だったそうです。
他の方のブログ等々を見て回って知った情報なのですが、
まだ終わってなかったのですね・・・撮影。
堺さんのエッセー「文・堺雅人」先月号冒頭には
「ドラマ『篤姫』の撮影がおわった」と書かれていたので
てっきり終わっているものだとばかり思ってました。
いや、そう思うでしょう。誰だって。
堺さんのエッセーの内容って個人的なことというより、
TVのオンエアや映画公開に合わせた
お仕事関連の内容がメインのようだから、
ああいう書き方にならざるをえなかったのかもしれませんね。
と言っても、まだ2回しか読んでないんですが。私(汗)
確かに
「ドラマ『篤姫』の(生存中の家定の)撮影がおわった」と
書くわけにはいかないし、
「撮影は残っているが、とりあえず家定は薨去した」とも
書けないだろうし。
正直に書いたら、家定薨去の衝撃は薄れてしまうだろうし。
結局、ドラマの展開に合わせてああ書くしかなかったんでしょうね。
熱狂的なファンの要望にこたえた追加撮影とも取れますが、
何やらそうでもないようなのです。
不覚にも、どの回で登場されるのか知ってしまいました。
いくつかのサイトを回っていたら、目に飛び込んでしまいました。
ううう・・・・(泣)
知らなかったほうがよかった・・・
ああ、この記憶を消し去ってしまいたい。
それにしても、家定公は亡くなってもちょこちょこ登場されますね。
回想という形で。
堺さんファンではありますが、個人的意見としては
スパッと出なくなったほうがいいのではないかと思います。
確かに、見たいですよ。堺さん。
でも、今まで篤姫にも、徳川家にも重大な位置を占めていた家定が
亡くなったことで、動乱の時代に突入していくのだから
家定が「いなくなったこと」をもっと強調すべき、
つまり登場させないほうがいいと思うのです。
篤姫の心の中には、いつまでも夫家定が生きているはずで、
それを「回想=映像」として表現していますが、
映像以外の形で表現、描写することも、出来るのではないのでしょうか?
脚本、演出等々の力で。
なんてエラそうなことを考えてしまいました。
他の方のブログ等々を見て回って知った情報なのですが、
まだ終わってなかったのですね・・・撮影。
堺さんのエッセー「文・堺雅人」先月号冒頭には
「ドラマ『篤姫』の撮影がおわった」と書かれていたので
てっきり終わっているものだとばかり思ってました。
いや、そう思うでしょう。誰だって。
堺さんのエッセーの内容って個人的なことというより、
TVのオンエアや映画公開に合わせた
お仕事関連の内容がメインのようだから、
ああいう書き方にならざるをえなかったのかもしれませんね。
と言っても、まだ2回しか読んでないんですが。私(汗)
確かに
「ドラマ『篤姫』の(生存中の家定の)撮影がおわった」と
書くわけにはいかないし、
「撮影は残っているが、とりあえず家定は薨去した」とも
書けないだろうし。
正直に書いたら、家定薨去の衝撃は薄れてしまうだろうし。
結局、ドラマの展開に合わせてああ書くしかなかったんでしょうね。
熱狂的なファンの要望にこたえた追加撮影とも取れますが、
何やらそうでもないようなのです。
不覚にも、どの回で登場されるのか知ってしまいました。
いくつかのサイトを回っていたら、目に飛び込んでしまいました。
ううう・・・・(泣)
知らなかったほうがよかった・・・
ああ、この記憶を消し去ってしまいたい。
それにしても、家定公は亡くなってもちょこちょこ登場されますね。
回想という形で。
堺さんファンではありますが、個人的意見としては
スパッと出なくなったほうがいいのではないかと思います。
確かに、見たいですよ。堺さん。
でも、今まで篤姫にも、徳川家にも重大な位置を占めていた家定が
亡くなったことで、動乱の時代に突入していくのだから
家定が「いなくなったこと」をもっと強調すべき、
つまり登場させないほうがいいと思うのです。
篤姫の心の中には、いつまでも夫家定が生きているはずで、
それを「回想=映像」として表現していますが、
映像以外の形で表現、描写することも、出来るのではないのでしょうか?
脚本、演出等々の力で。
なんてエラそうなことを考えてしまいました。