hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●浅草寺「大絵馬・寺宝展と庭園拝観」

2017-04-09 | Art

浅草寺「大絵馬・寺宝展と庭園拝観」http://e-asakusa.jp/culture-experience/5154

2017年3月10日(金)~5月8日(月)

 

先日、浅草を通りがかりに歩いていたところ、「伝法院大絵馬寺宝展」のポスターに遭遇。

柴田是真、歌川国芳、鈴木其一の文字に吸い寄せられ、浅草寺の本堂の南側の伝法院へ。伝法院は浅草寺の本坊。将軍や宮様の貴賓室として使用されていたそうで、この時期の期間限定公開。


絵馬は宝物殿に展示。所蔵200点の内の約60点。幅も高さも4m超えの巨大絵馬がびっしり。もとは本堂にかけてあったけれど、戦前に本堂修復の際に蔵に移されていたために、焼失を免れたそう。

写真不可だけれど、ガラスケースもなく、足止めすらもなく、むき出しでかえってひやひや。木肌の傷みや絵の具の剥落までく見える。

浅草寺の歴史もこの機に勉強になりました。推古天皇の時代にさかのぼること1400年。時の権力者に庇護され、江戸時代以降には庶民にも愛されたお寺。

絵馬は、元来は生きた馬が奉納されたのですが、次第に土や木材で作られるように。

 

室町後期~桃山時代の寄木造の神馬(幅約170センチくらい)は、目が玉眼で、ただならぬ気配。ご神体の風格。

 

それがいつしか、絵で描かれるように。

徳川秀忠(上段)、家光(下段)がそれぞれ奉納した、繋馬(つなぎうま)の金蒔絵もさらっと展示。

写真では同じ大きさだけれど、実際は家光のもの(下段)が一回り小さい。父に遠慮したのだとか。


いくつかの絵馬のうち、谷文晁の「神馬」1831 はとりわけ凄みがあった。

「絵馬がよなよな田畑を荒らすので、左甚五郎が綱を描きいれたら止まった」というあの伝説は、浅草寺の寛永の絵馬にまつわるものなのだとか。これはそれより年代が後の作なんだけれども、それを念頭にしたものか、絵から暴れ出てきそうな激しさ。

 

馬以外に、様々な題の絵馬が描かれるようになったのは、中世以降のこととのこと。

江戸中期になると都市の発展とともに力をつけた町民も、絵馬を奉納するようになる。

この町民パワーによる絵馬がとても面白かった。

奉納者の威信をかけた?巨大さ。(本来の絵馬の意味とまったく関係ない)モチーフの奇抜さ。もはやお披露目することが一大イベント、庶民の楽しみとして、話題もちきりだったかもしれない。


どれも超逸品だったけれど、年代不順に勝手に絞ってみた。

★★妖しの3TOP

人気町絵師の高嵩谷 (こうすうこく 1730-1804 )「源三位頼政ぬえ退治」1787(天明7年) は幅約4m。

描かれた人物のほうが観る者より大きいので、大迫力。頼政の眼がぎょろり。必死の抵抗をみせる黒々したぬえ。

その弟子の高嵩渓の「猩々舞」も、幅4mと圧巻の大きさ。大きい絵馬を頼むなら高さんとこって定評だったのかな?


歌川国芳「一つ家」1885年(安政2年) は吉原の遊郭「岡本楼」の発注。

浅草の近く、花川戸に残る伝説。ここに住む宿屋の老婆が娘を使って呼び込んだ客を襲って金品を奪う。999人目の客の稚児をかばった娘を、老婆は知らずに殺してしまう、するとその稚児は観音様だった、という伝説に基づく。

国芳の肉筆が嬉しい。

国芳は、この絵馬のお礼の宴席に呼ばれ、泊っていくよう勧められたけれども、断って帰ったところへ安政の大地震。岡本楼は倒壊し、国芳は命拾いをしたという逸話付きの絵。


柴田是真 「茨木」1883年(明治16年)

鬼の茨木が、羅生門で切り落とされた腕を、乳母に化けて取り返してきたところ。赤い腕をしっかり抱えて、ぶわっと風を巻き込んでいる鬼。振り返る鬼の緊迫感としてやったりの表情ときたら。

浅草に住んでいた是真。これは五代目尾上菊五郎の発注で、興行中は仕切り場に飾り、終了後に奉納されたもの。

 

★★歴史の名場面:日本編3TOP

寒川雲晃「盟神探湯(くかたち)」1870年

幅3.6mとこれも大きい絵馬。疑いを晴らすために、熱湯に手を入れ、真偽をはかる「くかたち」の場面。手を入れているすごい気迫のおじいさんこそ竹内宿祢。

覗き見る男女の目線と、もうもうとした湯気が印象深かった。

 

狩野一信「五条橋の牛若丸と弁慶」1847年(弘化4年)

