(1971/サム・ペキンパー監督/ダスティン・ホフマン、スーザン・ジョージ、ピーター・ヴォーン、ピーター・アーン、T・P・マッケンナ、デヴィッド・ワーナー)
思い出の作品から。
かけ出しの頃の一時期に、ドン・シーゲルに可愛がられたフシのあるサム・ペキンパーが、「ワイルドバンチ(1969)」でブレイクした後に作ったのがこの作品。その後「ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦(1972)」「ゲッタウェイ(1972)」と続くが、この頃が一番脂ののった時期だったと思う。
「卒業(1967)」「真夜中のカーボーイ(1969)」、ミア・ファーローと共演した「ジョンとメリー(1969)」の後、アーサー・ペンの「小さな巨人(1970)」でインディアンになったり白人になったりと大忙しだったダスティン・ホフマンが、次に選んだのがサム・ペキンパー作品ということで、当時は、さてどんな映画なんだろうと興味津々だった。
スローモーションで大男が血しぶきをあげながら暴れるシーンと小さな演技派。想像しにくい取り合わせだったが、これが意外にもというか、非力なホフマンだからこそ出来た、ある意味痛快作だった。
細かいストーリーは忘れたが大凡次のような話であった。
研究肌の数学者が静かな環境を望んで、若い妻の故郷の田舎町に引っ越す。妻の知り合い達が、古い家の修理を手伝ったりしてくれるが、妻はあんまりかまってくれない夫に不満で、昔からの知り合いの男達にも、そのような素振りをつい見せてしまう。男達の中には昔のボーイフレンドもいた。
田舎の荒くれ男達は、最初こそ地元の娘が結婚して帰ってきたということで夫婦に親切にしていたが、いわば“男らしい”ところの少ない小さな亭主を陰でバカにする。
ある日、半分妻の挑発に乗って、男達は数学者を狩りに誘い出し、その間に欲求不満の妻をレイプする。
狩りから帰ってきた夫に何も話をしない妻。夫も感づいているようだが・・・。
この辺の雰囲気は、ダスティン・ホフマンならではの微妙なところで、下手な昼メロのような分かり易い演出にはなっていない。ホフマンを選んだのは正解だと思う。
学者夫婦に対して、男達は少しずつ嫌がらせのようなこともする。
そんな時、地元の知恵遅れの男性と荒くれ男共の関係の女の子が、事件というか事故というか、ある接触があって、女の子が死亡する。成り行きで、数学者はその男性を家に入れるが、それを知った村の男達が夫婦の家へ乗り込んでいく。
チンピラのような、フーリガンのようなそんな雰囲気を持ったアングロサクソンが、5、6人で押しかけるんだが、ついにそれまでバカにされていた小男の数学者が、思いも寄らぬ反撃に出る・・・・。
ココからが、この作品のクライマックスで、それまでにしっかりと醸成された鬱屈したムードが一気に爆発する。ペキンパーの狙いは当にここにあったわけだが、私には「ワイルド・バンチ」より数倍迫力があった。
可愛くてセクシーなスーザン・ジョージ。前年にマーク・レスターと共演した「小さな目撃者(1970)」までは可愛い女の子だったが、「わらの犬」でセクシーに変身。74年にP・フォンダと組んだ「ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー」でも明るくセクシーなヤンキー娘で、二人して悪い事をする。(日本のタレントでいえば山田優風? 優ちゃんには失礼か。)
例のレイプシーンは少しカットされているようで、多分そのまま編集するとR指定になったのではないかと私は推測している。
さて、「わらの犬」とはどう意味だろう。
<「わらの犬」とは老子の言葉で、『人民を「わらの犬」に例え、天地は命を吹き込んでは壊される「わらの犬」の如く扱うが、政治の要諦は人民を使い捨ての駒として使うのではなく、なにびとも分け隔てなく公平に扱うことにある』との教えである。」>と、ある映画サイトで説明されていた。当時もこの老子の言葉で説明されていたが、文章の後半は映画の意図としてはちょっと分かりにくい。
