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台湾にはなぜ親日派が多いのか

2017年09月18日 | 台湾

 

 台湾は日清戦争後に清から日本に割譲された植民地でしたが、同じく多くの日本人が移住した韓国や中国では反日感情が今も尚くすぶっているにも関わらず、台湾だけが反日感情を持っている人が少ないどころか親日派が多いのは不思議です。それはどうしてでしょう。

 

清代の台北古地図

 

 明治時代の文明開化で日本は都市部を中心に一気に近代化していますが、植民地となった台湾や韓国の中心部も同様にインフラ整備をして近代化していきました。それまでのそれらの地域はどこも道路は狭く木造の古い家屋が点在するだけの田舎町だったのが、日本からの資金を大量に投入し、区画整理されて近代的な建物に建てかえられ、鉄道やバス、下水道や電気網などのインフラだけでなく病院や学校も次々に建てられ、入植した日本人だけでなく現地人に対しての教育普及にも力を注ぎました。そしてそれぞれの地域に即した産業や農業の開発・普及にも尽力し、経済的にも大発展していきました。もちろん収益の多くは、莫大な資本投資をした日本国や日本の大企業が吸い取ってはいました。また、現地の人々に対し不当な扱いをすることもあったようですが、それは一部の日本人だけでした。

 

日本統治時代の台湾総督府(2016年11月撮影)

米軍の爆撃で破損した部分を改築して中華民国総統府として現在も使用されています。

 

 台湾では台湾総督府を始めとして、各地の自治体や支店を構える企業などの主立ったポジションは日本人の多く占めましたが、現場では多くの台湾人が採用されていました。

 学校教育に関しても、同じ教室で日本人と台湾人が一緒に学んでいましたし、優秀な台湾人は日本人に混じって高度な教育を受けることができていました。このようなことは当時の西洋諸国が進出していたアジア各地の植民地では考えられないことです。

 

建国高級中学校

日本統治時代の台北第一中学校(2016年11月撮影)


 終戦前の1944年6月にサイパン島が陥落したことで、米軍の次の目標が台湾ではないかという憶測が流れ、多くの日本人が家や家財道具などを現地の人に譲り船で本土を目指しました(その多くは米軍潜水艦によって撃沈されましたが)。

 日本の敗戦によって多くの台湾の人たちは米軍による爆撃や植民地政策から開放されて喜こび、中国本土から渡ってきた国民党軍を旗を振って迎えました。しかしその喜びは束の間で終わってしまいました。というのも、中国本土の共産党軍との戦いに敗れて渡ってきた国民党軍の兵士たちは、台湾各地で我が物顔に振るまい、弾圧と略奪、そして殺戮を繰り返し、日本の教育を受けた台湾人エリートたちを中心に数万人が集団処刑や無差別虐殺の犠牲となってしまいました(二二八事件)。

 

忌まわしい二二八事件を祈念して造られた公園(2016年11月撮影)

 

 このことがあってから、台湾の人たちの口から「日本の統治時代は良かった」という言葉が囁かれるようになり、その印象がそのまま次の世代へも引き継がれているということです。

 日本の統治時代を経験していない若い台湾の人たちの間にも、日本のアニメやファッションを含む日本の若者文化が広がっていますが、これは、親から受け継いだ親日的なイメージに加え、韓国や中国のような反日教育を殆ど受けずに育ったことから、それらを素直に受け入れられるのでしょう。

 

高雄市 地下鉄美麗島駅(2016年11月撮影)

 

 過去の戦争の悲惨さは決して忘れてはいけませんが、その過ちを犯した人々の殆どはもうこの世にはいません。すっかりグローバル化し、地球の反対側に住んでいる人たちと国境を気にすることなくいつでもテレビ電話が出来るようになった現在、私達の次の世代のためにも、世界の人々が風化した過去の歴史にこだわることなく、自由に交流できるようにしていきたいものです。

 





2 コメント

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植民地 (Jamco)
2017-09-18 16:30:57
マダガスカルで、「何故日本はマダガスカルを植民地にしてくれなかった?」と云われました。日本の植民地だった台湾や韓国は日本のお蔭で経済が発展したのがその理由だそうです。フランスは何もかも持って行ってしまいましたが、日本は残しました。ac2esskさんのお説の通りです。
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植民地 (ac2essk(巣林一枝))
2017-09-18 17:03:32
>Jamcoさん
メッセージありがとうございます。そして読者登録もありがとうございます。
マダガスカルの人の話しは社交辞令でしょうが、確かに日本は各国へ経済発展の元を残していきました。
ただ、当時の日本の場合は植民地というより領地という感覚でしたから、現地からの搾取よりも都市としての拠点を増やしていきたかったのでしょう。
因みに私の父は湾生で、祖父は台湾総督府に勤務しておりました。
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