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二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。」芸大美術館

2017-11-21 | Art

藝大美術館へ「皇室の彩」展を見に行きましたら、外まで連なる長蛇の列。

藝大美術館で混雑とは何かの間違い?と、《ここから20分》のプラカードをもつ方に聞いてみたら、先週からこうなんですよとのこと。

甘く見ていたッ。

展示室内も混雑で、上階から先に見ようかなと3階に上がったら、別の展覧会でした。(皇室展は地下だけでした。)

でもチラ見のつもりの3階の展覧会に、すっかりはまってしまったのです。以下備忘録です。

東京藝術大学130周年記念事業
全国美術・教育リサーチプロジェクト- 文化芸術基盤の拡大を目指して-
「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。パブロ・ピカソ」

2017年11月17日(金)- 12月3日(日)

 *

藝大の130 周年記念事業として、幼児期からつながる美術教育を問う、という主旨らしい。

入口には、藝大教授でもある日比野克彦さんとOJUNさんの、子供時代と現在の作品が並び展示されている。

 

日比野克彦さん 左側:「バラ」10歳 右側:「26 Aug, 016 in Brasil]Aug」2016

どちらが大人か子供かわからない。子供のころからそのまま保ち続けている、強さ、新鮮さ。日比野さんてすごい。

「どちらの絵も絵を描いた時のことはよく覚えている。(略)その二つの絵の間には、紙が一枚くらいしか入らないほどの隙間しかないのに。絵の外の時間と、絵の中の時間と、二つの時間が私にはあるような気がする。」

10歳も今も、画業として乖離してない!ほんの昨日のように密に続いている。いや、子供に負けないパワーを、画業を通して増している。

 

OJUNさん 左側:「夜の新宿」10歳  右側:「雪景」57歳

 

子供の時からうまいし、色彩感覚が豊かなんですねぇ。Ojunさんは、絵画教室帰りの西武新宿線のホームから見た歌舞伎町の景色を、「紙の上をキックするように描くのが楽しかった。それは今も同じ」と。

「雪景」は2011年3月から描き始めた。途中でやめたりしながら、人手に渡ってからもその方のお宅に頼み込んで上がり込み、2013年まで描き継いだとのこと。「こんな描き方をしたのは後にも先にもない」と。

何が描き足りなくて、何を埋めようと、あの2011年の3月から描き続けたのだろう。生きていること、次の瞬間にすべてが変わってしまうこと。そのはざまかもしれない今の瞬間に、自分がしていること、ただ描くこと。無心で無欲なタッチのように見える。

子供のころ「キックするように描くのが楽しかった」と言っていた。それは「今も同じ」と。そのタッチだ。その原点というべき自己が、2011年から一度はやめた画行を救ったんだろうか。

 

子供のころの絵の持つ意味の大きさに最初っから打たれてしまう。

 

さて中に入ると、幼稚園から、小、中、高、支援学校やろう学校の児童・生徒から、芸大の現役生・卒業生の作品が、等しく展示されている。

とりわけ心を動かされたのは、子供の作品。見ていて、とてもうれしくなった。

絵が強い。

「皆に感動を与えたいです」という抱負をなにかとよく聞くけれども、そんなことも考えてない作品に、これほどの感動や元気をもらっている。

(1枚を除き写真可。学校名と名前も表示されているけれど、ここでは題と学年だけ載せます)

 

「宇宙人」 幼稚園年中 4歳

おおこれほどの絵を大人になって破綻なく描けるだろうか。幼稚園の頃にかけたことが描けなくなる。保ち続けるむずかしさ。

 

「ヤンティとバナナ」幼稚園年長 6歳  図画の教科書にも採用されている。

「ぞうのヤンティがだいすきなバナナをいっぱいもらってよろこんでいて、わたしもうれしいきもちでかきました。ぞうがうれしそうなきもちになるように、いろをまぜながらぬりました」

私もうれしいきもちになりました。

 

「エティエン100%」 小学3年 今の自分を出し切ろうという思いで描いたので、100%というタイトルになったそう。

その時の身体を巡った軌跡。尊いとすら思うこのひたすらな行為。コレを、後に展示されている大人の画家たちの絵にも感じ取れたことに、改めて感動。

 

すばらしい絵巻も。今年は国宝も含め素晴らしい絵巻をたくさん見たけれども、これがダントツ。

「魚宴」山梨県立ろう学校中等部 小学二年(表示はこうなっていたけれど、検索すると11歳の時に描いたという記事があった)