要するに、<人間なんて、運命の前では“わら”の様に脆いモノだ>という程度のことではないか。<人間の理性というモノは、いざというときには人間の性(サガ)、業(ゴウ)に抗えない、頼りないモノだ>という意味であろうと私は解釈している。
ピエトロ・ジェルミ監督・主演の「わらの男(1957)」(=割と面白い)やS・コネリーとジーナ・ロロブリジーダが共演した「わらの女(1964)」という“わら”ものがあるが、いずれもそのような解釈をしていいと思う。
ペキンパーは84年に脳卒中で亡くなった。享年59。
「ゲッタウェイ」が有名であるが、同じマックィーンの「ジュニア・ボナー」も忘れがたい作品だ。バイオレンスはないが、男臭い映画である。別の機会にご紹介したい。
思い出の作品から。
かけ出しの頃の一時期に、ドン・シーゲルに可愛がられたフシのあるサム・ペキンパーが、「ワイルドバンチ(1969)」でブレイクした後に作ったのがこの作品。その後「ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦(1972)」「ゲッタウェイ(1972)」と続くが、この頃が一番脂ののった時期だったと思う。
「卒業(1967)」「真夜中のカーボーイ(1969)」、ミア・ファーローと共演した「ジョンとメリー(1969)」の後、アーサー・ペンの「小さな巨人(1970)」でインディアンになったり白人になったりと大忙しだったダスティン・ホフマンが、次に選んだのがサム・ペキンパー作品ということで、当時は、さてどんな映画なんだろうと興味津々だった。
スローモーションで大男が血しぶきをあげながら暴れるシーンと小さな演技派。想像しにくい取り合わせだったが、これが意外にもというか、非力なホフマンだからこそ出来た、ある意味痛快作だった。
細かいストーリーは忘れたが大凡次のような話であった。
研究肌の数学者が静かな環境を望んで、若い妻の故郷の田舎町に引っ越す。妻の知り合い達が、古い家の修理を手伝ったりしてくれるが、妻はあんまりかまってくれない夫に不満で、昔からの知り合いの男達にも、そのような素振りをつい見せてしまう。男達の中には昔のボーイフレンドもいた。
田舎の荒くれ男達は、最初こそ地元の娘が結婚して帰ってきたということで夫婦に親切にしていたが、いわば“男らしい”ところの少ない小さな亭主を陰でバカにする。
ある日、半分妻の挑発に乗って、男達は数学者を狩りに誘い出し、その間に欲求不満の妻をレイプする。
狩りから帰ってきた夫に何も話をしない妻。夫も感づいているようだが・・・。
この辺の雰囲気は、ダスティン・ホフマンならではの微妙なところで、下手な昼メロのような分かり易い演出にはなっていない。ホフマンを選んだのは正解だと思う。
学者夫婦に対して、男達は少しずつ嫌がらせのようなこともする。
そんな時、地元の知恵遅れの男性と荒くれ男共の関係の女の子が、事件というか事故というか、ある接触があって、女の子が死亡する。成り行きで、数学者はその男性を家に入れるが、それを知った村の男達が夫婦の家へ乗り込んでいく。
チンピラのような、フーリガンのようなそんな雰囲気を持ったアングロサクソンが、5、6人で押しかけるんだが、ついにそれまでバカにされていた小男の数学者が、思いも寄らぬ反撃に出る・・・・。
ココからが、この作品のクライマックスで、それまでにしっかりと醸成された鬱屈したムードが一気に爆発する。ペキンパーの狙いは当にここにあったわけだが、私には「ワイルド・バンチ」より数倍迫力があった。
可愛くてセクシーなスーザン・ジョージ。前年にマーク・レスターと共演した「小さな目撃者(1970)」までは可愛い女の子だったが、「わらの犬」でセクシーに変身。74年にP・フォンダと組んだ「ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー」でも明るくセクシーなヤンキー娘で、二人して悪い事をする。(日本のタレントでいえば山田優風? 優ちゃんには失礼か。)
