するブランドをつくる」をビジョンとして、マザーハウスは現在6カ国の途上国
でバッグやジュエリー、アパレルなどをつくり、日本国内外の計38店で販売している。

学生時代の山口は途上国におけるビジネスを国際協力という観点で捉え、経済やビジネス
にはどこか嫌悪感を持っていた。でも、それでは現実は回らない。会社が工場の設備を増
強させたり、商品のバリエーションを広げようとしたりすれば、本業でしっかりとお金を
稼ぎ、各所に投資していかなければならない。

利益を出すからこそ、国際貢献ができる

山口はこの13年間、さまざまな苦難に見舞われながらもビジネスを回し、会社を成長させ
てきた。売り上げを右肩上がりに伸ばし、今では日本で約200人、グローバルで約600人の
スタッフを抱える。マザーハウスの商品は、百貨店に入る高級ブランドと比べても遜色な
いデザイン性や品質が評価され、例えば祖業のバッグは男女問わず幅広い世代に人気があ
る。

「会社を経営してちゃんと利益を上げることで、自分が目指すものを満足のいくところま
で追求できるようになりました。工場の設備の質が上がり、モノがよくなっていくという
実体験から、思考や可能性が広がり、『利益はいろんなことにチャレンジするために出す
』ということが腑に落ちました。利益を出すからこそ、国際貢献ができると思うようにな
ったのです」

山口は今年8月、5冊目の著書『Third Way(サードウェイ) 第3の道のつくり方』を上梓
した。

もともと著作やブログなどを通じ、自らの情報発信にも積極的な経営者だ。1~3冊目の著
書『裸でも生きる』シリーズは自身の人生の体験談をドキュメンタリーのようにまとめ上
げ、各方面から反響を得た。

一方で、「『裸でも生きる』シリーズは、『頑張ればなんとかなる!』というような情熱
的な精神論に受け取られましたが、実際のビジネスにおいて13年利益を上げ続けて600人
のスタッフ数ともなると、情熱だけではやっていけません」(山口)。

男と女、右と左、西と東、先進国と途上国、都市と農村など、世の中にはほとんどすべて
のものごとに2つの軸、言葉を変えれば表と裏がある。これらは両極にあり、時に反発す
る。いわゆる二項対立だ。

例えば、目の前にAとBという対立する、まったく異なる2つの選択肢があるとする。それ
に対して山口は、「相反する2軸を掛け合わせて新しい道を創造する」というスタンスで
臨む。

「その場合、私たちはどちらか一方を取るか、または中間地点としての選択肢Cを見出そ
うとしてきたと思う。選択肢Cは、多くの場合『バランスを取る』ことであり、ある意味
では『妥協点』でもあり、ある意味では『最適解』と呼ばれることもある。

私が提示するサードウェイは、そうではない。AとBのいいところを組み合わせて、新しい
ものをつくる。そして、ときにAに寄ったり、Bに寄ったりしながらも、らせん階段をのぼ
るように上昇させていく」

(山口絵理子著・『Third Way(サードウェイ) 第3の道のつくり方』より)

山口はこれを「サードウェイ(第3の道)」と定義し、本書には山口が築き上げてきた哲
学と実践的な思考法が、彼女らしい言葉で詰まっている。実際、山口はマザーハウスを経
営するにあたって「先進国と途上国」「社会性とビジネス」「大量生産と手仕事」「経営
とデザイン」などといった対極にあるものの、いずれか一方を選んでいない。

お客さんと作り手の両方に笑顔を

マザーハウスの事業計画を立てていた24歳の頃、山口はお客の笑顔と作り手の笑顔を同時
発生させることを考えていた。それは「社会性とビジネスの両立」と言えるものだったが
、周囲の経営者は「理想論だ」と切り捨てた。世間では「フェアトレード(※)でしょ?
 援助の一環でしょ?」とも受け止められ、起業当初は取材を受けても「あなたのカテゴ
リーはなに?」とフィット感がなかったという。

(※)フェアトレード=発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを
通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す運動

