今、手元にある早川書房の「卒業」の翻訳本は(多分)3代目。ヘミングウェイの「老人と海」、フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」と同じように、引っ越しなどで廃棄しても、何年か経つと又読みたくなる小説の一つです。
原題は映画と同じ【THE GRADUATE】。作者はCharles Webb(チャールズ・ウェッブ)。
アメリカで発行されたのが1963年(J・F・Kがダラスで暗殺された年です)。一躍センセーショナル・ベストセラーにのし上がり、約200万部という驚異的な売れ行きを示したと言うことです。
ウェッブは<1939年、サンフランシスコ生まれ>ですから、22、3歳の時に書いたことになります。<東部、マサチューセッツ州のウィリアムス・カレッジを卒業し、専攻はアメリカ史及びアメリカ文学>との事。まさにベンジャミンは彼自身がモデルのようです。
<本書は小説(ノヴェル)であって、せりふ台本(ダイアログ・シート)ではもちろんない。>
訳者:佐和 誠氏が原作を評して、あとがきの最初に語ったこの言葉のように、この小説の最大の特徴はその台詞の多さです。そして、その台詞が登場人物の感情や心の動きを巧く表現していて実に面白い。加えて言えば、この本にはせりふ台本で言うところの“ト書き”の部分に、一般的な小説でみられる登場人物の内面を記した文章がないということです。
『○○は、××を見て++と思った』とか、『○○は、△△に++を感じた』などというような文章です。
それはまるでハードボイルド小説のようですが、その徹底ぶりはヘミングウェイ以上と言えるでしょう。それでいて、中身は登場人物の感情や心の動きが良く分かる。それほど、シチュエーションの構成と台詞が巧いということです。
登場人物の動きなどは勿論表現してあるのですが、それも芝居の台本のように、いやそれ以上に映画のカメラのようにフォーカスのあて方が巧いです。
例えば、ベンジャミンとミセス・ロビンソンの逢瀬がマンネリ化した頃、ホテルのベッドの上で、たまには話をしようとベンジャミンが言い出し、話の流れでエレーンの名前が出た時のやりとりです。
ミセス・ロビンソンはエレーンの話はしたくないと言い、ベンジャミンはそれは娘を会わせたくないという母親の気持ちの表れで、ひいてはロビンソン夫人がベンジャミンをくだらない人間だと思っているからだと、彼は考える。ベンジャミンは怒り、ロビンソン夫人を反吐がでそうだとなじり、脱いでいた洋服を着ようとする。
<そのまま、彼はくるりとうしろをふりむき、床の上のシャツを取りあげると、やおら腕をとおしはじめた。ロビンソン夫人がベッドのはしから立ち上がった。その目が、シャツのボタンをかけ、その裾をズボンにたくしこんでいるベンジャミンの動きを追っている。
「ベンジャミン?」女が言った。
彼はかぶりをふった。>
この後、ロビンソン夫人はベンジャミンの言葉に傷ついたと言い、ベンジャミンは言い過ぎたと謝る。そんなやりとりの中で、服を着て帰ろうとしている若い男を見つめながら、何事かを考えている中年女の姿が浮かんでくるわけです。
台詞の上手さで言えば、こんなやりとりもあります。
終盤近く、ミスター・ロビンソンが主人公ベンジャミンのアパートを訪ね、エレーンと会わないように言う場面です。
「ベン、私たちはお互いに常識というものを心得ている人間のはずだ。脅迫みたいな子供じみた真似はやめてくれんかね。」
「脅迫なんかしていませんよ。」
「それじゃ、こぶしを握りしめるのだけはやめてくれ。よろしい。」
この台詞のやりとりでベンジャミンがこぶしを握って話をしていたこと、やめてくれと言われてこぶしを開いたこと、などが分かります。
この小説以上に複雑な人間心理を描いた小説はごまんとありますが、これら映画のような場面設定の面白さや台詞の活き活きとしたやりとりが味わえるのは希有な作品だと思っています。
前半はほとんど映画と同じ。脚本家は、どう作るかよりも、どこを削るかに苦心したのではないでしょうか。台詞もそのままと言っていい場面が多々あり、この本を何度も買い換えている最大の要因は、それらのせりふを読む度に映画のシーンが思い出されるからでしょう。人物の心理を表現するのに、原作では手紙も結構登場しましたが、この辺は小説ならではの手法ですね。
ウェッブは「卒業」の後、「体験」、「結婚」という、いわば青春三部作ともいうべきものを書き上げています。後の2作とも早川書房から出版されていて、「体験」は大昔に読みました。内容は忘れましたが、文体が全く同じだったという印象は残っています。翻訳も同じ佐和誠氏でした。
「結婚」は、71年に「実験結婚」というタイトルで映画化されています。「卒業」のプロデューサー、ローレンス・ターマンの初監督作品で、主演がリチャード・ベンジャミンとジョアンナ・シムカス。日本では未公開との事でした。映画には期待できなくとも(ターマンの監督作は二つだけ)、当時も今も、この出演者なら観てみたいと思いますね。
(続く)