池大雅も浦上玉堂も裸足で逃げ出す、いや、すぐにお友達になっちゃいそうな、このパワー。墨の線も、ふっくら力強く、もたもたしていなくて本当に気持ちがいい。

 

素晴らしい。なんといっても顔がいい~。

魚やイカタコたちの皮膚の表面を、長短、濃淡、多彩なタッチで描き分けている。

細密にして大胆。お魚たちやイカ足の動きや、身体のひねりがまた良くて

ナポレオンフィッシュに殴られているヤツがいる

子供なのに、この酔っ払いの境地を具象化するとは、タダモノではない。

チンアナゴがいる~

ああ楽しい。いいものを見せていただいた。

この子は今も絵を描いているだろうか。続編が見たいし、他の作品も見せてほしい。ファン一号のお願いです。

 

子供の絵だからって、天真爛漫・元気いっぱいに描いてるだけじゃありません。

黒い感情だって表現する。

「不快感」 中学3年

うわっものすごく伝わる。しかもざわつきが一度でなく、波のように多重に寄せてくる。それを何度も浴びた最後の一撃が、この爪に。

 

微妙なシュールさもね。(ポスターコンクールの受賞作。中学3年)

 

貯金箱コンクールの作も楽しいものぞろい。

「しあわせこいコイちょ金ばこ」

 

おやこトキかわいい~

 

造形も

「翼」中学1年

 

高校生の作品になると、感受性の繊細さ、鋭さに、こちらの心がどきりと振動する。

不意に突きつけられる、社会の不都合さ。ちゃんと見ているのだ。

「カーブミラー」

 

「除染」

 

いいないいなと見ていたら、最後に自分自身に問われて、うろたえる始末。

藝大の在校生、卒業生の作品で特に印象的だったもの。

上田智之「なんでもない研究」

「ものは、見ればみるほど味わいがあります。でも最後は見ないでかければ、一番いい。そうやって描いたものには愛を持ちます。」

 

佐野圭亮「夜の訪れ」

 

安田拓也「晩夏」

 

「生命の連鎖」盛田亜矢

万物と人と境界すらない。毛細血管でつながっている。

 

 油画教授の坂田哲也さんの「花の洗礼」は、子供の作品に混じって展示されていた(部分)。横にはご自身の10歳の作も(撮影不可)あったのだけど、よく似た印象。三つ子の魂100までも、というか、興味関心、感性って、つながっているのですよね。

 

中園孔ニ「無題」2015

 

宮崎瑞土「丹花」

「棘棘」

 

小柳景義「巨岩」

見る者の目線を起点に、下部は見下ろすように、上部は見上げる視線で描かれている。

細部を凝視するには虫メガネが必要・・。牛、ヤギ、滝・・

 このひたすらな行為に打たれる。子供に負けない。無垢というと子供を美化しすぎかもしれないけれど、なんと言おうか、要領の良さはない。人はこれを無駄という。 

 

山田彩加「命の森」

技術の高さはもちろんだけれど、見る者としては、その描く世界に完成を求めているわけではないのだ。

未だ熟さない内面性に惹かれるときがある。

 

「孤月への誘い」(部分)

 

向井大祐 勝川春章の現状模写及び装こう 

 

山口晃「来迎図」

「自明なことは見えづらいので、過去の形式を使うことで位相として何とかあぶりだせればという狙いです。などという理屈を考えながら、平置きにして墨を垂らすところから始め、あとは筆が転がるに任せるわけです」

 

すばらしい画家っていっても、幼少期のなにかから切り離されるわけではなく、連綿とつながっている。

大人の画家たちの絵は、子供の絵と変わらないのかも。結局は同じことを書こうとしている。

表現したいこと、率直な感情や心の奥深くに潜むものを、なんとか表現しようと、自分の手や体を動かし続ける。

問題は、タイトルにあるように、「大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」。

その意味では、ここに展示されている芸大の画家たちは、大人になっても芸術家でいる人たちなんでしょう。

子供のような、子供に負けない、無我さや無防備さを感じる絵が多かった。絵の好きな子供がその後も磨滅することなく描き続け、ふだんは眠っていても何かの時には飛び出してきてパワーになるのかもしれない。

日々葛藤して苦心しているかもしれないけれど。

 

藝大に行くような才能の持ち主じゃなくても、展示の冒頭では、美術教育の役割を、《価値観が多様化する現代に於いて、「自分を生き生きと表現する」若者を育成し、「生きる力を喚起し創造力ある」社会をつくるため》と言っている。

子供たちの絵は、自分を表現したよ、描ききったよっていう喜びを感じ取れたし、それを見て私も心動かされたのでした。



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