社会起業家の賞を数々受賞する中、自分の目指しているものが本当に伝わっているのか、
ずっと疑問に思っていた。しかし今では、バングラデシュなど現地の職人たちは高い収入
と充実した福利厚生という、最高水準の労働環境の中で働き、お客には「このバッグとて
も使いやすいね」という評価を得て、国内外に38店を構えたという事実がある。


「2つを同時に生かすことのメリットを掛け算しながらやってきたと思います。社会性と
ビジネスも本業でいかにソーシャルインパクトを出せるかということが、いちばんやりた
かったことです」(撮影:梅谷 秀司)

「今は、お客さまの7割が店舗の通りすがりですが、以前は応援してくださる7割がお客さ
までした。このように逆転しないとビジネスは成り立ちません。『モノで勝負して買って
もらう』ということが大事なのです。今では百貨店中心にお客さんができてきて、『バン
グラデシュでバッグが作られているなんて思わなかった』と言われるようになりました。

お客さまが笑顔になってくれることや、各地の工場を訪れるたびに職人さんが増えていて
、『よい家に引っ越した、携帯電話を持つことができた』と話してくれています」

“ローカルの力”というのは日本も含めて、職人技術のある手仕事の「伝統工芸」である

手作りのため大量生産は難しく、単価はとても高い。そしてなじみのない人に届くかとい
うことと、後継者不足が問題である。先細りゆく伝統工芸がありながら、どんなにすばら
しい技術があっても、持続可能が困難であることが現実だ。

現在マザーハウスでは、マトリゴールというバングラデシュの工場で、250人ものスタッ
フが月産1万個のバッグを生産している。それは現地ではバッグ産業だと5本の指に入る規
模だという。他工場との違いは何と言っても、「現地の素材と手作り」ということだ。

ライン生産で1万個というのは実現するのは簡単だが、手作りで1万個となると、それはも
う計り知れない。

「かつてのバングラデシュでは、モノづくりはコピー文化でした。中国と同じ“ある程度
”の品質のものを、いかに安く作れるかが勝負だったのです。しかし現在の自社工場では
、現地生産者のモノづくり意識が変わってきたのを感じています。

私が毎シーズンの商品開発を進めていくことにより、徐々に『モノを作るのは、ゼロから
コンセプトから作るんだ』という、“コピー”ではなく“オリジナル”のモノを作るとい
う意識を持つようになったのです。

例えば『今回は“夜空”というイメージでバッグを作ろう』とテーマを立てて、思考をめ
ぐらせるなど、デザインはクリエイティブな作業であり、『創造する力は、工場の1つの
武器である』ということを感じ取ってもらえるようになりました。このように、目には見
えない変化を感じています。

私は大量生産の工場から資源関係のノウハウや、効率性などのいろんなインプットをもら
ったのですが、それを人間の手を生かすために使ったらどうなるのかということを、自社
工場で実験してきました。そして、それがほかの国でどのように応用できるのかを6カ国
で試行錯誤してきました。それは『大量生産×手仕事』という掛け算だったけれど、『デ
ザイン×経営』という意味でも同じです」

「感性」を経営に、「経営感覚」を感性的な活動に

山口は「代表取締役社長」でありながら、マザーハウスブランドの「チーフデザイナー」
を務める希有な存在でもある。

2つの肩書を持つ山口の中には、つねに「経営とデザイン」「ロジカルとクリエイティブ
」という対極にあって、ケンカしやすい2つの立場が同居しているという。

「管理みたいなことをやるべきだと思いつつ、できなくて今に落ち着いているというのが
正確かもしれません(笑)。人事や評価など、一生懸命考えていた時期もありましたが、
戦略的思考は副社長の山崎大祐に任せています。

経営者は自分じゃないほうがいいかと考え、商品開発担当に徹しようと思ったこともあり
ます。しかし今、その2つの肩書で居続けているのは、モノづくりのゴールは売ることで
あり、モノを売るとなったときに経営の要素は大事だということに気がついたからです」

よいものを作ったからといって売れるわけではなく、お客に届けるまでの動線をきれいに
引くということがなければ、売り上げにはつながらない。例えば出店立地を決めたり、店
に立つ人を雇ったり……。今までデザイナーとして手をつけない領域が、売れるか売れな
いかの要素を決定付けているといっても過言ではないだろう。