なんだか三角形のバランスがいいというか。


長谷川雪旦「錣引き(しころびき)」1840年(天保10年)

歌舞伎の見えを切ったような、決めポーズで静止している感に拍手喝采送りたくなる。

源平物語のエピソードを描いた絵馬はいくつもあったけれど、これも屋島の合戦。(上側の)悪七兵衛景清が、三保谷四郎の兜のしころを引きちぎるシーン

長谷川雪旦(1778~1843)はもう一点あった。めったにないけど思いがけず作品を見かけ、そのたび足が止まってしまう雪旦。狩野派の門人。雪舟に私淑し、のち長谷川派を称した江戸生まれの絵師。

 

★★歴史の名場面:中国故事編2TOP どちらも悔しすぎな場面。

堤等林(三代)「韓信股くぐり」(天保期?)

漢の武将、韓信が若いころ、チンピラたちに股をくぐれという辱めに耐えたという、史記の逸話。チンピラたちがいかにもワルそう。こんな場面を絵馬にするのはどのような理由かあるのかな。

 

入江北嶺(1810~81)「子譲刺衣」1841(天保12年)

晋の子譲は、恩人の敵を取ろうとして捕らわれる。その忠義に免じ放免されるが、願い出て敵の衣をもらって刺し、自害する。

 

無念さがすごい。

函館生まれの絵師。この絵の評判を聞くため、3年間「乞食」にまじって、浅草寺に寝起きしたとか。子譲と同じく、執念の一枚。

 

★★おや、ここにあの方が!編

お、渡辺省亭の御師匠様では。 菊池容斎「堀川夜討」1848嘉永元年 

義経の寝所が急襲され、家臣の土佐坊昌俊が弓を貼る。さすが師匠。緊迫感と共に美しいなあ。奥で女性に起こされるのが義経かな。

省亭は、最初は上述の柴田是真に弟子入りを願い出たけれども、キミの絵なら菊池さんとこのほうが合ってるんじゃない?と言われ(たぶん)、是真が連れて行ってくれたとか。当時の絵師付き合いが面白そう。

 

おや、高橋由一の息子の高橋源吉が。「商標(ヤマサ←かさかんむりにカタカナのサ)感得」。油彩の絵馬も出てきた。

ヤマサ醤油の創業者が商標を考えていると、夢に娘が信心している浅草観音が現れ、筆を取らせたというもの。

机の紙には、ヤマサマークが書いてあった。額の下のところに、奉納者の「醤油の元祖、千葉県銚子港 濱内儀兵衛」と書いてある。展示の中では他に油彩はなかったと思うけれど、どうして高橋源吉に頼んだのかな。なにかつながりがあったのか、それとも広告効果を狙ったのかな?

 

鈴木其一「伽陵頻伽」1841年

サントリー美術館の其一展でも展示されていたけれど、ここではガラスなし、じっくり至近で見られて感激。木の傷みや絵の具の剥落まで。

奉納は「吉原二丁目の佐野槌屋」。

サントリー美術館では目がいかなかった額装も、解説があり、これは裏に額師として「源路房」と名があるとか。他の絵馬も木枠だけでなく、金物のあしらいのあるものも。きっと額装も見る目のある方が見れば見どころなのかもしれない。

 

★番外編:眠れない夜にはコレ

沖冠岳「四睡」1870年

見たときも今も、つられてあくびがでた。寝ているのは、寒山と拾得と虎。それが4mを超す大画面で、こんな顔して寝られちゃったらもう。


他には、川辺御楯、抱一の弟子の池田孤邨も。夢中になった絵馬めぐりでした。

 

 伝法院の庭は、混雑の仲見世とうってかわって美しく静か。拝観料300円の効果は絶大。

 

起伏にとんだ庭は、小堀遠州の造園。水辺もあり開放的で美しい上に、歩くと小川、木陰、ちょっと奥まった東屋、ひっそりした小径など隠れ家感。花も様々見つけられて、発見が楽しかった。

名前はなんだったかな

木瓜

カジイチゴ

シャクナゲモドキ

 この日は五重塔は改修中でしたが、塔みたいなフォルムのルピナスが代役を務めているかも。


 



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お早うございます (golfun)
2017-04-16 09:49:25
浅草寺「大絵馬・寺宝展と庭園拝観」
素晴らしい作品に魅了され何度もスクロールして見ました。
浅草寺には毎年参拝していましたが
体調不良で断念しています。
このような展示会には拝観したいと思いました。
ありがとうございました。
返信する
Re:お早うございます (87hanana)
2017-04-16 13:52:22
コメントありがとうございます。画集からの小さな写真で申し訳ない限りなのですが、実物は大きくて圧倒されました。公開日が浅草寺のHPでは出ていないようですが、浅草のイベント予定などには出ているようです^^。ご体調も早く良くなられますようお祈りしております。
返信する

コメントを投稿