例のレイプシーンは少しカットされているようで、多分そのまま編集するとR指定になったのではないかと私は推測している。
さて、「わらの犬」とはどう意味だろう。
<「わらの犬」とは老子の言葉で、『人民を「わらの犬」に例え、天地は命を吹き込んでは壊される「わらの犬」の如く扱うが、政治の要諦は人民を使い捨ての駒として使うのではなく、なにびとも分け隔てなく公平に扱うことにある』との教えである。」>と、ある映画サイトで説明されていた。当時もこの老子の言葉で説明されていたが、文章の後半は映画の意図としてはちょっと分かりにくい。
要するに、<人間なんて、運命の前では“わら”の様に脆いモノだ>という程度のことではないか。<人間の理性というモノは、いざというときには人間の性(サガ)、業(ゴウ)に抗えない、頼りないモノだ>という意味であろうと私は解釈している。
ピエトロ・ジェルミ監督・主演の「わらの男(1957)」(=割と面白い)やS・コネリーとジーナ・ロロブリジーダが共演した「わらの女(1964)」という“わら”ものがあるが、いずれもそのような解釈をしていいと思う。
ペキンパーは84年に脳卒中で亡くなった。享年59。
「ゲッタウェイ」が有名であるが、同じマックィーンの「ジュニア・ボナー」も忘れがたい作品だ。バイオレンスはないが、男臭い映画である。別の機会にご紹介したい。
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて、但し女性は・・?】
TVの吹き替えは1回くらいあったような気もするけど、それも相当前ですしね。
観たい!
図書館探してみよ
構成上のカタルシスはないのですが、この感覚はよく解りますね。双葉師匠も同じようなコメントをしていたような気がします。
これを、スタローンとかシュワルツェネッガーがやっても面白くも何ともない(笑)。
>「ジュニア・ボナー」
僕もこの作品は大好き。
しかし、今世紀になって僕が観られるチャンネルでは出ていないような気がします。
図書館に在庫をチェックしたら、VHSですけれどありましたよ。今度借りてきましょう。見られたら書いてみます。
スーザンの代表作と言っていいでしょうが、ブロンソンと共演した「おませなツィンキー」でしたっけ、こちらも観てみたいっ!
「ジュニア・ボナー」は、VHSビデオなら置いてそうですけどねえ。
あらけずりなホンのようですがちゃんと言うべきところと伏線は施してありましたね。
ラスト、ヘンリーが「ぼく、これからドコへ行くの?」と聞くと
デーヴィッドが答える・・・
「ぼくも、わからないよ・・・・」
このイノセントなエンディング、いいじゃないですかーーーっ!
男臭いペキンパーと順風満帆だったホフマン、ワイルドなジョージ、面白かった~~。
「ジュニア・ボナー」、観たいのにレンタルに無いの。
しぶとく、探すわ!
スーザンはそれまでの『可愛い子ちゃん風なのが、本来の自分でなくて窮屈だった』というようなコメントを、当時していたような気がします。
「小さな目撃者」「わらの犬」「ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー」と続けて3本も見た私は、ファンだったんでしょうな。しかし、・・・55歳のスーザンって・・・!
人気絶頂のころの彼女が、あれだけの役に挑戦したのはすごいですよね。
「ジュニア・ボナー」、ボクも大好きなんですよ。久しぶりに見てみたい作品のひとつです☆
人間的視点から見れば、天地は命を与えてくれるし、衣食住も与えてくれるとても「仁」に一見思われる。しかし天地が個々の者に対して仁でないという視点は、人間的な好悪や苦楽の感情を越えたところで初めて言える。
戦争は繰り返され、生別死別等の苦しみは止むことはないことを指して、人間的な視点に降りてきて、仁ではないと言って見せている。鞴のたとえを用いることで無への意識がうかがえるのでニルヴァーナを前提にしている。