デザイナーの頑張りに報いるための経営

「デザイナーとして頑張れば頑張るほど、その頑張りが報われたいと思うと、経営は大事
であると一層思うようになりました。だから自分も経営に責任を持ちたいと思うようにな
りました。魂を込めて手仕事で作ったあと、この世界観を体現できるショップはどんなシ
ョップか……などそこまでつなげられないと、絶対立ち上がりません」

ラストワンマイルまでイメージして作れるかどうか。今までのデザイナーの定義だと、そ
こまで手をつけられず、発信で終わってしまう。

欧州のデザイナーは、店作りの根本的な考え方や方法論を提示する「マーチャンダイジン
グ」に口を出す人が多くなっている傾向があるが、日本は遅れているのが現状だ。経営に
デザインを取り入れ、商材と流通・生産と販売が成り立っていないといけない中で、その
橋渡し、全体調整を山口は担っている。

「どんな部署・ポジションであっても、経営とデザインのような対極にある思考を取り入
れる必要があると思います。私は自分の立ち位置は偏っているという前提にいつも立って
います。モノに集中するとすごくモノにこだわってしまうので、対極がどうしても見えな
くなってしまい、気づいたら単価が高くなってしまい、誰も買わないモノになってしまう
のです。

それは“商品”ではなく“作品”となってしまうという失敗がありました。店舗という現
場に立ったとき、やはりガンガン売りたいと思うと、現場感を味わうことはとても重要で
あり、モノづくりに生かされます。そこの行き来をしながら戦略をまとめる。往復にこそ
意味があり、どちらか1つではない。妥協を見つけるのではなく、掛け算がよいという考
え方をしていきたいのです」

ロスがたくさん出る革や生地を活用し、何か新しい発想を生み出せないかを考え、手作業
や人材育成、モノが売れることなどのスピード感から、適正店舗数の限界を理解し、利益
の出る経営ができる。経営だけをしていると規模の拡大を前提としてしまい、目的と手段
が入れ替わってしまうことはよくある。デザイナーの立場をも担うことで、プロセスを守
った“大事にしているモノづくり”ができる。

「かけ離れたものだからこそ、組み合わせてみよう。離れていた2つが出会ったことをむ
しろ喜び、形にしてみよう。これまで隔たりがあった溝を埋めて、新しい地を作ろう」

(山口絵理子著・『Third Way(サードウェイ) 第3の道のつくり方』より

山口の言う「サードウェイ」は2006年に24歳でマザーハウスを創業した当初ならば単なる
理想論に捉えられたかもしれないが、山口はこの13年で、「途上国からブランドをつくる
」という本来ならば相反する2つの要素の掛け合わせをその言葉通りに実現させてきた。

今や38歳の山口は、もはや意識高い系の若者が言いそうな単なる理想論を超えて、情熱を
現実のビジネスとして成り立たせるための哲学や思考を確立させ、脂の乗り切った円熟し
た経営者としての迫力を見せている。営利を目的にしても社会貢献はできる。本業で社会
貢献を達成することが、本当の意味での“社会起業”であることを山口は証明してみせて
いる。

マイノリティーがマジョリティーと対等に戦う

それぞれに優劣ではない“よさがある”ということを信じて、ほかにはないすばらしい個
性を見いだすことのできるそのパワーの源は、自身の原体験によるものであった。

「自分が抱いた仮説を、自分の人生で実験しています。それは、“お客さんも生産者も笑
顔でいられるか”とか、“マイノリティーの人たちがスポットライトを浴びられるように
する”など、形勢逆転の実験をやってみたいと思ったのが、マザーハウスでした」

小学生の頃、いじめられていて学校に行けなかった経験から、「マイノリティー」として
生きていたと山口は語る。

「バングラデシュに行って、自分の価値観が崩されました。人との優劣ではなく、生きる
ことに一生懸命の彼らに、多くのことを教わりました。途上国にはスポットライトを浴び
るべき人がたくさんいると思うのです。