原題は映画と同じ【THE GRADUATE】。作者はCharles Webb(チャールズ・ウェッブ)。
アメリカで発行されたのが1963年(J・F・Kがダラスで暗殺された年です)。一躍センセーショナル・ベストセラーにのし上がり、約200万部という驚異的な売れ行きを示したと言うことです。
ウェッブは<1939年、サンフランシスコ生まれ>ですから、22、3歳の時に書いたことになります。<東部、マサチューセッツ州のウィリアムス・カレッジを卒業し、専攻はアメリカ史及びアメリカ文学>との事。まさにベンジャミンは彼自身がモデルのようです。
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<本書は小説(ノヴェル)であって、せりふ台本(ダイアログ・シート)ではもちろんない。>
訳者:佐和 誠氏が原作を評して、あとがきの最初に語ったこの言葉のように、この小説の最大の特徴はその台詞の多さです。そして、その台詞が登場人物の感情や心の動きを巧く表現していて実に面白い。加えて言えば、この本にはせりふ台本で言うところの“ト書き”の部分に、一般的な小説でみられる登場人物の内面を記した文章がないということです。
『○○は、××を見て++と思った』とか、『○○は、△△に++を感じた』などというような文章です。
それはまるでハードボイルド小説のようですが、その徹底ぶりはヘミングウェイ以上と言えるでしょう。それでいて、中身は登場人物の感情や心の動きが良く分かる。それほど、シチュエーションの構成と台詞が巧いということです。
登場人物の動きなどは勿論表現してあるのですが、それも芝居の台本のように、いやそれ以上に映画のカメラのようにフォーカスのあて方が巧いです。
例えば、ベンジャミンとミセス・ロビンソンの逢瀬がマンネリ化した頃、ホテルのベッドの上で、たまには話をしようとベンジャミンが言い出し、話の流れでエレーンの名前が出た時のやりとりです。
ミセス・ロビンソンはエレーンの話はしたくないと言い、ベンジャミンはそれは娘を会わせたくないという母親の気持ちの表れで、ひいてはロビンソン夫人がベンジャミンをくだらない人間だと思っているからだと、彼は考える。ベンジャミンは怒り、ロビンソン夫人を反吐がでそうだとなじり、脱いでいた洋服を着ようとする。
<そのまま、彼はくるりとうしろをふりむき、床の上のシャツを取りあげると、やおら腕をとおしはじめた。ロビンソン夫人がベッドのはしから立ち上がった。その目が、シャツのボタンをかけ、その裾をズボンにたくしこんでいるベンジャミンの動きを追っている。
「ベンジャミン?」女が言った。
彼はかぶりをふった。>
この後、ロビンソン夫人はベンジャミンの言葉に傷ついたと言い、ベンジャミンは言い過ぎたと謝る。そんなやりとりの中で、服を着て帰ろうとしている若い男を見つめながら、何事かを考えている中年女の姿が浮かんでくるわけです。
台詞の上手さで言えば、こんなやりとりもあります。
終盤近く、ミスター・ロビンソンが主人公ベンジャミンのアパートを訪ね、エレーンと会わないように言う場面です。
「ベン、私たちはお互いに常識というものを心得ている人間のはずだ。脅迫みたいな子供じみた真似はやめてくれんかね。」
「脅迫なんかしていませんよ。」
「それじゃ、こぶしを握りしめるのだけはやめてくれ。よろしい。」
この台詞のやりとりでベンジャミンがこぶしを握って話をしていたこと、やめてくれと言われてこぶしを開いたこと、などが分かります。
この小説以上に複雑な人間心理を描いた小説はごまんとありますが、これら映画のような場面設定の面白さや台詞の活き活きとしたやりとりが味わえるのは希有な作品だと思っています。
前半はほとんど映画と同じ。脚本家は、どう作るかよりも、どこを削るかに苦心したのではないでしょうか。台詞もそのままと言っていい場面が多々あり、この本を何度も買い換えている最大の要因は、それらのせりふを読む度に映画のシーンが思い出されるからでしょう。人物の心理を表現するのに、原作では手紙も結構登場しましたが、この辺は小説ならではの手法ですね。
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ウェッブは「卒業」の後、「体験」、「結婚」という、いわば青春三部作ともいうべきものを書き上げています。後の2作とも早川書房から出版されていて、「体験」は大昔に読みました。内容は忘れましたが、文体が全く同じだったという印象は残っています。翻訳も同じ佐和誠氏でした。
「結婚」は、71年に「実験結婚」というタイトルで映画化されています。「卒業」のプロデューサー、ローレンス・ターマンの初監督作品で、主演がリチャード・ベンジャミンとジョアンナ・シムカス。日本では未公開との事でした。映画には期待できなくとも(ターマンの監督作は二つだけ)、当時も今も、この出演者なら観てみたいと思いますね。
(続く)
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