数字の尺度ではなく、彼らの持っている個性や美しさが私の眼には強く見えています。彼
らは国際市場では超マイナープレイヤーなので、スポットライトの当たるステージに上が
ってきません。そんな彼らを引っ張り上げるのが、マザーハウスであり私の使命であると
思っています」

仲間の裏切り、人質テロ事件、国の非常事態宣言……。想像もつかないような困難の中、
どんなにつらく逃げ出したくなっても、山口は諦めず、続けてきた。

2019年夏、“Febric of Freedom自由をまとう布で、あなたを自由に”をテーマに、素材
や織りの開発から向き合って天然素材の新しい可能性を追求していく、“e.”(Erikoの
“e”)というブランドが立ち上がった。

インドやネパールに自社・提携工房をもつ“e.”のメイン素材は、手紡ぎ手織り生地のカ
ディである。手で1本1本紡がれた糸の「不均一性」は、生地の立体感という目に見える個
性だけでなく、空気を含む暖かさや通気性という機能性を兼ね備えているのだとか。

「“e.”は、私自身の主観を強く押し出した、手仕事の極みをいくブランドです。マザー
ハウスが大衆向けにあるとしたら“e.”は限定された世界観で、この掛け算をしたらどう
なるのかが、組織としても大きなチャレンジであり、今がまさに“総まとめ”をする時期
であると思いました」

その組織のまとめ方について、山口は「組織と個人」という二項対立にも目を配る。組織
が大きくなればなるほど、創業者の想いは組織の末端に届きにくくなるといわれる中で、
山口がいちばん心掛けていることは「つねにフラットでいること」だと語る。

「『最近どう?』と、友達感覚でスタッフに話しかけます。私自身、リーダーの自覚はな
いので、社長という感じではないですね(笑)。店舗のスタッフと世間話をしながら、今
何に困っているのか、生の声を聞いてコミュニケーションを取っています。その中で経営
について見直したほうがいいと思うことはすぐにアクションを起こします」

会社が目指している方向性を、アクションや言葉でまめに共有することで、組織と個人の
間にある溝はなくなっていく。組織の力に個人の力を掛け合わせて組織を動かしていくの
は十分可能であると、山口は語っている。

モノは、国を超えて愛される可能性を持っている

最後に著書の言葉を借りて、「あなたの人生が1つの物語だとしたら、クライマックスは
どこですか?」と聞いてみた。

「世界のいろんなものをフラットに“世界の土俵”にあげてみたいです」

山口の人生を懸けた実験のクライマックスは、近い将来に欧州で実施されるという。

「欧州で実験して『こんなコンセプトどう?』『こんな商品どう?』と途上国発のブラン
ドを世界の土俵に立たせたとき、無視されるのか、興味を持ってくれるのか。その思考の
転換を見てみたいです」

これまで彼女が進出してきたアジアの国々とは、まったく異なる強烈なプライドと伝統を
持つ欧州への進出。それはそう簡単なことではないだろうが、途上国の素材を磨き上げ、
職人たちと切磋琢磨して作られた商品が、欧州という新たな舞台で、世界の一流ブランド
と肩を並べる日は、そう遠い未来ではないと信じている。(敬称略)

 

■原発を続々輸出、ロシアの狙いはどこに 元ロスアトムの専門家に聞いた
 https://globe.asahi.com/article/12670100
 ( Asahi Shimbun Globe 2019年9月2日)

「核の夢 二つの世界」連続インタビュー①
世界一の原発輸出大国ロシア。国営原子力企業ロスアトムは政府と一体となり、資金支援
とセットで新興国などに積極的に原発をセールスしている。一方、欧米には、原発をてこ
にしたロシアの影響力拡大や、事故のリスク拡大への不安も広がる。ロスアトムで約20年
間働いた後、原子力コンサルタント業を営むアレクサンドル・ウバロフにロシアの狙いを
聞いた。(聞き手・構成=大室一也)
――なぜロシアは原発輸出に力を入れているのですか。

多くの国は自分の国に原発があればいいと思っており、特に発展途上国はそうだ。日本は
豊かで、例えば天然ガスを輸入しても、支払いは大丈夫だ。でも、アフリカやアジアのあ
まりお金がないような国は、輸入できるお金が十分でない。

水が少なく、日照が少ない国でも、生きるにはエネルギーが必要だ。原子力発電は60~80
年使える、頼りがいがあるエネルギーであり、世界的に需要がある。我々が銃を突きつけ
「うちの原発を造ってくれ」と脅しているとでも思っているのか。需要があるから、買い
たい国が列をなしているのだ。

原発大国ロシア
世界で最初に原子力発電による送電を始めたのは旧ソ連だ。1954年、モスクワから約100
キロ離れたオブニンスクで開始した。その後、社会主義陣営の旧東ドイツ、ハンガリー、
旧チェコスロバキア、ブルガリアなどに次々と原発を建設。91年にソ連が崩壊し、ロシア
連邦となったあとも原発の輸出に力を入れ、現在はバングラデシュ、インド、トルコ、ベ
ラルーシで計7基の原子炉を建設中。日本原子力産業協会によると、90年以降に主要国が
輸出した原発の数(建設中、計画中を含む)のうち、ロシアが最多の約4割を占め、世界
最大の原発輸出大国となっている。
 
――輸出に力を入れるのはロシア国内の市場が飽和状態だからですか。

昔は電力需要が増え続けると思われていたので、たくさん原発が造られた。でも需要が思
ったほどなく、電力が過剰になった。ただ、これは一時的な問題だと思う。今後は経済的
に非効率な原発も閉鎖されていく。10年、15年経てば、ロシア国内でも新しい原発が建て
られるようになるだろう。

今のロシアの原子力産業の主な課題は、(投入した以上のプルトニウムができ、それをさ
らに燃料に加工して使う)核燃料サイクルを完成させることだ。高速増殖炉は将来に不可
欠で、ロシア中部のベロヤルスク原発に、BN600、BN800が1基ずつ稼働している。日本の
高速増殖炉「もんじゅ」が廃炉となったのは、残念な結果だった。

――ロシアは原発の輸出先の国に政治的な影響力を強めようとしているのではないですか

過剰な評価だ。原発は大きなプロジェクトで、国と国の関係を良好にはするが、政治的な
影響力はそれほどない。もちろんロシアと輸出先の国との間で、政治家や企業の交流がう
まれる。一般人もそう。私も旧ソ連が原発を建てたブルガリアに友人がいる。チェコ、ブ
ルガリア、ハンガリーといった旧ソ連が原発を造った国々は現在、NATO(北大西洋条約機
構)加盟国だ。原発はこうした国々を親ロシアにできていない。

――原発輸出はインフラ整備から原子炉建設、燃料供給、廃炉まで長期間、場合によって
は100年近く金を稼げるビジネスになります。

いい質問だ。例えば私が原発を造り、あなたがお金を払ったとする。「ありがとう、さよ
なら」と言った後、あなたは米国の原子力企業ウェスチングハウスに原発の保全を依頼す
ることができる。市場経済だから、100年間その国が束縛されることはない。もちろん100
年間契約を続けたいが、約束してもらえるわけではない。競争は厳しく、我々も闘わなけ
ればならない。

国によっても事情は違う。日本の場合、原子力関係の企業が多く、レベルの高い専門家が
たくさんいる。中国もそうだ。ロスアトムが原発を建設しているバングラデシュのような
国なら、ゼロからのスタートになる。ロスアトムが人材を育成していくうち、専門家も育
つ。いつか彼らは「お世話になりました。原発を造ってくれて感謝しています。さような
ら」と言ってくるんじゃないか。日本もアメリカが技術を提供し、その後、人材が育った

――ハンガリーのパクシュ原発は増設を巡り、国内で反対も起きています。

6月に増設関連工事が始まった。パクシュには旧ソ連が造った原子炉が四つある。古いの
で2030年代に入ると廃炉になる見通しで、代わりに2基増設される計画だ。オルバン首相
だけでなく、どの政党が政権を取っても、新しい原子炉がほしいだろう。ハンガリーは小
国。廃炉になったら、どこからエネルギーを得られるのか。

ハンガリーのパクシュ原発
東欧ハンガリー唯一の原発。ドナウ川沿いの町パクシュに旧ソ連が原子炉4基を建設し、
1980年代に稼働を始めた。現在、国内で消費される電力の約3分の1を発電する。2030年代
には順次廃炉になる見通しで、オルバン政権はロシアと最新型の加圧水型炉VVER1200を2
基増設することで合意し、建設費用の約8割にあたる100億ユーロ(約1兆2000億円)の融
資を受けると決めた。今年6月、増設関連の工事が始まった。

近くに、2022年までに原発を止める選択をしたドイツがある。ドイツは再生可能エネルギ
ーを開発する技術力はあるが、安定していないのが問題だ。太陽光発電は夜は発電できな
い。風は明日吹くかどうか分からない。やっぱり安定している発電所がほしい。だから、
ハンガリーに原発があると、ドイツもうれしいはずだ。ドイツ人はどうしても自分の土地
に原発を造りたくないないが、欧州連合(EU)の域内なので(電力の)貿易は簡単だ。ハ
ンガリー人もドイツ人も満足できる。

オルバン首相は入札を経ずに直接ロシアに原発を発注し、建設費の8割をロシアから融資
してもらうと決めた。ハンガリーが加盟するEUは競争原理に反するとしたが、私はオルバ
ン首相は素晴らしいことをしたと思う。

――米国とロシアは核エネルギー開発でしのぎを削ってきた。ロシア人にとって核エネル
ギーとはどういう存在なのですか。

平和利用の場合、ロシアにとって原子力発電は電力の2割。五つのライトのうち一つは原
発の発電だ。安全保障の分野で見てみると、核兵器になる。

(原発をなくした場合)CO₂の排出を減らすため、何で代替するのか。例えば発電に天然
ガスを利用するにしても、どれくらい使い続けられる埋蔵量があるのか。全部使えば、孫
たちの世代はどうなるか。次の世代のことを考えなければならない。だから核の平和利用
は一定の割合あった方がいい。ロシアの2割はとてもいい割合だ。

日本人が原発に反対していることも理解できる。旧ソ連でもチェルノブイリの事故があっ
た。原子力の平和利用にも危ない点があることは、日本人の学者も、我々も分かっている
。それを理解した上で、責任感を持つことが大事だ。

残念なことに、人間の理解は事故がなければ深まらない。アメリカもスリーマイル島の事
故でつらい経験をした。旧ソ連はチェルノブイリ、日本は福島。もちろん1回の事故だけ
で済んでいたらよかった。日米ロいずれも原発事故にあい、どれだけ危険なのかを経験し
た。逆説的だが、(これによって)核の平和利用は危なくなくなるだろう。おかしいこと
を言っているように聞こえるかもしれないが、日本の原子炉は世界で一番危なくない原子
炉になると思う。アメリカの原子炉も、ロシアの原子炉もそうだ。厳しい経験をし、それ
なりの代償を払ったのだ。アメリカ人も、ロシア人も、日本人も、核は危ないものだとし
て対応できれば大丈夫だ。

――核エネルギーはロシア人にとってアイデンティティーと言えますか。

その言い方は、ちょっと強すぎる。バレエやウォッカは誇りにしているが。

――それでは誇りですか。

専門家として「はい」と言える。チェルノブイリ事故のつらい経験をし、教訓を得た。誇
りを持てる理由は、事故後、能力を高めた原発を造ったからだ。

アレクサンドル・ウバロフ
1965年生まれ。「ロシアの原発発祥の地」オブニンスクの学校で原子炉の設計を学んだ。
1983~2005年、国営原子力企業ロスアトムで放射線測定などに従事。退職後、オブニンス
クで原子力コンサルタント業「アトム・インフォセンサー」を立ち上げた。ロスアトムの
元エンジニアなど社員は約10人。インターネット上で原発関係の情報を集めた「新聞」も
発行している。

特集「核の夢 二つの世界」に登場した世界中の原子力専門家に核のいまと未来を聞いた
インタビューを掲載します。明日は昨年日本支社を開いたロスアトムの支社長に、日本進
出の狙いなどを聞きます。

 

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